新潟市で指された昨日の第48期棋王戦五番勝負第三局。
藤井聡太竜王の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は先手の玉が自ら受けのために上部に出ていってから,後手の渡辺明棋王の方が指しやすくなり,後手が有利の終盤戦が延々と続くことになりました。
この直前に後手に明解な勝ち筋があり,それを逃したので後手玉も危なくなっている局面。ここから波乱が続きます。
後手は☖2六桂と打ったので,☗4八金と埋められて難解な局面になりました。もしかしたらまだ後手に手段があったのかもしれませんが,受けに回っても一手一手だろうということで☖1七金☗同香☖同桂成と進めました。これは先手に下駄を預けた形ですが,ここに至っては仕方がなかったのかもしれません。ただこれで逆転して局面は先手の勝ちに。第1図では後手の方から先に☖4八金と打っておかなければいけませんでした。
ところがこの後で,後手がどちらも難しそうな二者択一で後手玉がぎりぎりで詰まない方の手順を選んでしまったために再逆転となり,後手が勝っています。先手としては一瞬のチャンスを捕まえ損なったという一局であり,後手としては有利な時間が長かったので事なきを得たという一局だったように思います。
渡辺棋王が勝って1勝2敗。第四局は19日に指される予定です。
スピノザが可能世界を認めていないということを最もよく表しているのは,第一部定理二九です。そこでは自然Naturaのうちには偶然であるものはひとつとしてないといわれています。いい換えれば自然のうちには必然的なものだけが存在するのであって,必然的necessariusでないものは存在し得ないがゆえに,偶然といわれ得るいかなるものも存在しないと同時に,現にあるのとは異なった自然,これがつまり可能世界を意味することになりますが,そうしたものもないのです。これは,すべてのものが必然的にnecessario決定されているなら,そこに偶然なものが入り込む余地がないということを意味していると同時に,必然的な決定determinatioを受けていないものは存在したり作用したりすることが不可能なものであって,よってそうした不可能なものが可能であったということはできないという意味も有しているということから明らかです。
そしてこのことが,スピノザがいっている神Deusは自然科学的なものであるということと関係しているのです。なぜなら,この定理Propositioにあるように,自然のうちにあるものを存在existentiaと作用とに決定しているものこそ,神にほかならないからです。たちえば現実的にAというものが存在し,そのAが何らかの作用をするとき,それは神からの決定によって存在しまた作用しているのです。そしてこうしたことが,自然のうちに存在しまた作用するすべてのものに妥当するのです。よってここでいわれている神というのは,僕たちが慣れ親しんでいる語句でいえば,自然法則といわれるようなものです。実際にAを存在に決定しまた作用に決定するdeterminareのは,自然法則にほかならないからです。なので,スピノザが神の本性naturaの必然性necessitasというとき,それを自然法則といい換えたとしても,それほど大きな間違いが起こるわけではありません。ただしそのときに注意しなければならないのは,僕たちは自然法則という語句を,物体的な現象としてのみ理解しがちですが,スピノザがいう自然現象はそれにとどまるわけではなく,知性intellectusの思惟作用も含んでいるということです。いい換えればスピノザがいう自然というのは,必ずしも物体世界の全体を意味するのではなく,すべての思惟の様態cogitandi modiも含むのです。
藤井聡太竜王の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は先手の玉が自ら受けのために上部に出ていってから,後手の渡辺明棋王の方が指しやすくなり,後手が有利の終盤戦が延々と続くことになりました。
この直前に後手に明解な勝ち筋があり,それを逃したので後手玉も危なくなっている局面。ここから波乱が続きます。
後手は☖2六桂と打ったので,☗4八金と埋められて難解な局面になりました。もしかしたらまだ後手に手段があったのかもしれませんが,受けに回っても一手一手だろうということで☖1七金☗同香☖同桂成と進めました。これは先手に下駄を預けた形ですが,ここに至っては仕方がなかったのかもしれません。ただこれで逆転して局面は先手の勝ちに。第1図では後手の方から先に☖4八金と打っておかなければいけませんでした。
ところがこの後で,後手がどちらも難しそうな二者択一で後手玉がぎりぎりで詰まない方の手順を選んでしまったために再逆転となり,後手が勝っています。先手としては一瞬のチャンスを捕まえ損なったという一局であり,後手としては有利な時間が長かったので事なきを得たという一局だったように思います。
渡辺棋王が勝って1勝2敗。第四局は19日に指される予定です。
スピノザが可能世界を認めていないということを最もよく表しているのは,第一部定理二九です。そこでは自然Naturaのうちには偶然であるものはひとつとしてないといわれています。いい換えれば自然のうちには必然的なものだけが存在するのであって,必然的necessariusでないものは存在し得ないがゆえに,偶然といわれ得るいかなるものも存在しないと同時に,現にあるのとは異なった自然,これがつまり可能世界を意味することになりますが,そうしたものもないのです。これは,すべてのものが必然的にnecessario決定されているなら,そこに偶然なものが入り込む余地がないということを意味していると同時に,必然的な決定determinatioを受けていないものは存在したり作用したりすることが不可能なものであって,よってそうした不可能なものが可能であったということはできないという意味も有しているということから明らかです。
そしてこのことが,スピノザがいっている神Deusは自然科学的なものであるということと関係しているのです。なぜなら,この定理Propositioにあるように,自然のうちにあるものを存在existentiaと作用とに決定しているものこそ,神にほかならないからです。たちえば現実的にAというものが存在し,そのAが何らかの作用をするとき,それは神からの決定によって存在しまた作用しているのです。そしてこうしたことが,自然のうちに存在しまた作用するすべてのものに妥当するのです。よってここでいわれている神というのは,僕たちが慣れ親しんでいる語句でいえば,自然法則といわれるようなものです。実際にAを存在に決定しまた作用に決定するdeterminareのは,自然法則にほかならないからです。なので,スピノザが神の本性naturaの必然性necessitasというとき,それを自然法則といい換えたとしても,それほど大きな間違いが起こるわけではありません。ただしそのときに注意しなければならないのは,僕たちは自然法則という語句を,物体的な現象としてのみ理解しがちですが,スピノザがいう自然現象はそれにとどまるわけではなく,知性intellectusの思惟作用も含んでいるということです。いい換えればスピノザがいう自然というのは,必ずしも物体世界の全体を意味するのではなく,すべての思惟の様態cogitandi modiも含むのです。