ドストエフスキーの優しさの原点に関する僕の考えを示した中で触れた,『死の家の記録』をもう少し詳しく紹介しておきます。
ドストエフスキーが逮捕されたのは1849年4月のことでした。その後に裁判があり,11月19日に銃殺刑の判決を受けます。刑の執行は12月22日の予定で,杭に縛り付けられ,まさに銃が放たれんかという間際に皇帝からの特赦が読み上げられました。これにより4年の要塞懲役と服役後の兵役服務が告げられました。
12月24日にペテルブルグを出発。1850年1月23日にオムスク要塞の監獄に到着。4年の懲役刑の服役が開始されました。『死の家の記録』はほぼその間の体験記というべきものであって,小説というのとはやや異なります。とても長いものですが,一度に発表されたわけではありません。序章と第一章が発表されたのは1860年9月。刑期は4年でしたから,ドストエフスキーがオムスク要塞の監獄を出たのは1854年。その後に兵役服務が残っていましたので,セミパラチンスクという,中国との国境に近い場所に送られました。ただしこの兵役服務はほぼ自由の身であって,実際にこの服務期間中にドストエフスキーは最初の結婚をしています。正式に退役となったのは1859年でした。
その後にドストエフスキーはいくつかの短編小説を著していて,『死の家の記録』が最初の作品というわけではありません。ただ,服役と兵役の終了直後に書かれたのは間違いありませんので,大きな記憶違いが含まれているというようには考えなくてよいと思われます。
『死の家の記録』の第八章,これが最終章になりますが,検閲が厳しかったために,発表されたのが1862年12月になりました。検閲のための書き換えがあったかどうかは分かりませんが,発表が遅れた理由が検閲であった以上,それ以前に書かれていたものと推測されます。書き進めるにしたがって創作の度合いが強まるというのは自然な現象ですが,完全な作り話が含まれているということはないと思います。
神Deusが外部の目的finisに駆られて何かをなすことはありません。たとえば神が善意によってすべてのことをなすというのは,善bonumという目的に駆られて神がすべてのことをなすといっているのと同じです。この場合は神は最高に完全summe perfectumではあり得ません。一方,神が自由意志voluntas liberaによって働くagereということもありません。この場合は神にはなし得ないことがあるということになりますし,また,神の存在existentiaが永遠のaeternus真理veritasではないということになります。よってこの場合も神は最高に完全ではあり得ないのです。そして各々の批判は,前者はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに向けられ,後者はデカルトRené Descartesに向けられているのでした。
スピノザは第一部定理三三備考二の中で,神の本性essentiaに自由意志を帰する人びとの意見opinioは,神が善意によって物事をなすという人びとの意見ほどには真理から遠ざかっていないといっています。どちらの意見も観念ideaとしてみれば混乱した観念idea inadaequataであるけれども,スピノザは混乱した観念には混乱の度合いがあるとみていて,その度合いの甚だしさは,神が善意によってすべてのことをなすという意見の人びとが有する神の観念idea Deiの方にあるといっているのです。他面からいえば,神の観念がより明瞭判然としているのは,神の本性に自由意志が属するという意見を有している人びとのうちにある神の観念の方だといっているわけです。つまりライプニッツとデカルトを比較すれば,デカルトはライプニッツほどには神について間違えていないということをスピノザは認めていることになります。
このこと自体は僕も否定はしません。ただ,ライプニッツの考え方の方が,デカルトの考え方よりも,スピノザの思想に近い結論が導出される点がないというわけではありません。とくに『はじめてのスピノザ』でいわれているように,スピノザがいっている神は宗教的なものではなく自然科学的なものであるということとの関連で,重要視できる一致がひとつだけあるのです。もちろんその結論が導かれる論理というのは異なっていますが,結論だけは一致するのです。
ライプニッツは,無限に多くのinfinitaモナドMonadeから神が最善のモナドを選択した結果effectusとしてあるのが現に存在しているこの世界であるといいます。
