昨晩の第63回東京ダービー。サヴァルジャンが左の前脚の蹄の底に内出血を起こしたために出走取消となって15頭。
逃げなければ力が出せないサイバーエレキングがここもハナへ。2番手にはカンムル。3番手は内にブラウンレガート,外にシェアハッピー。これらの後ろをヒガシウィルウィンが追走。6番手にクラトリガー,7番手にポッドルイージとなり,ソッサスブレイとキャプテンキングは中団からのレースに。前半の1000mは63秒4のミドルペースになりました。
サイバーエレキングは3コーナー手前から後退。自然にカンムルが先頭に立ち,シェアハッピーも続きました。この直後にヒガシウィルウィンが続き,ブラウンレガートは手を動かしながら追い掛け,キャプテンキングも手を動かしながら大外を追撃。ただ,余裕をもって3番手に続くことができたヒガシウィルウィンが直線で先頭に立つと,あとはワンサイドで後ろを引き離していき6馬身差で圧勝。おそらく手応えから苦し紛れに内を突いたブラウンレガートが一旦は2番手に上がりましたが,大外のキャプテンキングがこれを捕まえて2着。ブラウンレガートが4分の3馬身差で3着。今年は実力差が明瞭に判明しているので,波乱の余地は少ないとみていましたが,その通り,実力上位馬が着順でも上位を占めました。
優勝したヒガシウィルウィンは京浜盃以来の勝利で南関東重賞は3勝目。前走は2着馬に負けていましたが,あのレースはマッチレースに近い形態で,マッチレースはどうしても先行した方が有利になるので,それで少差なら展開如何で逆転可能と考えていました。このレースの着差ほどの能力差があるわけではなく,よいライバル関係を維持していくのではないかと思います。将来的にも期待していい馬ではないでしょうか。父はサウスヴィグラス。プロポンチス系グランドターキンの分枝。半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は京浜盃以来の南関東重賞制覇。東京ダービーは初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第47回以来16年ぶりの東京ダービー2勝目。
スピノザの哲学が汎神論とみなされる場合に,単に自然Naturaのうちに存在するのが神自身と様態的変状modificatioに様態化した神Deusだけであるということのほかに,別の種類の観点があります。それは,スピノザが神と自然を同一視しているという観点です。スピノザがそのような考え方をしていることを主張するために,よく援用される一文があります。それは『エチカ』の第四部序言の中にある以下の文章です。
「したがって神あるいは自然(Deus sive Natura)が何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と,神あるいは自然が何ゆえに存在するかの理由ないし原因とは同一である」。
この文章を構造的に把握してみます。すると,それが働きをなすagereことと存在することの原因causaが同一であるという述語部分の主語にあたるのは,神であっても自然であっても構わないというようになっていると分かります。しかるに主語が神でも自然でも同じなら,神と自然は同じものと解されているといえるでしょう。このゆえにこの一文が,スピノザは神と自然を同一視しているということの根拠として援用されることになるのです。
少なくとも文章の構造からみる限り,僕はそのような主張は妥当だし合理的なものであると考えます。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,文章の主語に該当する当該部分を,神あるいは自然と日本語に翻訳しました。ですがこの部分は,あるいはと訳される必要があるわけではありません。神ないしは自然と訳されてもよかったでしょうし,神すなわち自然と訳されていたとしても,原語のラテン語siveの意味がどのようなものであるかということを別にすれば,誤訳であるとはいえないでしょう。要するにこの文章では明らかに神と自然が等置されているのだと僕は考えます。汎神論は神即自然といわれることがあるのですが,まさにこの部分は,神即自然と訳されてもおかしくないような意味をもっていると僕は考えるのです。
ただし,ここで神と等置されている自然というのが,いわゆる自然,すなわち様態modusとしての自然であると解してよいのかということについては,僕はいささかの疑問も抱いています。なぜなら,スピノザは自然というのを,二分化して考えているからです。
逃げなければ力が出せないサイバーエレキングがここもハナへ。2番手にはカンムル。3番手は内にブラウンレガート,外にシェアハッピー。これらの後ろをヒガシウィルウィンが追走。6番手にクラトリガー,7番手にポッドルイージとなり,ソッサスブレイとキャプテンキングは中団からのレースに。前半の1000mは63秒4のミドルペースになりました。
サイバーエレキングは3コーナー手前から後退。自然にカンムルが先頭に立ち,シェアハッピーも続きました。この直後にヒガシウィルウィンが続き,ブラウンレガートは手を動かしながら追い掛け,キャプテンキングも手を動かしながら大外を追撃。ただ,余裕をもって3番手に続くことができたヒガシウィルウィンが直線で先頭に立つと,あとはワンサイドで後ろを引き離していき6馬身差で圧勝。おそらく手応えから苦し紛れに内を突いたブラウンレガートが一旦は2番手に上がりましたが,大外のキャプテンキングがこれを捕まえて2着。ブラウンレガートが4分の3馬身差で3着。今年は実力差が明瞭に判明しているので,波乱の余地は少ないとみていましたが,その通り,実力上位馬が着順でも上位を占めました。
優勝したヒガシウィルウィンは京浜盃以来の勝利で南関東重賞は3勝目。前走は2着馬に負けていましたが,あのレースはマッチレースに近い形態で,マッチレースはどうしても先行した方が有利になるので,それで少差なら展開如何で逆転可能と考えていました。このレースの着差ほどの能力差があるわけではなく,よいライバル関係を維持していくのではないかと思います。将来的にも期待していい馬ではないでしょうか。父はサウスヴィグラス。プロポンチス系グランドターキンの分枝。半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は京浜盃以来の南関東重賞制覇。東京ダービーは初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第47回以来16年ぶりの東京ダービー2勝目。
スピノザの哲学が汎神論とみなされる場合に,単に自然Naturaのうちに存在するのが神自身と様態的変状modificatioに様態化した神Deusだけであるということのほかに,別の種類の観点があります。それは,スピノザが神と自然を同一視しているという観点です。スピノザがそのような考え方をしていることを主張するために,よく援用される一文があります。それは『エチカ』の第四部序言の中にある以下の文章です。
「したがって神あるいは自然(Deus sive Natura)が何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と,神あるいは自然が何ゆえに存在するかの理由ないし原因とは同一である」。
この文章を構造的に把握してみます。すると,それが働きをなすagereことと存在することの原因causaが同一であるという述語部分の主語にあたるのは,神であっても自然であっても構わないというようになっていると分かります。しかるに主語が神でも自然でも同じなら,神と自然は同じものと解されているといえるでしょう。このゆえにこの一文が,スピノザは神と自然を同一視しているということの根拠として援用されることになるのです。
少なくとも文章の構造からみる限り,僕はそのような主張は妥当だし合理的なものであると考えます。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,文章の主語に該当する当該部分を,神あるいは自然と日本語に翻訳しました。ですがこの部分は,あるいはと訳される必要があるわけではありません。神ないしは自然と訳されてもよかったでしょうし,神すなわち自然と訳されていたとしても,原語のラテン語siveの意味がどのようなものであるかということを別にすれば,誤訳であるとはいえないでしょう。要するにこの文章では明らかに神と自然が等置されているのだと僕は考えます。汎神論は神即自然といわれることがあるのですが,まさにこの部分は,神即自然と訳されてもおかしくないような意味をもっていると僕は考えるのです。
ただし,ここで神と等置されている自然というのが,いわゆる自然,すなわち様態modusとしての自然であると解してよいのかということについては,僕はいささかの疑問も抱いています。なぜなら,スピノザは自然というのを,二分化して考えているからです。
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