2012年最後の記念競輪となった広島記念は昨日が決勝。並びは上原ー為田の長野,後閑ー芦沢の関東に大竹,山賀ー萩原の南関東,村上ー山口の近畿中部。
スタートは山賀が取ってそのまま前受け。村上が3番手,上原が5番手,後閑が7番手で周回。残り2周のホームからまず上原が上昇し,村上がスイッチ。バックに入るところで上原が山賀を叩いてスローに落とすと打鐘で後閑が叩き,ホームから後閑の先行に。村上が続こうとしましたが,上原がインで粘り,4番手は取り合い。引いた山賀はバック手前から発進。捲ろうかというところで芦沢も番手から出て,両者の争いとなり,スピードよく飲み込んだ山賀が優勝。芦沢が4分の1車輪差で2着。山賀に続いた萩原が1車輪差の3着。
優勝した千葉の山賀雅仁選手は2009年8月の富山記念以来となる記念競輪2勝目。後閑と村上は本質的には先行選手ではなく,もうひとりの上原よりは力量上位。こう考えればチャンス到来といえるメンバー構成で,それをうまくものにしました。ただ,記念競輪の決勝がこういったメンバーで争われるということはそう多くはない筈で,トップクラスとはまだ脚力の差がある現状ですから,また記念競輪を勝つためには,地力を強化する必要があるのではないでしょうか。
この予測からして,第二部定理一二でいわれている人間の精神mens humanaの本性essentiaを構成している観念の対象ideatum,それは要するに第二部定理一三によってその人間の身体corpusのことですが,その身体の中に起こることとは具体的に何を意味しているのか,あるいはもっと正確にいうなら,そのようにいうことでスピノザは具体的にどんな事柄を意味しようとしていたのかという課題は,相変らず継続するということになります。さらにいうならこの課題は,この部分だけをとっていうのであれば,以前にまして解決が難しくなった課題として残されたとさえいえるでしょう。
もしも第二部定理一二でいわれている事柄が,以前のように人間の精神のうちにある十全な観念idea adaequataについての言及であったとしてみましょう。第二部定理三八系と第二部定理四二により,僕たちは真理veritasと虚偽falsitasとを分つことが現実的に可能です。いい換えれば僕たちの精神を構成するある観念について,それを吟味さえすれば,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataとに区別することができます。よってこの観点からこの課題を考える場合には,人間が自分の身体の中に起こるどんな事柄を十全に認識するのか,あるいは認識しているのかという地点から,推論を進めていくことが可能であるということになります。
ところが第二部定理一二の新しい意味は,むしろ人間の精神のうちにある混乱した観念についての言及を含む,というかそれに限定されます。いい換えるなら,僕たちが自分の身体の中に起こっていると認識する事柄のすべてが,この課題の対象となっているのです。これでみれば一見して明らかですが,第二部定理一二の新しい意味を受け入れた上でこの課題に立ち向かうという場合には,課題自体がより大きくなっているといえるのです。
前回,十全な観念として考えた場合にも僕はこれについて思わしい解答を得ることはできませんでした。ならば課題が大きくなったのですから,今回の場合はなおさらです。つまりこの課題自体には答えられないのですが,課題に対する構え方が,以前とは変化しています。僕の手に負えなかったこの課題にヒントを与えてくれたものがふたつありますので,順に紹介していきます。
スタートは山賀が取ってそのまま前受け。村上が3番手,上原が5番手,後閑が7番手で周回。残り2周のホームからまず上原が上昇し,村上がスイッチ。バックに入るところで上原が山賀を叩いてスローに落とすと打鐘で後閑が叩き,ホームから後閑の先行に。村上が続こうとしましたが,上原がインで粘り,4番手は取り合い。引いた山賀はバック手前から発進。捲ろうかというところで芦沢も番手から出て,両者の争いとなり,スピードよく飲み込んだ山賀が優勝。芦沢が4分の1車輪差で2着。山賀に続いた萩原が1車輪差の3着。
優勝した千葉の山賀雅仁選手は2009年8月の富山記念以来となる記念競輪2勝目。後閑と村上は本質的には先行選手ではなく,もうひとりの上原よりは力量上位。こう考えればチャンス到来といえるメンバー構成で,それをうまくものにしました。ただ,記念競輪の決勝がこういったメンバーで争われるということはそう多くはない筈で,トップクラスとはまだ脚力の差がある現状ですから,また記念競輪を勝つためには,地力を強化する必要があるのではないでしょうか。
この予測からして,第二部定理一二でいわれている人間の精神mens humanaの本性essentiaを構成している観念の対象ideatum,それは要するに第二部定理一三によってその人間の身体corpusのことですが,その身体の中に起こることとは具体的に何を意味しているのか,あるいはもっと正確にいうなら,そのようにいうことでスピノザは具体的にどんな事柄を意味しようとしていたのかという課題は,相変らず継続するということになります。さらにいうならこの課題は,この部分だけをとっていうのであれば,以前にまして解決が難しくなった課題として残されたとさえいえるでしょう。
もしも第二部定理一二でいわれている事柄が,以前のように人間の精神のうちにある十全な観念idea adaequataについての言及であったとしてみましょう。第二部定理三八系と第二部定理四二により,僕たちは真理veritasと虚偽falsitasとを分つことが現実的に可能です。いい換えれば僕たちの精神を構成するある観念について,それを吟味さえすれば,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataとに区別することができます。よってこの観点からこの課題を考える場合には,人間が自分の身体の中に起こるどんな事柄を十全に認識するのか,あるいは認識しているのかという地点から,推論を進めていくことが可能であるということになります。
ところが第二部定理一二の新しい意味は,むしろ人間の精神のうちにある混乱した観念についての言及を含む,というかそれに限定されます。いい換えるなら,僕たちが自分の身体の中に起こっていると認識する事柄のすべてが,この課題の対象となっているのです。これでみれば一見して明らかですが,第二部定理一二の新しい意味を受け入れた上でこの課題に立ち向かうという場合には,課題自体がより大きくなっているといえるのです。
前回,十全な観念として考えた場合にも僕はこれについて思わしい解答を得ることはできませんでした。ならば課題が大きくなったのですから,今回の場合はなおさらです。つまりこの課題自体には答えられないのですが,課題に対する構え方が,以前とは変化しています。僕の手に負えなかったこの課題にヒントを与えてくれたものがふたつありますので,順に紹介していきます。
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