第29回テレ玉杯オーバルスプリント。
枠内での挙動は不安定でしたが発馬を決めたノブワイルドの逃げ。ネロが2番手でマーク。3番手にスアデラとウインムートでこの4頭が先行集団。3馬身差でアンサンブルライフ,2馬身差でサトノタイガー,1馬身差でオウケンビリーヴ,3馬身差でドライヴナイト。ここからは6馬身くらい離れてトーセンハルカゼ。3馬身差でコスモマイギフト。最後尾にメジャーアスリートとかなり縦長の隊列になりました。前半の600mは35秒2のハイペース。
3コーナー手前でウインムートは手が動き出し脱落。コーナーではノブワイルドがネロとの差を広げだし,ネロは押して何とかついていく形。内を回ったスアデラも喰らいつきはしましたが苦しくなりました。外を回って追い上げてきたのがオウケンビリーヴ。直線ではノブワイルドがネロを振り切って抜け出しました。ネロの外から追ってきたオウケンビリーヴと,後方から馬群の中を抜け最後にオウケンビリーヴの外に出てきたトーセンハルカゼの2頭がフィニッシュに向けてワンサイドで差を詰めるも届かず,優勝はノブワイルド。4分の3馬身差の2着にオウケンビリーヴでこれに迫ったトーセンハルカゼがハナ差で3着。
優勝したノブワイルドはJRAでデビュー。1勝して3歳夏に南関東に転入。順調に使い込めない時期もあり,今年の4月にようやくA2戦を勝ちました。その後の3戦は勝てず,前走は再びA2以下のレース。これが浦和の1400mで,2着に2秒5もの差をつける圧巻の逃げ切り。ワンサイドでしたからタイムも詰められそうで,ここでもチャンスはありそうだと考えていました。スピード能力を生かしきってぎりぎりで粘り切ったという内容で,能力の高さは評価する必要がありますが,好走するためには条件が必要とされる馬ではないかと思います。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯(東)を勝ったトチノニシキ。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年のクラスターカップ以来となる重賞9勝目。このレースは格付けと名称に変遷がありますが,第10回,第20回に続き9年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント3勝目。管理している小久保智調教師も昨年のクラスターカップ以来の重賞制覇で通算3勝目。第19回以来10年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント2勝目。
5月24日,木曜日。ワンデュロパッチが大きくなり,そのためか眠ってばかりいる状況になったので,週末の様子次第で入院したいという旨が母から告げられました。前日の通院のときにも主治医から入院を打診され,母は断っていたのですが,入院したいと思えば入院することができることは理解しましたので,そちらの方向に心が傾いたようです。週末の様子次第,というのは,翌週にまた通院の予約を入れてもらってありましたので,そのときに入院する意志を主治医に告げるという意味です。母は眠ってばかりいるのでは役に立たたないことを理由に挙げていましたが,実際にはこの日もパッチを貼るだけでなく鎮痛剤のオプソも飲んでいたように,痛みと共に生活し続けることに嫌気がさしてきたのだろうと思います。
僕は延命治療の断念についても,母の意向を尊重することがベストであると考えていたように,もう終末期に入っている母の希望に沿うようにすべてを決定するのがよいと判断していました。ですから母が入院したいという意向を示したことに反対する理由はありませんでした。家がよいと思えば家にいればいいし,病院に入りたいのならそうすればよいと思っていたわけです。家にいたら家にいたで大変なこともあり,入院したら入院したで大変になることもあるわけで,どちらが大変か,他面からいえばどちらが僕にとって楽であるかということは,まったく気になりませんでした。
5月25日,金曜日。妹を迎えに行きました。薬が強くなって母は横になっていることが多くなりましたので,妹も母のことを変に思い出したのではないかと思います。この日は母はオプソを3度飲みました。
5月26日,土曜日。来日中の伯母が妹を昼食に連れ出してくれました。母のオプソの服用はこの日は2度でした。
5月27日,日曜日。同窓会以降は友人宅に宿泊していた叔父が,午後5時ごろに来訪しました。福江島への帰島が翌日でしたので,最後に僕の家で1泊して帰ることにしていたのです。23日に主治医に入院を打診されたときに母が断った理由のひとつに,もう1度だけ叔父と家で会いたい気持ちがあったのかもしれません。
