レイスと樋口の関係については,樋口の著書である『心に残るプロレス名勝負』を参考にしました。
僕のプロレスキャリアが始まったとき,樋口はスキンヘッドのレフェリーでした。今から思えば,選手と一緒に試合を作っていくタイプのレフェリーで,世界的にも高い評価を受けていたのも納得できます。同時に,全日本プロレスの外国人係も務めていましたが,そのことを知ったのもそう遅くはない時期であったと記憶しています。でもそれ以前の樋口に関しては,僕はこれを読むまで何も知りませんでした。この本は二部構成になっていて,第一部は樋口自身がレフェリーを務めたいくつかの試合の回顧。第二部が樋口自身の半生記になっています。第一部にも僕のキャリア開始以前の試合が多く含まれていますが,とりわけ第二部は,僕が知らなかったことがたくさん書いてありました。
そもそもかつては樋口がレスラーであったということを,僕は知らずにいました。さらに入門したのは1954年で,それが大阪にあった全日本プロレス協会という団体であったということも僕には意外でした。日本のプロレス黎明期に,力道山の日本プロレス以外にも団体が存在したということも,僕が知らなかったことだったからです。ただ,この団体の総帥だった山口利夫は,1955年に大阪で力道山のタイトルに挑戦したそうですから,必ずしも敵対関係にあったわけではないようです。
その後この団体は山口道場と改称。この道場所属として,樋口も1956年には日本プロレスに出場。道場のマネージャーの裏切りで団体が消滅したため,日本プロレスに移籍したそうです。
レフェリーは協会時代にすでに務めていたとのこと。外国人の世話を始めたのは日本プロレスに移ってから。1959年のレスラー引退を機に,一度は日本プロレスを離れたものの,第二の人生がうまくいかなかったことから1963年に外国人係として復帰。1965年からはレフェリーも兼務するようになったそうです。
もし樋口の第二の人生がうまくいっていたら,日本プロレスへの復帰もなかった筈。そうであったら,日本のプロレス史もかなり違ったものになっていたことでしょう。
限定と否定命題の関係は一般的原則です。各々の公理系はこの一般原則を基礎にして運用されます。『エチカ』の公理系の運用基準は以下のようなものです。
第一部定義二は,もしもあるものは自己の類の他のものに限定されないなら,そのものは有限finitumではない,いい換えれば無限infinitumであるということを含意します。しかしそのあるものは,一切の否定negatioを被らないというわけではありません。他の類のものによって否定されるという場合が,ここからは排除されているからです。そしてあるものが他の類のものを否定し得るということを,スピノザは認めています。第一部定義六説明のテクストはその証明であるといえます。ただ,たとえばAとBが異なった類であるなら,他面からいえばAとBが異なった属性attributumに属する共通点を有しないものであったら,AがBを否定してもそれは限定determinatioではないし,BがAを否定しても限定ではありません。要するに共通点を有さないものは,互いに互いを限定することはないのです。
具体的にいうなら,延長Extensioは思惟Cogitatioではないは真の命題です。思惟は延長ではないも真の命題です。したがって延長と思惟は互いに互いを否定し合いはしますが,限定し合うことはありません。よって『エチカ』の限定と否定の相関関係は,次のように示されなければなりません。
もしもAとBに共通点がないなら,AとBはどのような関係にあっても,つまり互いが互いを肯定しようと否定しようと,一方が他方を,また他方が一方を限定することはありません。つまりこの限りにおいて,否定は限定より広きにわたることになります。
AとBに共通点がある場合,AはBではないとBがAではないが共に真の命題であるとき,AはBをBはAを,否定しかつ限定します。この場合,限定と否定は同一です。
同じ条件のもと,AはBではないが真で,BはAではないが偽であるなら,AはBを限定し,BはAに限定されます。この場合にも限定と否定は同一であるということになります。ただし,テーゼにおいて主語が述語を限定するのであって,述語が主語を限定するのではないという点には注意が必要でしょう。
