一昨日と昨日,指宿温泉で指された第37期竜王戦七番勝負第六局。
佐々木勇気八段の先手で相掛り。後手の藤井聡太竜王との研究合戦になったようで,ハイペースで指し手が進み,一昨日のうちに終盤の近くまで進みました。
先手が2三の角を成ったところ。狙いは☗8三香。☖6五銀と打てば受けとしては固いのですが,銀を使ってしまうと☖3八歩という後手からの唯一のといっていい攻め筋の迫力が消えてしまいます。ということで後手は☖7四歩と受けました。
ここは先手にふたつの手段があり,ひとつは☗7五桂。☖同歩でも銀が逃げても☗8三香が打てます。無視して攻め合ってくる手もありますので難解ですが,これはこれで先手にとっても有力な変化であったかもしれません。
実戦は☗5五桂と反対側に打ちました。後手は☖5四銀と逃げました。そこで☗9五角と打ったのですがこれが失着。☖8四歩と受けられて攻めが続きませんでした。
☗9四角のところでは☗7四馬とするべきでした。これには☖5五銀と桂馬を取るのが普通ですが☗8三香とわざとくっつけて飛車取りに打ちます。これだと☖7二飛と寄るほかないので☗9五角と王手に打つことができます。手筋は☖8四歩☗同角☖7三銀なのですが,そこで☗8二香成という妙手があって攻めが続くのです。この変化はむしろ先手が有望でした。
藤井竜王が勝って4勝2敗で防衛。第34期,35期,36期に続く四連覇で4期目の竜王です。
自身がかつてスピノザと親しく交際し,現時点でも疎遠ではないということを明らかにしても,自身の立場には影響しないとステノNicola Stenoが考えることができたのは,そうしたことがカトリックの中で問題になることはないと考えたからです。そしてそのように考えることができたのは,カトリックの内部事情はそのようなものだとステノにはみえていたからでしょう。つまりこの部分からは,カトリックの当時の内部事情がどのようなものであったのかということ,少なくともステノにはそれがどのようにみえていたのかということを窺い知ることができるのです。
ステノはバチカン写本を異端審問所に提出した後,イタリアを離れドイツに移って司祭としてカトリックの布教に務めました。これは実際にカトリックの内部において,ステノの書簡が問題視されなかったことを意味しています。ステノが司祭になったのがいつであったのかということについてはいくつかの説があり,書簡六十七の二を書いた時点で司祭であった可能性が否定できません。もしそうであったのなら,ステノの書簡はステノが司祭の地位をはく奪されなければならないようなものではなかったということになるでしょう。逆にその時点ではステノは司祭ではなく,それよりも後に司祭になったのだとしたら,司祭になるにあたって書簡は何も影響しなかったということになります。つまりいずれにしてもステノの書簡がステノの立場に影響を与えたということはないのであって,これはステノの見通しが正しかったという意味でもありますが,それと同時に当時のローマカトリックはステノが見通した通りの状況であったという意味でもあります。つまり,司祭があるいは後に司祭になるであろう人が,スピノザとかつて支度し交際し,その後も疎遠な状況となっていたとしても,それが特に問題とはならないような状況に,このときのカトリックはあったわけです。
バチカン写本が提出されることによって,スピノザの遺稿集Opera Posthumaは禁書の扱いになりました。だからカトリックがスピノザの思想を問題視していたことは疑い得ません。なので『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に示されている思想も問題視されていたと思われます。
佐々木勇気八段の先手で相掛り。後手の藤井聡太竜王との研究合戦になったようで,ハイペースで指し手が進み,一昨日のうちに終盤の近くまで進みました。
先手が2三の角を成ったところ。狙いは☗8三香。☖6五銀と打てば受けとしては固いのですが,銀を使ってしまうと☖3八歩という後手からの唯一のといっていい攻め筋の迫力が消えてしまいます。ということで後手は☖7四歩と受けました。
ここは先手にふたつの手段があり,ひとつは☗7五桂。☖同歩でも銀が逃げても☗8三香が打てます。無視して攻め合ってくる手もありますので難解ですが,これはこれで先手にとっても有力な変化であったかもしれません。
実戦は☗5五桂と反対側に打ちました。後手は☖5四銀と逃げました。そこで☗9五角と打ったのですがこれが失着。☖8四歩と受けられて攻めが続きませんでした。
☗9四角のところでは☗7四馬とするべきでした。これには☖5五銀と桂馬を取るのが普通ですが☗8三香とわざとくっつけて飛車取りに打ちます。これだと☖7二飛と寄るほかないので☗9五角と王手に打つことができます。手筋は☖8四歩☗同角☖7三銀なのですが,そこで☗8二香成という妙手があって攻めが続くのです。この変化はむしろ先手が有望でした。
藤井竜王が勝って4勝2敗で防衛。第34期,35期,36期に続く四連覇で4期目の竜王です。
自身がかつてスピノザと親しく交際し,現時点でも疎遠ではないということを明らかにしても,自身の立場には影響しないとステノNicola Stenoが考えることができたのは,そうしたことがカトリックの中で問題になることはないと考えたからです。そしてそのように考えることができたのは,カトリックの内部事情はそのようなものだとステノにはみえていたからでしょう。つまりこの部分からは,カトリックの当時の内部事情がどのようなものであったのかということ,少なくともステノにはそれがどのようにみえていたのかということを窺い知ることができるのです。
ステノはバチカン写本を異端審問所に提出した後,イタリアを離れドイツに移って司祭としてカトリックの布教に務めました。これは実際にカトリックの内部において,ステノの書簡が問題視されなかったことを意味しています。ステノが司祭になったのがいつであったのかということについてはいくつかの説があり,書簡六十七の二を書いた時点で司祭であった可能性が否定できません。もしそうであったのなら,ステノの書簡はステノが司祭の地位をはく奪されなければならないようなものではなかったということになるでしょう。逆にその時点ではステノは司祭ではなく,それよりも後に司祭になったのだとしたら,司祭になるにあたって書簡は何も影響しなかったということになります。つまりいずれにしてもステノの書簡がステノの立場に影響を与えたということはないのであって,これはステノの見通しが正しかったという意味でもありますが,それと同時に当時のローマカトリックはステノが見通した通りの状況であったという意味でもあります。つまり,司祭があるいは後に司祭になるであろう人が,スピノザとかつて支度し交際し,その後も疎遠な状況となっていたとしても,それが特に問題とはならないような状況に,このときのカトリックはあったわけです。
バチカン写本が提出されることによって,スピノザの遺稿集Opera Posthumaは禁書の扱いになりました。だからカトリックがスピノザの思想を問題視していたことは疑い得ません。なので『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に示されている思想も問題視されていたと思われます。
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