枠内での挙動は不安定でしたが発馬を決めたノブワイルドの逃げ。ネロが2番手でマーク。3番手にスアデラとウインムートでこの4頭が先行集団。3馬身差でアンサンブルライフ,2馬身差でサトノタイガー,1馬身差でオウケンビリーヴ,3馬身差でドライヴナイト。ここからは6馬身くらい離れてトーセンハルカゼ。3馬身差でコスモマイギフト。最後尾にメジャーアスリートとかなり縦長の隊列になりました。前半の600mは35秒2のハイペース。
3コーナー手前でウインムートは手が動き出し脱落。コーナーではノブワイルドがネロとの差を広げだし,ネロは押して何とかついていく形。内を回ったスアデラも喰らいつきはしましたが苦しくなりました。外を回って追い上げてきたのがオウケンビリーヴ。直線ではノブワイルドがネロを振り切って抜け出しました。ネロの外から追ってきたオウケンビリーヴと,後方から馬群の中を抜け最後にオウケンビリーヴの外に出てきたトーセンハルカゼの2頭がフィニッシュに向けてワンサイドで差を詰めるも届かず,優勝はノブワイルド。4分の3馬身差の2着にオウケンビリーヴでこれに迫ったトーセンハルカゼがハナ差で3着。
優勝したノブワイルドはJRAでデビュー。1勝して3歳夏に南関東に転入。順調に使い込めない時期もあり,今年の4月にようやくA2戦を勝ちました。その後の3戦は勝てず,前走は再びA2以下のレース。これが浦和の1400mで,2着に2秒5もの差をつける圧巻の逃げ切り。ワンサイドでしたからタイムも詰められそうで,ここでもチャンスはありそうだと考えていました。スピード能力を生かしきってぎりぎりで粘り切ったという内容で,能力の高さは評価する必要がありますが,好走するためには条件が必要とされる馬ではないかと思います。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯(東)を勝ったトチノニシキ。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年のクラスターカップ以来となる重賞9勝目。このレースは格付けと名称に変遷がありますが,第10回,第20回に続き9年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント3勝目。管理している小久保智調教師も昨年のクラスターカップ以来の重賞制覇で通算3勝目。第19回以来10年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント2勝目。
5月24日,木曜日。ワンデュロパッチが大きくなり,そのためか眠ってばかりいる状況になったので,週末の様子次第で入院したいという旨が母から告げられました。前日の通院のときにも主治医から入院を打診され,母は断っていたのですが,入院したいと思えば入院することができることは理解しましたので,そちらの方向に心が傾いたようです。週末の様子次第,というのは,翌週にまた通院の予約を入れてもらってありましたので,そのときに入院する意志を主治医に告げるという意味です。母は眠ってばかりいるのでは役に立たたないことを理由に挙げていましたが,実際にはこの日もパッチを貼るだけでなく鎮痛剤のオプソも飲んでいたように,痛みと共に生活し続けることに嫌気がさしてきたのだろうと思います。
僕は延命治療の断念についても,母の意向を尊重することがベストであると考えていたように,もう終末期に入っている母の希望に沿うようにすべてを決定するのがよいと判断していました。ですから母が入院したいという意向を示したことに反対する理由はありませんでした。家がよいと思えば家にいればいいし,病院に入りたいのならそうすればよいと思っていたわけです。家にいたら家にいたで大変なこともあり,入院したら入院したで大変になることもあるわけで,どちらが大変か,他面からいえばどちらが僕にとって楽であるかということは,まったく気になりませんでした。
5月25日,金曜日。妹を迎えに行きました。薬が強くなって母は横になっていることが多くなりましたので,妹も母のことを変に思い出したのではないかと思います。この日は母はオプソを3度飲みました。
5月26日,土曜日。来日中の伯母が妹を昼食に連れ出してくれました。母のオプソの服用はこの日は2度でした。
5月27日,日曜日。同窓会以降は友人宅に宿泊していた叔父が,午後5時ごろに来訪しました。福江島への帰島が翌日でしたので,最後に僕の家で1泊して帰ることにしていたのです。23日に主治医に入院を打診されたときに母が断った理由のひとつに,もう1度だけ叔父と家で会いたい気持ちがあったのかもしれません。
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