僕のプロレスキャリアが始まったとき,樋口はスキンヘッドのレフェリーでした。今から思えば,選手と一緒に試合を作っていくタイプのレフェリーで,世界的にも高い評価を受けていたのも納得できます。同時に,全日本プロレスの外国人係も務めていましたが,そのことを知ったのもそう遅くはない時期であったと記憶しています。でもそれ以前の樋口に関しては,僕はこれを読むまで何も知りませんでした。この本は二部構成になっていて,第一部は樋口自身がレフェリーを務めたいくつかの試合の回顧。第二部が樋口自身の半生記になっています。第一部にも僕のキャリア開始以前の試合が多く含まれていますが,とりわけ第二部は,僕が知らなかったことがたくさん書いてありました。
そもそもかつては樋口がレスラーであったということを,僕は知らずにいました。さらに入門したのは1954年で,それが大阪にあった全日本プロレス協会という団体であったということも僕には意外でした。日本のプロレス黎明期に,力道山の日本プロレス以外にも団体が存在したということも,僕が知らなかったことだったからです。ただ,この団体の総帥だった山口利夫は,1955年に大阪で力道山のタイトルに挑戦したそうですから,必ずしも敵対関係にあったわけではないようです。
その後この団体は山口道場と改称。この道場所属として,樋口も1956年には日本プロレスに出場。道場のマネージャーの裏切りで団体が消滅したため,日本プロレスに移籍したそうです。
レフェリーは協会時代にすでに務めていたとのこと。外国人の世話を始めたのは日本プロレスに移ってから。1959年のレスラー引退を機に,一度は日本プロレスを離れたものの,第二の人生がうまくいかなかったことから1963年に外国人係として復帰。1965年からはレフェリーも兼務するようになったそうです。
もし樋口の第二の人生がうまくいっていたら,日本プロレスへの復帰もなかった筈。そうであったら,日本のプロレス史もかなり違ったものになっていたことでしょう。
限定と否定命題の関係は一般的原則です。各々の公理系はこの一般原則を基礎にして運用されます。『エチカ』の公理系の運用基準は以下のようなものです。
第一部定義二は,もしもあるものは自己の類の他のものに限定されないなら,そのものは有限finitumではない,いい換えれば無限infinitumであるということを含意します。しかしそのあるものは,一切の否定negatioを被らないというわけではありません。他の類のものによって否定されるという場合が,ここからは排除されているからです。そしてあるものが他の類のものを否定し得るということを,スピノザは認めています。第一部定義六説明のテクストはその証明であるといえます。ただ,たとえばAとBが異なった類であるなら,他面からいえばAとBが異なった属性attributumに属する共通点を有しないものであったら,AがBを否定してもそれは限定determinatioではないし,BがAを否定しても限定ではありません。要するに共通点を有さないものは,互いに互いを限定することはないのです。
具体的にいうなら,延長Extensioは思惟Cogitatioではないは真の命題です。思惟は延長ではないも真の命題です。したがって延長と思惟は互いに互いを否定し合いはしますが,限定し合うことはありません。よって『エチカ』の限定と否定の相関関係は,次のように示されなければなりません。
もしもAとBに共通点がないなら,AとBはどのような関係にあっても,つまり互いが互いを肯定しようと否定しようと,一方が他方を,また他方が一方を限定することはありません。つまりこの限りにおいて,否定は限定より広きにわたることになります。
AとBに共通点がある場合,AはBではないとBがAではないが共に真の命題であるとき,AはBをBはAを,否定しかつ限定します。この場合,限定と否定は同一です。
同じ条件のもと,AはBではないが真で,BはAではないが偽であるなら,AはBを限定し,BはAに限定されます。この場合にも限定と否定は同一であるということになります。ただし,テーゼにおいて主語が述語を限定するのであって,述語が主語を限定するのではないという点には注意が必要でしょう。