昨日の第16期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は甲斐智美女流五段が3勝,加藤桃子女流三段が8勝。
振駒で加藤女流三段の先手となり,甲斐女流五段のノーマル三間飛車。先手が銀冠穴熊,後手が高美濃囲いの持久戦になりました。
第1図から先手は☗5五銀と指しました。これは直前に後手が桂馬を跳ねたことが関連していたのだと思います。
☖4五歩☗5四歩☖5五銀☗同角☖5四飛☗3三角成☖5八飛成☗1一馬と激しい捌き合いに。
第2図は瞬間的に先手の駒得ですが,後手は飛車を打ち込めば取り返せますから,それを先手の主張とすることはできません。先に香車を入手したことによって,後手が桂馬を跳ねたことによって薄くなった端からの攻めが成立するとみた手順です。しかし実際には飛車を打ってきた後手の攻めに対抗できるほどのものにはなっていませんでした。なので第1図からの捌き合いは先手に無理があったということになるでしょう。
甲斐女流五段が挑戦者に。マイナビ女子オープン五番勝負への出場は第4期以来12年ぶりになります。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの見解opinioに従えば,現にある世界は,神Deusによって選択された最善の世界です。よってもし世界が現にあるのと異なってあるのであれば,いい換えれば神が現に選択したのと異なったモナドMonadeを選択していたとしたら,その世界は最善の世界ではないことになります。ライプニッツの主張では神は善意に従ってすべての選択をなすのですから,最善でない世界を選択するということはありません。なので現にある世界は,それ以外の世界であることはできなかった世界であるということになります。つまり世界は現にあるのとは異なってあるということはできません。
もし神が自由意志voluntas liberaによってすべてを選択するのであれば,その自由意志は何かに従属,ライプニッツがいっていることに合わせていえば善bonumに従属するという必要はありません。ですから現にある世界が最善の世界であるという必要はありません。このことは善だけでなく,何であっても構わないのであって,神が何事かに従属しなくてもよい以上は,現にある世界がこのような世界でなければならないという必要はありません。一方,もし神が何かに従属しなければならないのであれば,その意志は自由意志といえません。よって現にある世界がどのような世界であっても構わないことになります。そしてこの世界は神の純粋な自由意志によって選択された世界なのですから,その自由意志は別の世界も選択することができたといわなければなりません。つまり神が自由意志によってすべてのことを選択するというデカルトRené Descartesの見解に従えば,現にある世界は現にある世界でなければならなかったという理由は何もありません。いい換えれば世界は現にあるのとは違ってあることができたということになります。
この観点だけに着目するなら,スピノザの主張はデカルトよりもライプニッツに近いのです。いい換えればスピノザによれば,世界は現にあるのとは異なってあるということはできません。これは第一部定理二九でスピノザがいっていることです。なぜなら世界は神の本性の必然性によって決定されるのですから,現にある世界はその必然性necessitasに則した世界であり,必然性に反することは生じないのです。
振駒で加藤女流三段の先手となり,甲斐女流五段のノーマル三間飛車。先手が銀冠穴熊,後手が高美濃囲いの持久戦になりました。
第1図から先手は☗5五銀と指しました。これは直前に後手が桂馬を跳ねたことが関連していたのだと思います。
☖4五歩☗5四歩☖5五銀☗同角☖5四飛☗3三角成☖5八飛成☗1一馬と激しい捌き合いに。
第2図は瞬間的に先手の駒得ですが,後手は飛車を打ち込めば取り返せますから,それを先手の主張とすることはできません。先に香車を入手したことによって,後手が桂馬を跳ねたことによって薄くなった端からの攻めが成立するとみた手順です。しかし実際には飛車を打ってきた後手の攻めに対抗できるほどのものにはなっていませんでした。なので第1図からの捌き合いは先手に無理があったということになるでしょう。
甲斐女流五段が挑戦者に。マイナビ女子オープン五番勝負への出場は第4期以来12年ぶりになります。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの見解opinioに従えば,現にある世界は,神Deusによって選択された最善の世界です。よってもし世界が現にあるのと異なってあるのであれば,いい換えれば神が現に選択したのと異なったモナドMonadeを選択していたとしたら,その世界は最善の世界ではないことになります。ライプニッツの主張では神は善意に従ってすべての選択をなすのですから,最善でない世界を選択するということはありません。なので現にある世界は,それ以外の世界であることはできなかった世界であるということになります。つまり世界は現にあるのとは異なってあるということはできません。
もし神が自由意志voluntas liberaによってすべてを選択するのであれば,その自由意志は何かに従属,ライプニッツがいっていることに合わせていえば善bonumに従属するという必要はありません。ですから現にある世界が最善の世界であるという必要はありません。このことは善だけでなく,何であっても構わないのであって,神が何事かに従属しなくてもよい以上は,現にある世界がこのような世界でなければならないという必要はありません。一方,もし神が何かに従属しなければならないのであれば,その意志は自由意志といえません。よって現にある世界がどのような世界であっても構わないことになります。そしてこの世界は神の純粋な自由意志によって選択された世界なのですから,その自由意志は別の世界も選択することができたといわなければなりません。つまり神が自由意志によってすべてのことを選択するというデカルトRené Descartesの見解に従えば,現にある世界は現にある世界でなければならなかったという理由は何もありません。いい換えれば世界は現にあるのとは違ってあることができたということになります。
この観点だけに着目するなら,スピノザの主張はデカルトよりもライプニッツに近いのです。いい換えればスピノザによれば,世界は現にあるのとは異なってあるということはできません。これは第一部定理二九でスピノザがいっていることです。なぜなら世界は神の本性の必然性によって決定されるのですから,現にある世界はその必然性necessitasに則した世界であり,必然性に反することは生じないのです。