スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本発祥倉茂記念杯&一般的説明

2013-01-08 18:53:35 | 競輪
 2013年の記念競輪第一弾となった大宮記念の決勝。並びは渡辺に神山,平原-長塚の関東,浅井に中村,水谷ー西岡の近畿で石毛は単騎。
 前受けが浅井。3番手に渡辺,5番手に平原,石毛を挟んで8番手から水谷で周回。打鐘前のバックから水谷が上昇。平原も併せていきました。浅井を叩いたのは水谷の方で,ここで打鐘。浅井が内からうまく3番手に潜り込みました。石毛は続くことができた筈ですが,平原を入れて平原が5番手。8番手に渡辺の一列棒状となってホームから水谷の抑え先行。真先に動いたのは後方の渡辺で,素晴らしいスピードでバックでは捲りきりました。ただ,神山が離れたので平原が乗り,直線はその平原が渡辺を交わしてマークの長塚とマッチレース。身体は完全に長塚が出ていて,差し切ったと思ったのですが,写真判定の結果は微差で残して平原の優勝。長塚が2着で関東ワンツー。渡辺は1車身遅れて3着。
                         
 優勝した埼玉の平原康多選手は昨年はグレード制覇がなく,一昨年11月の防府記念以来となる記念競輪8勝目。地元となる当地は2008年,2010年,2011年と制覇していて4勝目。本来の力からすればあまりに長いこと勝てずにいたという印象。自力を使うべきレースでも番手戦を選択するというケースが多くなっていたように思え,それが優勝できない一因となっているのではないかと考えていました。そういう意味では今日は長塚に任せず,自力で勝負に出たのがよかったといえるのではないでしょうか。またビッグでも優勝できる力がある選手だと思います。

 佐藤拓司は第二部定理二四証明の中に,人間の身体を構成するある部分の中に何かが生じたとしても,全体としての人間の身体の中には何も起こっていないと解釈することの論拠を見出しました。その論拠とは,このスピノザによる論証のうちに,スピノザが単に人間の身体という場合には,それを構成する部分は独立した物体であると考えるべきであり,全体としての人間の身体の中には,その身体を構成する部分はその意味の中に入っていないということが含まれているという点です。
 これは有力な主張です。僕も肯定します。ただ,僕はこれをもっと一般的な仕方で説明してみたいという気持ちを捨てきれません。そこでここでは佐藤の考察から外れて,別の観点から考えてみたいと思うのです。そしてそのとき,僕が着目したいのは第二部定理九系です。
 Xという物体があって,この物体はAとBというふたつの部分によって組織されていると仮定します。このとき,Aの観念もBの観念もXの観念を有する限りで神のうちにあるのでなければならないとしておきます。これは平行論的な帰結からそうでなければならないように思われるからです。たとえば第二部定理三八証明の中で,スピノザはこのことを示唆しているとみることは可能でしょう。
 しかし問題は,Aの観念あるいはBの観念がどのように神と関係づけられるのかということではありません。このとき,Aの中にある現象Pが生じ,かつこの現象が生じた場合にも,Xの本性および形相には何らの変化ももたらされないと仮定したときに,Pの観念がXの観念を有する限りで神のうちにあるといえるのかどうかということです。
 まず第一に確実なことは,この場合のPの観念が,Aの観念を有する限りで神のうちにあるということです。これは第二部定理九系が論述していることそのものであるといえますから問題ないでしょう。次に,現在の考察ではAの観念というのはXの観念を有する限りで神のうちにあるといわれなければなりません。これでみれば,Pの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあり,Aの観念はXの観念を有する限りで神のうちにあるのですから。Pの観念はXの観念を有する限りで神のうちにあるように思えます。

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