豊島将之九段が新型コロナウイルスに感染したため,予定が延期となり,24日と25日に徳島市で指された第63期王位戦七番勝負第四局。
藤井聡太王位の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋のハイライトは後手の豊島九段の封じ手でしょう。
この局面で封じ手となり,開封された一手は☖8六銀。これは指された藤井王位も驚いたでしょうし,開封した立会人も驚いたのではないかと推測します。
☖8六銀の狙いは駒損をしても8筋を突破することです。手数はかかりましたがその狙いは達成されたのですが,駒損の方が大きく,先手有利となりました。
後手は第1図の局面ですでに自信が持てず,勝負手のつもりで☖8六銀を選択したようです。ただ第1図で☖1五歩と突いておけば形勢は互角だったようなので,形勢判断を誤ったということになりますし,☖8六銀は暴発だったということにもなるでしょう。
第1図で先手の玉が4七にいるのは,角換わりの将棋としては珍しい形です。ただ☖8六銀のような攻めに対しては先に逃げているともいえ,その手がプラスに働いていたといえそうです。玉の位置がたとえば5八なら,もっと攻めの響きが強くなりますので,そのような形でこの駒損の攻めが成立するというケースが生じ得るのかもしれません。
藤井王位が勝って3勝1敗。第五局は来月5日と6日に指される予定です。
『国家論Tractatus Politicus』は未完です。したがって,君主制と貴族制を論じるときに,支配する側と民衆との間を循環する欲望cupiditasの流通回路を制度として構築することに苦心しているようには,民主制を論じるときにその苦心がうかがえないとしても,それは後に書かれる予定だったとみることは不可能ではありません。またスピノザにとって民主制という政治体制は,最終的な政治体制の形態であったわけでなく,あくまでも君主制および貴族制とならぶ政治体制のひとつだったので,君主制や貴族制のために要されるほどの苦心が,民主制においては必要なかったという見方も可能でしょう。つまりそこでは政治体制の構築ということだけが重視されて,構築された政治体制が現実的にどう運用されていくかということはスピノザの関心の外にあったのかもしれません。しかし僕はここでは運用のあり方にについても考えておきたいのです。
民主制では民衆が主権者ですから,民衆は主権者として民衆を支配するとともに民衆として主権者に支配される側であるという両面をもっています。このとき,主権者が決断を下すためには民衆自身が決断を下さなければなりません。このことはそれ自体で明らかでしょう。だから民衆は主権者としては民衆の欲望をすくい取りながら決断を下し続けなければなりませんし,被支配者としての民衆としては主権者が決断を下すように促していく必要があります。このように民主制の政治体制が運用されていくことで,民主制は民主制であり続けることができるのです。よってもし民衆が主権者に対して決断することを促すのではなく,主権者が命令を下すことを期待し,その命令に従うことを望むなら,実際に主権者は命令を下すようになるでしょう。よってこのような仕方で民主制が運用されるときには,民主制という政治体制は形骸化することになります。あるいはそれは欲望の流通回路を構築するための制度ではなくなるのです。したがって民主主義を守っていくためには,民衆が主権者に決断を促すように行動しなければならず,そして常にそのように行動しなければならないのです。だから僕は,命令と決断の相違は,民衆にも該当すると考えるのです。
藤井聡太王位の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋のハイライトは後手の豊島九段の封じ手でしょう。
この局面で封じ手となり,開封された一手は☖8六銀。これは指された藤井王位も驚いたでしょうし,開封した立会人も驚いたのではないかと推測します。
☖8六銀の狙いは駒損をしても8筋を突破することです。手数はかかりましたがその狙いは達成されたのですが,駒損の方が大きく,先手有利となりました。
後手は第1図の局面ですでに自信が持てず,勝負手のつもりで☖8六銀を選択したようです。ただ第1図で☖1五歩と突いておけば形勢は互角だったようなので,形勢判断を誤ったということになりますし,☖8六銀は暴発だったということにもなるでしょう。
第1図で先手の玉が4七にいるのは,角換わりの将棋としては珍しい形です。ただ☖8六銀のような攻めに対しては先に逃げているともいえ,その手がプラスに働いていたといえそうです。玉の位置がたとえば5八なら,もっと攻めの響きが強くなりますので,そのような形でこの駒損の攻めが成立するというケースが生じ得るのかもしれません。
藤井王位が勝って3勝1敗。第五局は来月5日と6日に指される予定です。
『国家論Tractatus Politicus』は未完です。したがって,君主制と貴族制を論じるときに,支配する側と民衆との間を循環する欲望cupiditasの流通回路を制度として構築することに苦心しているようには,民主制を論じるときにその苦心がうかがえないとしても,それは後に書かれる予定だったとみることは不可能ではありません。またスピノザにとって民主制という政治体制は,最終的な政治体制の形態であったわけでなく,あくまでも君主制および貴族制とならぶ政治体制のひとつだったので,君主制や貴族制のために要されるほどの苦心が,民主制においては必要なかったという見方も可能でしょう。つまりそこでは政治体制の構築ということだけが重視されて,構築された政治体制が現実的にどう運用されていくかということはスピノザの関心の外にあったのかもしれません。しかし僕はここでは運用のあり方にについても考えておきたいのです。
民主制では民衆が主権者ですから,民衆は主権者として民衆を支配するとともに民衆として主権者に支配される側であるという両面をもっています。このとき,主権者が決断を下すためには民衆自身が決断を下さなければなりません。このことはそれ自体で明らかでしょう。だから民衆は主権者としては民衆の欲望をすくい取りながら決断を下し続けなければなりませんし,被支配者としての民衆としては主権者が決断を下すように促していく必要があります。このように民主制の政治体制が運用されていくことで,民主制は民主制であり続けることができるのです。よってもし民衆が主権者に対して決断することを促すのではなく,主権者が命令を下すことを期待し,その命令に従うことを望むなら,実際に主権者は命令を下すようになるでしょう。よってこのような仕方で民主制が運用されるときには,民主制という政治体制は形骸化することになります。あるいはそれは欲望の流通回路を構築するための制度ではなくなるのです。したがって民主主義を守っていくためには,民衆が主権者に決断を促すように行動しなければならず,そして常にそのように行動しなければならないのです。だから僕は,命令と決断の相違は,民衆にも該当すると考えるのです。
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