スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ALSOK杯王将戦&共通の本性の性質

2023-03-15 20:03:20 | 将棋
 11日と12日に佐賀県の上峰町で指された第72期王将戦七番勝負第六局。
 羽生善治九段の先手で角換わり相早繰り銀。後手の藤井聡太王将から前例を離れました。そのタイミングで先手は飛車を6筋に。
 この将棋は封じ手の局面で先手が二歩損。8筋を詰められていて飛車の位置が中途半端。これに対して再度の角交換の後に打った後手の角は攻防兼備のよい位置で,先手が使えていない左右の桂馬を跳ね出すことに成功しているので,差がついているのではないかと懸念されました。局後のインタビューによると先手はそのような認識をもっていたようです。そしてその判断が実際に正しかったようで,2日目は後手の攻めが決まるのを待つというような展開となってしまいました。
 後手が手を変えたあたりの先手の準備が足りなかったように思えますし,先手の作戦に対して後手がうまく対応したといえる一局でした。
                                        
 4勝2敗で藤井王将が防衛第71期からの連覇で2期目の王将です。

 現実的に存在する,より正確にいえば,これまでに現実的に存在し,これから現実的に存在することになるすべての人間に共通する人間の本性natura humanaがあると考えなければなりません。少なくともスピノザはそう考えていると解する必要はあります。そしてこの人間に共通の本性は,僕がいう意味で形相的本性essentia formalisであるとしか考えられないと僕は解します。そして同時にこの種の人間の本性というのは,現実的に存在する本性としては考えることができないというように僕は解しています。これらのことの理由を順に説明していきましょう。
 この種の人間の本性が持続するdurareものであるとすれば,人間の本性は存在しないと考えるconcipereことができるのでなければなりません。現実的に人間が存在している場合にそれが存在しないと考えることができないのは当然ですから,もしそれが存在しなくなる,いい換えれば人間の本性が持続することをやめるとすれば,現実的に人間が存在しなくなるという場合を想定しなければなりません。
 ひとりの人間が存在することをやめることによって人間の本性が持続することをやめるということはあり得ません。これはたとえばある人間が現実的に存在することをやめる,つまり死ぬということがあれば,人間の本性も現実的に存在することをやめるとすれば,そのひとりの人間が死ぬことによって人間の本性を有するすべての物体corpus,要するにその死ぬ人以外のすべての人間のことですが,そうした人間も存在することをやめることになります。事物の本性が事物の存在existentiaを鼎立するものである以上,人間の本性は人間の存在を鼎立するのであって,人間の存在を鼎立するものが存在することをやめるのであれば,人間も存在することをやめることになるからです。しかしこのようなことをいうのは不条理以外の何ものでもないということは明白でしょう。現にこれまでに何人もの人間が持続することをやめたのであり,しかしそれによって人間が存在しなくなるということはなかったからです。
 よって,もしもすべての人間に共通する人間の本性が存在することをやめるということがあるとするなら,それはすべての人間が存在することをやめる場合だけです。
コメント
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