プロレスにはベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)という概念があります。団体によってはこの概念を大いに利用する場合もありますが,NOAHの場合にはそれはありません。ただ選手個人のファイトスタイルとか,その奥に垣間見える人間性の部分においては,この概念がまったく無効というわけでもないのです。
高山選手が復帰に向けたインタビューの中で,こういう機会でなければ小橋選手とタッグを組むことはないと発言していたのはこの意味です。小橋選手というのは典型的なベビーフェイスタイプのレスラーであり,その色が高山選手にはそぐわないのです。
ふたりの出会いは全日本プロレス時代に遡り,そのとき高山選手は同じUWFインターの垣原選手とともに参戦しました。その後,高山選手は全日本の大森選手とノーフィアーを結成したのですが,そのことについて高山選手は,もしも自分が全日本の選手と組むなら秋山選手だと思っていたという主旨のことを言っています。秋山選手の色は高山選手に合うんですね。そして垣原選手はむしろ小橋選手と組んだ方がいいとも言っています。確かに垣原選手というのも,ベビーフェイスの色をもつレスラーでした(すでに引退)。つまり高山選手のこの考えは,随分前からのものだったのです。
ここで第二部定理一一系を紹介します。
「この帰結として,人間精神は神の無限な知性の一部である(Mentem humanam partem esse infiniti intellectus Dei).,ということになる」。
神の無限知性infiniti intellectus Dei.というのは,思惟の属性Cogitationis attributumの絶対的な本性essentiaから直接的に生じる思惟の様態cogitandi modiのことで,自然Naturaのうちに形相的にformaliter存在するすべての事物を神の身体corpusと考えた場合の,神の精神mensに該当すると考えていいでしょう。
で,人間の精神Mentem humanamがこれの一部partemであるのは当然なのです。なぜなら,無限の知性であるからにはそれ以外の一切の知性,いい換えれば観念ideaの総体によって限定され得ませんが,もしもある人間の精神が無限知性に含まれない,つまりその一部ではないなら,無限の知性はその人間の精神によってまさに限定されますから,無限であることができなくなってしまうからです。
そこでここから今度は,もしもある人間の精神のうちに知性の秩序ordo intellectusによってある十全な観念idea adaequataが生じるなら,この十全な観念は,神がこの人間の精神の本性を構成する限りで十全であるということになりますから,僕たちの精神のうちにあるどんな十全な観念も,神の精神のうちにある十全な観念と完全に同一であるということが帰結されます。したがって,僕たちの精神のうちにある十全な観念がある場合には,この十全な観念の対象が形相的に実在するということが,いい換えれば,人間が矛盾なく概念するconcipereことができるものであればどんなものでも,その対象が形相的に実在するということが,このことからも導かれるのです。
高山選手が復帰に向けたインタビューの中で,こういう機会でなければ小橋選手とタッグを組むことはないと発言していたのはこの意味です。小橋選手というのは典型的なベビーフェイスタイプのレスラーであり,その色が高山選手にはそぐわないのです。
ふたりの出会いは全日本プロレス時代に遡り,そのとき高山選手は同じUWFインターの垣原選手とともに参戦しました。その後,高山選手は全日本の大森選手とノーフィアーを結成したのですが,そのことについて高山選手は,もしも自分が全日本の選手と組むなら秋山選手だと思っていたという主旨のことを言っています。秋山選手の色は高山選手に合うんですね。そして垣原選手はむしろ小橋選手と組んだ方がいいとも言っています。確かに垣原選手というのも,ベビーフェイスの色をもつレスラーでした(すでに引退)。つまり高山選手のこの考えは,随分前からのものだったのです。
ここで第二部定理一一系を紹介します。
「この帰結として,人間精神は神の無限な知性の一部である(Mentem humanam partem esse infiniti intellectus Dei).,ということになる」。
神の無限知性infiniti intellectus Dei.というのは,思惟の属性Cogitationis attributumの絶対的な本性essentiaから直接的に生じる思惟の様態cogitandi modiのことで,自然Naturaのうちに形相的にformaliter存在するすべての事物を神の身体corpusと考えた場合の,神の精神mensに該当すると考えていいでしょう。
で,人間の精神Mentem humanamがこれの一部partemであるのは当然なのです。なぜなら,無限の知性であるからにはそれ以外の一切の知性,いい換えれば観念ideaの総体によって限定され得ませんが,もしもある人間の精神が無限知性に含まれない,つまりその一部ではないなら,無限の知性はその人間の精神によってまさに限定されますから,無限であることができなくなってしまうからです。
そこでここから今度は,もしもある人間の精神のうちに知性の秩序ordo intellectusによってある十全な観念idea adaequataが生じるなら,この十全な観念は,神がこの人間の精神の本性を構成する限りで十全であるということになりますから,僕たちの精神のうちにあるどんな十全な観念も,神の精神のうちにある十全な観念と完全に同一であるということが帰結されます。したがって,僕たちの精神のうちにある十全な観念がある場合には,この十全な観念の対象が形相的に実在するということが,いい換えれば,人間が矛盾なく概念するconcipereことができるものであればどんなものでも,その対象が形相的に実在するということが,このことからも導かれるのです。
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