16日にシャトーアメーバで指された第8期叡王戦挑戦者決定戦。対戦成績は永瀬拓矢王座が7勝,菅井竜也八段が3勝。
振駒で永瀬王座の先手。9筋を突き合ってから後手の菅井八段のごきげん中飛車。①-Bの形に進みました。後手がすぐに5筋の歩を突いたので,角交換から互いに角を打ち合う乱戦に。一段落したところでは先手が歩得,後手が金を持ち駒にしていることが主張点になりました。その後に先手が地下鉄飛車で飛車を9筋に。しかし次の戦いは中央から起こりました。
第1図まで進んだところで先手は☗9五歩と攻めていきました。☖同歩に☗9二歩☖同香☗9三歩☖同香☗8五桂☖9一香まで端を攻めて☗6一飛。後手はここで☖9六桂と王手を掛けました。
先手の玉が下に逃げると王手飛車が掛かる形でこの王手が厳しかったようです。第1図で端を攻めると後手に逆用されてしまいます。もしも地下鉄飛車にしたことを生かすのであれば,もっと早い段階で攻めていかなければいけなかったということになるでしょう。
菅井八段が勝って挑戦権を獲得。叡王戦の番勝負には初出場。第一局は来月11日に指される予定です。
僕自身の見解opinioとしていえば,人間に共通の本性essentiaというのは,持続するdurareといわれるような存在existentiaを有することはありません。人間に共通の本性というのは形相的本性essentia formalisとしてみた場合はそれが観念対象ideatumとなるのであって,その観念対象は単一でなければなりません。ところがそれを単一の観念対象としてみた場合に,人間の本性natura humanaが持続するといわれるのと同じ間だけ持続するような観念対象ではあり得ないからです。ひとりの人間が生成しまた消滅したとしても,ほかの人間が消滅していない限りは人間に共通の本性は存在するといわれなければならないのであって,単一の観念対象が人間に共通の本性であることはできません。よって,人間に共通の本性は持続するという存在を有することはできず,延長の属性Extensionis attributumの中に含まれる限りでのみ存在する形相的本性であると僕は解します。
ただしこれは僕の解釈です。人間に共通の本性が持続するといわれる限りでの存在を有することができるという見解にも一定の理はあるのであって,僕もそのことは否定しません。ですから仮にそのような見解を有するにしても,僕はそれに対して強く反論するということはありませんし,僕自身の見解に強く固執するというわけでもありません。ただ僕は人間に共通の本性,これは人間に限らず複数の個物res singularisに共通する本性というのがあるとすれば,それは持続するという存在は有さないという見解を採用するということです。
もうひとつの問い,人間に共通の本性を,現実的に存在する人間が十全に認識するcognoscereことができるのかという点に関しては,僕は少なくとも理論上はそれが可能であることにスピノザの哲学ではなっているというように解します。ただしこれは理論上はそれが可能であるというだけであって,現実的に存在するすべての人間がそれを十全に認識しているというような意味ではありませんし,十全に認識された観念ideaが,人間に共通の本性であるということを直ちに断定することができるということをいいたいわけでもありません。ただ,現実的に存在するどの人間も,ほかの現実的に存在する人間と関係をもつので,その中で人間に共通の本性は,少なくとも部分的には認識される筈です。
振駒で永瀬王座の先手。9筋を突き合ってから後手の菅井八段のごきげん中飛車。①-Bの形に進みました。後手がすぐに5筋の歩を突いたので,角交換から互いに角を打ち合う乱戦に。一段落したところでは先手が歩得,後手が金を持ち駒にしていることが主張点になりました。その後に先手が地下鉄飛車で飛車を9筋に。しかし次の戦いは中央から起こりました。
第1図まで進んだところで先手は☗9五歩と攻めていきました。☖同歩に☗9二歩☖同香☗9三歩☖同香☗8五桂☖9一香まで端を攻めて☗6一飛。後手はここで☖9六桂と王手を掛けました。
先手の玉が下に逃げると王手飛車が掛かる形でこの王手が厳しかったようです。第1図で端を攻めると後手に逆用されてしまいます。もしも地下鉄飛車にしたことを生かすのであれば,もっと早い段階で攻めていかなければいけなかったということになるでしょう。
菅井八段が勝って挑戦権を獲得。叡王戦の番勝負には初出場。第一局は来月11日に指される予定です。
僕自身の見解opinioとしていえば,人間に共通の本性essentiaというのは,持続するdurareといわれるような存在existentiaを有することはありません。人間に共通の本性というのは形相的本性essentia formalisとしてみた場合はそれが観念対象ideatumとなるのであって,その観念対象は単一でなければなりません。ところがそれを単一の観念対象としてみた場合に,人間の本性natura humanaが持続するといわれるのと同じ間だけ持続するような観念対象ではあり得ないからです。ひとりの人間が生成しまた消滅したとしても,ほかの人間が消滅していない限りは人間に共通の本性は存在するといわれなければならないのであって,単一の観念対象が人間に共通の本性であることはできません。よって,人間に共通の本性は持続するという存在を有することはできず,延長の属性Extensionis attributumの中に含まれる限りでのみ存在する形相的本性であると僕は解します。
ただしこれは僕の解釈です。人間に共通の本性が持続するといわれる限りでの存在を有することができるという見解にも一定の理はあるのであって,僕もそのことは否定しません。ですから仮にそのような見解を有するにしても,僕はそれに対して強く反論するということはありませんし,僕自身の見解に強く固執するというわけでもありません。ただ僕は人間に共通の本性,これは人間に限らず複数の個物res singularisに共通する本性というのがあるとすれば,それは持続するという存在は有さないという見解を採用するということです。
もうひとつの問い,人間に共通の本性を,現実的に存在する人間が十全に認識するcognoscereことができるのかという点に関しては,僕は少なくとも理論上はそれが可能であることにスピノザの哲学ではなっているというように解します。ただしこれは理論上はそれが可能であるというだけであって,現実的に存在するすべての人間がそれを十全に認識しているというような意味ではありませんし,十全に認識された観念ideaが,人間に共通の本性であるということを直ちに断定することができるということをいいたいわけでもありません。ただ,現実的に存在するどの人間も,ほかの現実的に存在する人間と関係をもつので,その中で人間に共通の本性は,少なくとも部分的には認識される筈です。