ドストエフスキーが逮捕されたのは1849年4月のことでした。その後に裁判があり,11月19日に銃殺刑の判決を受けます。刑の執行は12月22日の予定で,杭に縛り付けられ,まさに銃が放たれんかという間際に皇帝からの特赦が読み上げられました。これにより4年の要塞懲役と服役後の兵役服務が告げられました。
12月24日にペテルブルグを出発。1850年1月23日にオムスク要塞の監獄に到着。4年の懲役刑の服役が開始されました。『死の家の記録』はほぼその間の体験記というべきものであって,小説というのとはやや異なります。とても長いものですが,一度に発表されたわけではありません。序章と第一章が発表されたのは1860年9月。刑期は4年でしたから,ドストエフスキーがオムスク要塞の監獄を出たのは1854年。その後に兵役服務が残っていましたので,セミパラチンスクという,中国との国境に近い場所に送られました。ただしこの兵役服務はほぼ自由の身であって,実際にこの服務期間中にドストエフスキーは最初の結婚をしています。正式に退役となったのは1859年でした。
その後にドストエフスキーはいくつかの短編小説を著していて,『死の家の記録』が最初の作品というわけではありません。ただ,服役と兵役の終了直後に書かれたのは間違いありませんので,大きな記憶違いが含まれているというようには考えなくてよいと思われます。
『死の家の記録』の第八章,これが最終章になりますが,検閲が厳しかったために,発表されたのが1862年12月になりました。検閲のための書き換えがあったかどうかは分かりませんが,発表が遅れた理由が検閲であった以上,それ以前に書かれていたものと推測されます。書き進めるにしたがって創作の度合いが強まるというのは自然な現象ですが,完全な作り話が含まれているということはないと思います。
神Deusが外部の目的finisに駆られて何かをなすことはありません。たとえば神が善意によってすべてのことをなすというのは,善bonumという目的に駆られて神がすべてのことをなすといっているのと同じです。この場合は神は最高に完全summe perfectumではあり得ません。一方,神が自由意志voluntas liberaによって働くagereということもありません。この場合は神にはなし得ないことがあるということになりますし,また,神の存在existentiaが永遠のaeternus真理veritasではないということになります。よってこの場合も神は最高に完全ではあり得ないのです。そして各々の批判は,前者はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに向けられ,後者はデカルトRené Descartesに向けられているのでした。
スピノザは第一部定理三三備考二の中で,神の本性essentiaに自由意志を帰する人びとの意見opinioは,神が善意によって物事をなすという人びとの意見ほどには真理から遠ざかっていないといっています。どちらの意見も観念ideaとしてみれば混乱した観念idea inadaequataであるけれども,スピノザは混乱した観念には混乱の度合いがあるとみていて,その度合いの甚だしさは,神が善意によってすべてのことをなすという意見の人びとが有する神の観念idea Deiの方にあるといっているのです。他面からいえば,神の観念がより明瞭判然としているのは,神の本性に自由意志が属するという意見を有している人びとのうちにある神の観念の方だといっているわけです。つまりライプニッツとデカルトを比較すれば,デカルトはライプニッツほどには神について間違えていないということをスピノザは認めていることになります。
このこと自体は僕も否定はしません。ただ,ライプニッツの考え方の方が,デカルトの考え方よりも,スピノザの思想に近い結論が導出される点がないというわけではありません。とくに『はじめてのスピノザ』でいわれているように,スピノザがいっている神は宗教的なものではなく自然科学的なものであるということとの関連で,重要視できる一致がひとつだけあるのです。もちろんその結論が導かれる論理というのは異なっていますが,結論だけは一致するのです。
ライプニッツは,無限に多くのinfinitaモナドMonadeから神が最善のモナドを選択した結果effectusとしてあるのが現に存在しているこの世界であるといいます。