別府競輪場で争われた第7回ウィナーズカップの決勝。並びは新山‐新田‐守沢の北日本,古性‐脇本の近畿,松浦に福田,嘉永‐山田の九州。
山田がスタートを取って嘉永の前受け。3番手に古性,5番手に松浦,7番手に新山で周回。前との車間を少し開けていた新山は,残り2周のホームの出口から発進。バックでは嘉永が突っ張り,先行争いになりましたが,打鐘で新山が嘉永を叩くと,ホームの入口では北日本の3人が出きりました。ホームに入って古性が発進。バックで新田が牽制しましたが,雨でバンクが滑りやすくなっていた影響もあったか古性に返された新田が落車。それを避けるために守沢が内に進路を求めると,古性マークの脇本と守沢の間が開き,脇本の後ろにいた松浦がそこに突っ込みました。松浦はコーナーで今度はうまく外に持ち出し,直線で競り合う新山と古性の外から両者を差し切って優勝。古性マークから松浦のさらに外に持ち出すことになった脇本が半車身差で2着。アクシデントで松浦に位置を取られるような形となった守沢が4分の3車身差で3着。
優勝した広島の松浦悠士選手は昨年の広島記念以来の優勝。ビッグは昨年のサマーナイトフェスティバル以来の7勝目。ウィナーズカップは2020年に優勝していて3年ぶりの2勝目。このレースは新山の先行が有力で,すんなりしたレースになれば新田ですが,古性が脇本の前を回るというのは近畿の両者に何か考えがあってのことでしょうから,一筋縄ではいかないだろうと思いました。新田の落車は残念な出来事でしたが,そこでできた空間にうまく突っ込んだ松浦の判断が優れていたということでしょう。脇本はいい展開でしたが,自力の選手であるがゆえに松浦に先を越されてしまった感があります。こういったところは番手を回るケースが増えてくれば改善していくのではないでしょうか。
人間に共通の本性essentiaといわれるときの人間が個物res singularisであるかと問われるのであれば,個物であると僕は答えます。しかしそれが第二部定理三七で個物の本性といわれているときの個物であるかどうかと問われたなら,それは場合によって答えが変わり得るのであって,したがって場合によっては個物ではないということもあると答えます。そして現状の考察に合わせていう場合には,人間に共通の本性といわれる場合の人間は,第二部定理三七でいわれている個物には該当しません。なぜこのようなことになるのかということを説明していきます。
『エチカ』の定理Propositioの配置には意味があると考えなければなりません。第二部定理三七についていえば,この定理以降に証明されていく共通概念notiones communesについて,それは個物の本性を構成しないということ,いい換えるならば,共通概念は個物の十全な観念idea adaequataではないということを前もっていっておきたいがためにこの位置に配置されているのです。よってこの定理でスピノザが個物の本性といっているときの個物が何を意味しているのかということは,後続の定理で証明されている共通概念がどのようなものであるのかという観点から決定されなければなりません。ここでは第二部定理三九を援用しているのですから,第二部定理三九を援用して論理的に帰結させている事柄から,第二部定理三七でいわれている個物が何を意味するのかということを解さなければなりません。
現実的に存在する人間Aと現実的に存在する人間Bが関係することによって,Aの精神mensのうちに人間に共通の本性が共通概念として形成される場合,この共通概念が何の十全な観念を構成しないといえるのかといえば,現実的に存在するAの十全な観念でありまたBの十全な観念であるといわなければなりません。よって第二部定理三七でいわれている個物とは,この場合には現実的に存在するAでありまたBであるということになります。よって,人間に共通の本性といわれるときの人間は,第二部定理三七でいわれている個物には含まれないことになります。人間に共通の本性は,Aの本性にもBの本性にも含まれますが,AとBそれぞれの本性そのものではないからです。
山田がスタートを取って嘉永の前受け。3番手に古性,5番手に松浦,7番手に新山で周回。前との車間を少し開けていた新山は,残り2周のホームの出口から発進。バックでは嘉永が突っ張り,先行争いになりましたが,打鐘で新山が嘉永を叩くと,ホームの入口では北日本の3人が出きりました。ホームに入って古性が発進。バックで新田が牽制しましたが,雨でバンクが滑りやすくなっていた影響もあったか古性に返された新田が落車。それを避けるために守沢が内に進路を求めると,古性マークの脇本と守沢の間が開き,脇本の後ろにいた松浦がそこに突っ込みました。松浦はコーナーで今度はうまく外に持ち出し,直線で競り合う新山と古性の外から両者を差し切って優勝。古性マークから松浦のさらに外に持ち出すことになった脇本が半車身差で2着。アクシデントで松浦に位置を取られるような形となった守沢が4分の3車身差で3着。
優勝した広島の松浦悠士選手は昨年の広島記念以来の優勝。ビッグは昨年のサマーナイトフェスティバル以来の7勝目。ウィナーズカップは2020年に優勝していて3年ぶりの2勝目。このレースは新山の先行が有力で,すんなりしたレースになれば新田ですが,古性が脇本の前を回るというのは近畿の両者に何か考えがあってのことでしょうから,一筋縄ではいかないだろうと思いました。新田の落車は残念な出来事でしたが,そこでできた空間にうまく突っ込んだ松浦の判断が優れていたということでしょう。脇本はいい展開でしたが,自力の選手であるがゆえに松浦に先を越されてしまった感があります。こういったところは番手を回るケースが増えてくれば改善していくのではないでしょうか。
人間に共通の本性essentiaといわれるときの人間が個物res singularisであるかと問われるのであれば,個物であると僕は答えます。しかしそれが第二部定理三七で個物の本性といわれているときの個物であるかどうかと問われたなら,それは場合によって答えが変わり得るのであって,したがって場合によっては個物ではないということもあると答えます。そして現状の考察に合わせていう場合には,人間に共通の本性といわれる場合の人間は,第二部定理三七でいわれている個物には該当しません。なぜこのようなことになるのかということを説明していきます。
『エチカ』の定理Propositioの配置には意味があると考えなければなりません。第二部定理三七についていえば,この定理以降に証明されていく共通概念notiones communesについて,それは個物の本性を構成しないということ,いい換えるならば,共通概念は個物の十全な観念idea adaequataではないということを前もっていっておきたいがためにこの位置に配置されているのです。よってこの定理でスピノザが個物の本性といっているときの個物が何を意味しているのかということは,後続の定理で証明されている共通概念がどのようなものであるのかという観点から決定されなければなりません。ここでは第二部定理三九を援用しているのですから,第二部定理三九を援用して論理的に帰結させている事柄から,第二部定理三七でいわれている個物が何を意味するのかということを解さなければなりません。
現実的に存在する人間Aと現実的に存在する人間Bが関係することによって,Aの精神mensのうちに人間に共通の本性が共通概念として形成される場合,この共通概念が何の十全な観念を構成しないといえるのかといえば,現実的に存在するAの十全な観念でありまたBの十全な観念であるといわなければなりません。よって第二部定理三七でいわれている個物とは,この場合には現実的に存在するAでありまたBであるということになります。よって,人間に共通の本性といわれるときの人間は,第二部定理三七でいわれている個物には含まれないことになります。人間に共通の本性は,Aの本性にもBの本性にも含まれますが,AとBそれぞれの本性そのものではないからです。