グリーンチャンネルの中央競馬中継内で生放映された第12回名古屋グランプリ。
最初はエーシンモアオバーの逃げになりましたが,1周目の向正面でトリップが交わして先頭に立ちました。スローペースということもあり,密集してのレースで,キングスエンブレム,クラシカルノヴァ,ニシノファイター,オースミイチバン,ナムラダイキチと,あまり離れず追走。
2周目の3コーナー手前からペースアップしたようで,キングスエンブレムは脱落。さらにトリップも一杯に。エーシンモアオバーが先頭に立ち,外からクラシカルノヴァが追っていき,直線はこの2頭の争い。最後までしぶとく抜かせなかったエーシンモアオバーが半馬身差のレコードタイムで優勝。クラシカルノヴァが2着。3着はそこから9馬身離れ,ナムラダイキチとの叩き合いを制したオースミイチバン。
優勝したエーシンモアオバーはこれまでオープンで5勝,重賞では2回の2着が最高で,これが重賞初制覇。正直にいってややとうが立ったといえる馬で,今日はメンバーに恵まれたといえる面が大だと思います。年が明ければ7歳で,大きな上積みも考えづらく,今後の活躍も出走メンバー次第ということになってくるのではないでしょうか。父はマンハッタンカフェ。
騎乗した愛知の岡部誠騎手,管理している沖芳夫調教師は共に名古屋グランプリ初勝利です。
これでスピノザが,人間が自分の身体の中に起こることのすべてを,混乱して認識するのだとしても,意識化することが可能であると考えていることは明らかになりました。これに対して,実際にそんなことは不可能であるといい立ててもそれは無意味です。なぜならこの主張は,スピノザの見解に誤りがあるということは示していますが,その論理のどこに欠陥があるのかということをまったく指摘していないからです。
しかしそれとは別に僕はこうも思うのです。人間が自分自身に関して反省的に考えてみた場合に,不条理であると思われる事柄をわざわざ主張するのですから,これを主張するときのスピノザには,何らかの確信があったのではないだろうかと。
たとえば第二部定理一三備考の一文というのは,常識からはあまりに外れたものです。だれも石鹸に精神があるとか,三角形に精神があるなどということは認めないだろうと考えられるからです。しかしスピノザは,精神そのものを常識とは異なって考えていたのでした。スピノザによれば精神とは,ある機能自体を示すのではありません。何らかの事物が形相的に実在するならばその客観的有すなわち観念も思惟の様態として実在します。そしてこれらは合一しているのであって,この合一という事態を重視した上でその客観的有についてはそれを精神であるとしたわけです。だからスピノザはすべてのものに精神がある,あるいはすべてのものが精神を有するという,一見すれば突拍子もないようなことを主張できたのです。つまりこれを主張するときのスピノザには,このような論理体系におけるはっきりとした確信があったのだといえるでしょう。
僕の予測では,この第二部定理一三備考の一文と同じことが,第二部定理一二の場合にもあるのではないかと思うのです。すなわち,人間が自分の身体の中に起こることを悉く意識することができるとスピノザが主張するとき,やはり何らかの論理構成として,スピノザはある確信をもってそのように主張したのだろうと思うのです。あくまでも予測ですが,僕はそれがどういったものであるのかを確かめたいのです。
最初はエーシンモアオバーの逃げになりましたが,1周目の向正面でトリップが交わして先頭に立ちました。スローペースということもあり,密集してのレースで,キングスエンブレム,クラシカルノヴァ,ニシノファイター,オースミイチバン,ナムラダイキチと,あまり離れず追走。
2周目の3コーナー手前からペースアップしたようで,キングスエンブレムは脱落。さらにトリップも一杯に。エーシンモアオバーが先頭に立ち,外からクラシカルノヴァが追っていき,直線はこの2頭の争い。最後までしぶとく抜かせなかったエーシンモアオバーが半馬身差のレコードタイムで優勝。クラシカルノヴァが2着。3着はそこから9馬身離れ,ナムラダイキチとの叩き合いを制したオースミイチバン。
優勝したエーシンモアオバーはこれまでオープンで5勝,重賞では2回の2着が最高で,これが重賞初制覇。正直にいってややとうが立ったといえる馬で,今日はメンバーに恵まれたといえる面が大だと思います。年が明ければ7歳で,大きな上積みも考えづらく,今後の活躍も出走メンバー次第ということになってくるのではないでしょうか。父はマンハッタンカフェ。
騎乗した愛知の岡部誠騎手,管理している沖芳夫調教師は共に名古屋グランプリ初勝利です。
これでスピノザが,人間が自分の身体の中に起こることのすべてを,混乱して認識するのだとしても,意識化することが可能であると考えていることは明らかになりました。これに対して,実際にそんなことは不可能であるといい立ててもそれは無意味です。なぜならこの主張は,スピノザの見解に誤りがあるということは示していますが,その論理のどこに欠陥があるのかということをまったく指摘していないからです。
しかしそれとは別に僕はこうも思うのです。人間が自分自身に関して反省的に考えてみた場合に,不条理であると思われる事柄をわざわざ主張するのですから,これを主張するときのスピノザには,何らかの確信があったのではないだろうかと。
たとえば第二部定理一三備考の一文というのは,常識からはあまりに外れたものです。だれも石鹸に精神があるとか,三角形に精神があるなどということは認めないだろうと考えられるからです。しかしスピノザは,精神そのものを常識とは異なって考えていたのでした。スピノザによれば精神とは,ある機能自体を示すのではありません。何らかの事物が形相的に実在するならばその客観的有すなわち観念も思惟の様態として実在します。そしてこれらは合一しているのであって,この合一という事態を重視した上でその客観的有についてはそれを精神であるとしたわけです。だからスピノザはすべてのものに精神がある,あるいはすべてのものが精神を有するという,一見すれば突拍子もないようなことを主張できたのです。つまりこれを主張するときのスピノザには,このような論理体系におけるはっきりとした確信があったのだといえるでしょう。
僕の予測では,この第二部定理一三備考の一文と同じことが,第二部定理一二の場合にもあるのではないかと思うのです。すなわち,人間が自分の身体の中に起こることを悉く意識することができるとスピノザが主張するとき,やはり何らかの論理構成として,スピノザはある確信をもってそのように主張したのだろうと思うのです。あくまでも予測ですが,僕はそれがどういったものであるのかを確かめたいのです。
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