小田原記念の決勝。並びは守沢‐佐藤の北日本,松井‐田中の南関東,清水‐柏野の山陽,佐々木‐久米の四国で石塚は単騎。
松井がスタートを取って前受け。3番手に守沢,5番手に清水,7番手に佐々木,最後尾に石塚で周回。残り3周のホームから佐々木がゆっくりと上昇。バックの出口で松井を叩きました。3番手に守沢がスイッチし,清水が5番手。7番手に石塚で引いた松井が8番手という一列棒状の隊列に変化。残り2周のホームから清水が発進。バックで佐々木を叩きました。守沢がまたスイッチしようとしましたが,叩かれた佐々木が引かなかったので,3番手は内に佐々木で外に守沢,その後ろも内の久米と外の佐藤で併走。石塚はこの後ろに。引いた松井は打鐘から発進。清水が自ら牽制にいきましたが,ホームで乗り越え,かまし先行に。田中と清水の車間が少し開いてしまい,優勝争いは前のふたり。田中はやや車間を開けて後ろを気にしながらの走行となり,直線から差を詰めにいきましたがさすがに届かず,逃げ切った松井が優勝。マークの田中が1車身差の2着に続いて南関東のワンツー。清水を抜きにいった柏野の外から伸びた守沢が2車身差で3着。柏野が4分の3車輪差の4着で清水は微差の5着。
優勝した神奈川の松井宏佑選手は昨年末のヤンググランプリ以来の優勝。記念競輪は一昨年12月の別府記念以来の2勝目。このレースは本命が清水で対抗が松井。勝負所で先行争いになりましたが,あっさりと決着をつけたことで,松井ラインが有利になりました。離れてしまう心配もありましたが,きちんと続いた田中も松井が逃げ切ってよいというようなレースをしましたので,その援護も大きかったと思います。
第五部定理二八は,第三種の認識cognitio tertii generisに向う努力conatusないしは欲望cupiditasが,第二種の認識cognitio secundi generisから生じることができるといっています。ここでは努力と欲望が等置されている点を考えなければなりません。

スピノザの哲学では欲望は,第三部諸感情の定義一から分かるように,人間が働きを受けるpatiと考えられる限りにおいて,その人間の本性natura humanaを意味します。第四部定理四系から分かるように,人間は現実的に存在する限りは常に働きを受けます。したがって欲望というのは,現実的に存在する人間にとっての本性を意味する,いい換えれば人間の現実的本性actualis essentiaを意味すると解することができます。
次に,スピノザが努力というとき,これはコナトゥスconatusを意味します。第三部定理七から分かるように,コナトゥスというのはそれ自体が各々の事物の現実的本性を意味します。いい換えれば現実的に存在する事物の本性そのものです。おそらく第五部定理二八で努力と欲望が等置されているのは,この観点からであると考えられます。つまりそれらは人間の,あるいは人間の知性intellectusの現実的本性として等置されていると考えられるのです。
すると第五部定理二八は,第二種の認識によって第三種の認識が現実的本性となることができるという意味に解することができるようになります。つまり人間の知性において,第二種の認識によって第三種の認識が現実的本性となるということをこの定理Propositioはいっていると解することができるのです。しかるに,第三種の認識がある人間の知性の現実的本性となるということは,その人間が現実的に第三種の認識によって何らかの事物を認識するcognoscereということにほかなりません。この定理は必ずそのようになるといっているわけではなく,そうなることができるといっているのですから,ある事柄を第二種の認識で認識すれば,それを第三種の認識で認識するようになるというわけではなく,あくまでもそうなるケースがあると解さなければなりません。しかしそうなるケースがあるのなら,第二種の認識の蓄積,近藤のいい方に倣うなら知識のストックが,それを第三種の認識で認識することの呼び水になり得るということを,この定理は意味していると考えられるのです。
松井がスタートを取って前受け。3番手に守沢,5番手に清水,7番手に佐々木,最後尾に石塚で周回。残り3周のホームから佐々木がゆっくりと上昇。バックの出口で松井を叩きました。3番手に守沢がスイッチし,清水が5番手。7番手に石塚で引いた松井が8番手という一列棒状の隊列に変化。残り2周のホームから清水が発進。バックで佐々木を叩きました。守沢がまたスイッチしようとしましたが,叩かれた佐々木が引かなかったので,3番手は内に佐々木で外に守沢,その後ろも内の久米と外の佐藤で併走。石塚はこの後ろに。引いた松井は打鐘から発進。清水が自ら牽制にいきましたが,ホームで乗り越え,かまし先行に。田中と清水の車間が少し開いてしまい,優勝争いは前のふたり。田中はやや車間を開けて後ろを気にしながらの走行となり,直線から差を詰めにいきましたがさすがに届かず,逃げ切った松井が優勝。マークの田中が1車身差の2着に続いて南関東のワンツー。清水を抜きにいった柏野の外から伸びた守沢が2車身差で3着。柏野が4分の3車輪差の4着で清水は微差の5着。
優勝した神奈川の松井宏佑選手は昨年末のヤンググランプリ以来の優勝。記念競輪は一昨年12月の別府記念以来の2勝目。このレースは本命が清水で対抗が松井。勝負所で先行争いになりましたが,あっさりと決着をつけたことで,松井ラインが有利になりました。離れてしまう心配もありましたが,きちんと続いた田中も松井が逃げ切ってよいというようなレースをしましたので,その援護も大きかったと思います。
第五部定理二八は,第三種の認識cognitio tertii generisに向う努力conatusないしは欲望cupiditasが,第二種の認識cognitio secundi generisから生じることができるといっています。ここでは努力と欲望が等置されている点を考えなければなりません。

スピノザの哲学では欲望は,第三部諸感情の定義一から分かるように,人間が働きを受けるpatiと考えられる限りにおいて,その人間の本性natura humanaを意味します。第四部定理四系から分かるように,人間は現実的に存在する限りは常に働きを受けます。したがって欲望というのは,現実的に存在する人間にとっての本性を意味する,いい換えれば人間の現実的本性actualis essentiaを意味すると解することができます。
次に,スピノザが努力というとき,これはコナトゥスconatusを意味します。第三部定理七から分かるように,コナトゥスというのはそれ自体が各々の事物の現実的本性を意味します。いい換えれば現実的に存在する事物の本性そのものです。おそらく第五部定理二八で努力と欲望が等置されているのは,この観点からであると考えられます。つまりそれらは人間の,あるいは人間の知性intellectusの現実的本性として等置されていると考えられるのです。
すると第五部定理二八は,第二種の認識によって第三種の認識が現実的本性となることができるという意味に解することができるようになります。つまり人間の知性において,第二種の認識によって第三種の認識が現実的本性となるということをこの定理Propositioはいっていると解することができるのです。しかるに,第三種の認識がある人間の知性の現実的本性となるということは,その人間が現実的に第三種の認識によって何らかの事物を認識するcognoscereということにほかなりません。この定理は必ずそのようになるといっているわけではなく,そうなることができるといっているのですから,ある事柄を第二種の認識で認識すれば,それを第三種の認識で認識するようになるというわけではなく,あくまでもそうなるケースがあると解さなければなりません。しかしそうなるケースがあるのなら,第二種の認識の蓄積,近藤のいい方に倣うなら知識のストックが,それを第三種の認識で認識することの呼び水になり得るということを,この定理は意味していると考えられるのです。