10日に放映された第44期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は8月16日。その時点での対戦成績は西山朋佳女流二冠が6勝,渡部愛女流三冠が0勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
振駒で西山二冠が先手となり,5筋位取り中飛車。後手の渡部三段は☖4三銀型の居飛車穴熊。一進一退の攻防が続きました。
第1図は後手がチャンスを迎えています。☖5五銀と一歩を入手して銀を交換し,☖4六歩を狙えば攻め切ることができたようです。
実戦は☖4七桂成☗同銀としてすぐに☖4六歩と打ちました。この局面は後手に歩がないので☗同銀と取ることもできたのですが先手は☗5八銀。さらに☖5五銀にも☗5七銀引と逃げました。
この手順は先手が後手のいいなりになっていて,実際に最善の手順ではないのですが,先手は狙いがあってこう進めました。第2図で後手が☖4七金と打つと先手は指をしならせてという形容がぴったりの手つきで☗2三歩。金を質駒にして反撃に出るのが先手の狙いで,以下は先手があっさりと寄せ切りました。
第2図は後手が優勢で,☖3二金右と寄っておけば,☗2三歩も後に実戦で現れた☗8二飛も緩和していて,先手から反撃するのは大変でした。ただこの手は第1図から第2図に至る手順で先手が屈服したので受けに回るという手で,実戦の流れからは40秒将棋で選択するのは難しかったかもしれません。なので敗着は☖4七金であるとしても,第1図で☖5五銀を選べなかったことの方が,後手としては悔やまれるところかもしれません。
西山二冠が挑戦者に。前期に失ったタイトルを奪還しにいく戦いとなります。
現実的に存在する人間の知性intellectusのうちに虚偽falsitasがあるというだけでは,僕はその人間が自己の力potentiaの下にないとはいいません。とりわけ,虚偽があるのだとしても,その人間が誤謬errorを犯していない場合は,僕はむしろその人間は自己の力の下にある,すなわち自己の権利jusの下にあるといいます。誤謬とは,虚偽が真理veritasであると思い込むことをいうのですから,虚偽があっても誤謬を犯していないというのは,虚偽を真理とは思い込んでいない,あるいはもっと積極的にいうなら,虚偽が虚偽であると知っているということを意味します。スピノザの哲学では虚偽は混乱した観念idea inadaequataあるいは同じことですが誤った観念idea falsaの総体を意味し,真理とは十全な観念idea adaequataあるいは真の観念idea veraの総体を意味します。つまり現実的に存在するある人間の知性のうちにある混乱した観念があるとき,その知性がそれと同時にその観念が混乱した観念であることを知っているなら,僕はその人間はその人間の権利の下にあると解するのです。第四部定理一により,現実的に存在する人間の知性のうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時に存在し得ますから,こうしたことは実際に生じ得ることになります。
僕がこのように考える理由は,スピノザの哲学では虚偽には虚偽の積極性があることが認められているからです。たとえば僕たちの身体corpusがある物体corpusに刺激されたときに生じるその物体の表象像imagoは,その物体の本性essentiaの観念ではありませんが,その物体が僕たちの身体を刺激するafficere限りで,あるいは僕たちの身体がその物体に刺激されるaffici限りで,その物体の本性を含む観念ではあるのです。なのでもし僕たちが何かを表象するimaginariたびに,その表象像が混乱した観念であるということを同時に知るとすれば,人間の精神mens humanaによる事物の表象imaginatioは,第二部定理一七備考でいわれているように,人間の精神の長所であるといわれなければならないのです。したがって,その場合は人間の精神は他者ないしはほかのものの権利の下にあるのではなく,自己の権利の下にあるというべきでしょう。またこのように解さないと,先述した第四部定理一の意味からして,ほとんどのときに人間は自己の権利の下にあることができなくなります。
振駒で西山二冠が先手となり,5筋位取り中飛車。後手の渡部三段は☖4三銀型の居飛車穴熊。一進一退の攻防が続きました。
第1図は後手がチャンスを迎えています。☖5五銀と一歩を入手して銀を交換し,☖4六歩を狙えば攻め切ることができたようです。
実戦は☖4七桂成☗同銀としてすぐに☖4六歩と打ちました。この局面は後手に歩がないので☗同銀と取ることもできたのですが先手は☗5八銀。さらに☖5五銀にも☗5七銀引と逃げました。
この手順は先手が後手のいいなりになっていて,実際に最善の手順ではないのですが,先手は狙いがあってこう進めました。第2図で後手が☖4七金と打つと先手は指をしならせてという形容がぴったりの手つきで☗2三歩。金を質駒にして反撃に出るのが先手の狙いで,以下は先手があっさりと寄せ切りました。
第2図は後手が優勢で,☖3二金右と寄っておけば,☗2三歩も後に実戦で現れた☗8二飛も緩和していて,先手から反撃するのは大変でした。ただこの手は第1図から第2図に至る手順で先手が屈服したので受けに回るという手で,実戦の流れからは40秒将棋で選択するのは難しかったかもしれません。なので敗着は☖4七金であるとしても,第1図で☖5五銀を選べなかったことの方が,後手としては悔やまれるところかもしれません。
西山二冠が挑戦者に。前期に失ったタイトルを奪還しにいく戦いとなります。
現実的に存在する人間の知性intellectusのうちに虚偽falsitasがあるというだけでは,僕はその人間が自己の力potentiaの下にないとはいいません。とりわけ,虚偽があるのだとしても,その人間が誤謬errorを犯していない場合は,僕はむしろその人間は自己の力の下にある,すなわち自己の権利jusの下にあるといいます。誤謬とは,虚偽が真理veritasであると思い込むことをいうのですから,虚偽があっても誤謬を犯していないというのは,虚偽を真理とは思い込んでいない,あるいはもっと積極的にいうなら,虚偽が虚偽であると知っているということを意味します。スピノザの哲学では虚偽は混乱した観念idea inadaequataあるいは同じことですが誤った観念idea falsaの総体を意味し,真理とは十全な観念idea adaequataあるいは真の観念idea veraの総体を意味します。つまり現実的に存在するある人間の知性のうちにある混乱した観念があるとき,その知性がそれと同時にその観念が混乱した観念であることを知っているなら,僕はその人間はその人間の権利の下にあると解するのです。第四部定理一により,現実的に存在する人間の知性のうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時に存在し得ますから,こうしたことは実際に生じ得ることになります。
僕がこのように考える理由は,スピノザの哲学では虚偽には虚偽の積極性があることが認められているからです。たとえば僕たちの身体corpusがある物体corpusに刺激されたときに生じるその物体の表象像imagoは,その物体の本性essentiaの観念ではありませんが,その物体が僕たちの身体を刺激するafficere限りで,あるいは僕たちの身体がその物体に刺激されるaffici限りで,その物体の本性を含む観念ではあるのです。なのでもし僕たちが何かを表象するimaginariたびに,その表象像が混乱した観念であるということを同時に知るとすれば,人間の精神mens humanaによる事物の表象imaginatioは,第二部定理一七備考でいわれているように,人間の精神の長所であるといわれなければならないのです。したがって,その場合は人間の精神は他者ないしはほかのものの権利の下にあるのではなく,自己の権利の下にあるというべきでしょう。またこのように解さないと,先述した第四部定理一の意味からして,ほとんどのときに人間は自己の権利の下にあることができなくなります。
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