ニーチェとゲーテの稿で触れたように,ゲーテはスピノザを好んでいました。また,ニーチェもこれをよく心得ていました。そしてゲーテのスピノザ受容に関して考える場合に,外すことが許されない論争があります。それが,ゲーテ自身も参加したとみなせる,汎神論論争といわれるものです。
ことの発端は,スピノザのことを死んだ犬と表現した文豪のレッシングです。レッシングはヤコービと交友がありました。しかしレッシングの死後に,ヤコービは、レッシングはスピノザを非難していたけれども,それは表向きの態度にすぎず,実際にはスピノザ主義者であったし,自分がスピノザ主義者であるということをヤコービに対しては認めていたという主旨の暴露をしたのです。
レッシングが死んだ後での暴露ですから,それが本当のことであったかどうかは不明です。ただ,ヤコービはスピノザのよき理解者であったとはいえ,神学的観点に立脚する反スピノザという立場ではありましたから,この暴露自体の影響力は非常に大きかったものと思われます。そこで生前のレッシングと親しかったメンデルスゾーンが,もはや何も反論することができないレッシングに代わって,ヤコービとの論争に挑みました。これが汎神論論争といわれるものです。ゲーテはヤコービともメンデルスゾーンとも知り合いでしたから,必然的にこの論争に参加することになったのです。
このとき,メンデルスゾーンは,レッシングのために,ふたつの道を選択することが可能であったように僕には思えます。ひとつは,ヤコービが主張していることはでたらめであって,レッシングは本当はスピノザ主義者などではなったという仕方で,貶められたレッシングの名誉を回復させる道です。もうひとつは,スピノザ主義というのは一般的にイメージされているように,性質が悪い思想ではないのだから,レッシングがスピノザ主義者であったとしても何の問題もないと主張することです。これはいってみれば,貶められているスピノザ主義自体の名誉を回復させる道といえるでしょう。
メンデルスゾーンが選択したのは,後者の道でした。
順序立てて概略化していえば,僕が初めて神という概念に具体的なイメージを伴わせることができたとき,意志と善意という二者択一があって,僕は意志の方を選択しました。この選択がスピノザへのインスピレーションを産みました。そして『エチカ』を熟読することによって,今度は意志と必然という二者択一を迫られ,僕は必然の方を選択することになったのです。そこでここからは,最初の二者択一でライプニッツのように善意の方を選択した場合に,そこから派生してくると思われる,別の事柄について考えていくことにします。事前に少し触れておいたように,ライプニッツが宿命とか運命と規定するような事柄,スピノザの哲学でいえば,第二のタイプと第三のタイプの必然に関連する事柄です。
まず最初に,ライプニッツにとって,神を必然的なものと規定することと,神を運命的な存在,あるいは宿命的な存在と規定することは,同じ意味であったと考えられます。いい換えれば,第一部定義七のように自由を定義することに,ライプニッツは異議を申し立てるであろうと予測されます。おそらくライプニッツにとって,運命や宿命の反対の概念が自由であったと理解できるからです。なので,それ自身の本性の必然性によって存在と働きに決定されることは,それ自身といわれているものを運命的なものと規定することだとライプニッツは判断するというように僕は考えます。もちろんスピノザ哲学の意味で強制されるといわれるようなものは,当然ながら運命的であるものに分類しなければなりません。要するにスピノザが自由であると規定しているものも強制されると規定しているものも,いずれもライプニッツにとっては運命的であると規定されることになります。
神の自由の領域を設定するということは,ライプニッツにとっては,この意味において神を運命的な存在から抜け出させることであったわけです。ライプニッツ自身の規定に従うなら,それが成功しているということは確かであろうと僕も認めます。しかしスピノザが強制的と規定している存在に関しては,ライプニッツにとっても運命的な存在のままであるといわなければならないでしょう。
ことの発端は,スピノザのことを死んだ犬と表現した文豪のレッシングです。レッシングはヤコービと交友がありました。しかしレッシングの死後に,ヤコービは、レッシングはスピノザを非難していたけれども,それは表向きの態度にすぎず,実際にはスピノザ主義者であったし,自分がスピノザ主義者であるということをヤコービに対しては認めていたという主旨の暴露をしたのです。
レッシングが死んだ後での暴露ですから,それが本当のことであったかどうかは不明です。ただ,ヤコービはスピノザのよき理解者であったとはいえ,神学的観点に立脚する反スピノザという立場ではありましたから,この暴露自体の影響力は非常に大きかったものと思われます。そこで生前のレッシングと親しかったメンデルスゾーンが,もはや何も反論することができないレッシングに代わって,ヤコービとの論争に挑みました。これが汎神論論争といわれるものです。ゲーテはヤコービともメンデルスゾーンとも知り合いでしたから,必然的にこの論争に参加することになったのです。
このとき,メンデルスゾーンは,レッシングのために,ふたつの道を選択することが可能であったように僕には思えます。ひとつは,ヤコービが主張していることはでたらめであって,レッシングは本当はスピノザ主義者などではなったという仕方で,貶められたレッシングの名誉を回復させる道です。もうひとつは,スピノザ主義というのは一般的にイメージされているように,性質が悪い思想ではないのだから,レッシングがスピノザ主義者であったとしても何の問題もないと主張することです。これはいってみれば,貶められているスピノザ主義自体の名誉を回復させる道といえるでしょう。
メンデルスゾーンが選択したのは,後者の道でした。
順序立てて概略化していえば,僕が初めて神という概念に具体的なイメージを伴わせることができたとき,意志と善意という二者択一があって,僕は意志の方を選択しました。この選択がスピノザへのインスピレーションを産みました。そして『エチカ』を熟読することによって,今度は意志と必然という二者択一を迫られ,僕は必然の方を選択することになったのです。そこでここからは,最初の二者択一でライプニッツのように善意の方を選択した場合に,そこから派生してくると思われる,別の事柄について考えていくことにします。事前に少し触れておいたように,ライプニッツが宿命とか運命と規定するような事柄,スピノザの哲学でいえば,第二のタイプと第三のタイプの必然に関連する事柄です。
まず最初に,ライプニッツにとって,神を必然的なものと規定することと,神を運命的な存在,あるいは宿命的な存在と規定することは,同じ意味であったと考えられます。いい換えれば,第一部定義七のように自由を定義することに,ライプニッツは異議を申し立てるであろうと予測されます。おそらくライプニッツにとって,運命や宿命の反対の概念が自由であったと理解できるからです。なので,それ自身の本性の必然性によって存在と働きに決定されることは,それ自身といわれているものを運命的なものと規定することだとライプニッツは判断するというように僕は考えます。もちろんスピノザ哲学の意味で強制されるといわれるようなものは,当然ながら運命的であるものに分類しなければなりません。要するにスピノザが自由であると規定しているものも強制されると規定しているものも,いずれもライプニッツにとっては運命的であると規定されることになります。
神の自由の領域を設定するということは,ライプニッツにとっては,この意味において神を運命的な存在から抜け出させることであったわけです。ライプニッツ自身の規定に従うなら,それが成功しているということは確かであろうと僕も認めます。しかしスピノザが強制的と規定している存在に関しては,ライプニッツにとっても運命的な存在のままであるといわなければならないでしょう。
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