スピノザの哲学における真理獲得の方法については,僕の考え方を説明しました。ただ,一般的に哲学における方法論というのは,真理veritasを獲得する方法だけを意味するわけではありません。そこで,スピノザの哲学における方法論全般に焦点を当て,それを網羅的に研究したものとして,國分功一郎の『スピノザの方法』という解説書があります。
デカルトRené Descartesは,哲学を『情念論Les Passions de l'âme』で示し,方法論は『方法序説Discours de la méthode』でそれとは別に示したというのが一般的な解釈です。それに倣えば,スピノザは哲学を『エチカ』に著し,方法論は『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で別に著したといえます。もっとも,『知性改善論』は未完ですから,著したというのは正確ではなく,著そうとしたというべきかもしれません。
こうした事情ですから,スピノザの方法論について探求しようと思うならば,まず『知性改善論』を徹底的に解析するというのが,手法としてまず考えられるところです。実際に『知性改善論』を無視してスピノザの方法論を考察するというのは無理なことなのであって,國分もまずはそうした手法から課題に接近しています。
僕はそうは考えていないのですが,『知性改善論』が未完で終ったということは,そこに示された方法論には無理があったからだと理解できないことはありません。ドゥルーズGille Deleuzeが『知性改善論』に共通概念notiones communesを絡めて主張していることは,おおよそそのような内容を有していると僕は理解しています。しかし,國分はその見解opinioには,僕と同じ意味においてとはいえないでしょうが,疑義を抱いているようです。
そのために,國分は『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を利用します。この著書はスピノザによるデカルト哲学の再構成ですが,デカルトが実際にしたのとは異なった順序で説明されている部分があります。國分はそれに目をつけ,その順序の相違は,デカルトの方法論とスピノザの方法論の差異によるものと理解し,だからそこにはスピノザの哲学に特有の方法論が存在しているという観点から,スピノザの方法を網羅的に概説していきます。内容をどうこういう前に,この視点が素晴らしいと僕には思えました。
2011年1月の発行。日本語で読める近年のスピノザ研究としては名著中の名著だと思います。ぜひご一読ください。
僕の考えでは,真偽不明である事柄に関しても,真理と非真理がそうであるのと同じように,それが神Deusの認識cognitioのうちにあるとライプニッツ主義は規定する必要があります。あるモナドMonadeと別のモナドが実在的にrealiter区別されなければならないなら,それが必須であると考えるからです。
スピノザとライプニッツが会見するという命題は,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizには真偽不明と判断されます。このために,スピノザとライプニッツが会見するモナドと,会見しないモナドの両方が実在しなければなりません。そこで,それ以外のすべての条件は一致し,スピノザとライプニッツが会見するかしないかだけが異なっているふたつのモナドがあると仮定して,会見する方をモナドA,会見しない方をモナドBと記号化します。僕がいっているのは実際にAとBのふたつのモナドが実在するということではありません。このような規定から何が帰結するかを考察するために仮定するということです。
AとBは実在的に区別されなければなりません。いい換えればAとBには共通点はありません。したがって第一部公理五により,知性intellectusはAを認識してもBを認識するcognoscereことはできないし,Bを認識することによってAを認識することもできないことになります。厳密にいうとこれはスピノザ主義の規定ですが,ライプニッツ主義もこれを認める必要があります。認めない場合はヘーゲルのライプニッツ批判を受容する必要が生じるからです。
このことが示しているのは,Aではスピノザとライプニッツは会見し,Bではスピノザとライプニッツは会見しないのですが,知性はこの認識によってはAとBを区別することができないということです。このこと自体がややおかしく思えるのですが,それに関しては少し後で説明しましょう。
ではAとBはいかにして区別され得るのでしょうか。それは,AともBとも共通点を有しているモナドの中のモナドすなわち神の認識によって区別されるのです。したがって,AもBも真偽不明であるということ,いい換えればスピノザとライプニッツが会見するということが真偽不明であるという認識が,神のうちにあるのでなければなりません。
デカルトRené Descartesは,哲学を『情念論Les Passions de l'âme』で示し,方法論は『方法序説Discours de la méthode』でそれとは別に示したというのが一般的な解釈です。それに倣えば,スピノザは哲学を『エチカ』に著し,方法論は『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で別に著したといえます。もっとも,『知性改善論』は未完ですから,著したというのは正確ではなく,著そうとしたというべきかもしれません。
こうした事情ですから,スピノザの方法論について探求しようと思うならば,まず『知性改善論』を徹底的に解析するというのが,手法としてまず考えられるところです。実際に『知性改善論』を無視してスピノザの方法論を考察するというのは無理なことなのであって,國分もまずはそうした手法から課題に接近しています。
僕はそうは考えていないのですが,『知性改善論』が未完で終ったということは,そこに示された方法論には無理があったからだと理解できないことはありません。ドゥルーズGille Deleuzeが『知性改善論』に共通概念notiones communesを絡めて主張していることは,おおよそそのような内容を有していると僕は理解しています。しかし,國分はその見解opinioには,僕と同じ意味においてとはいえないでしょうが,疑義を抱いているようです。
そのために,國分は『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を利用します。この著書はスピノザによるデカルト哲学の再構成ですが,デカルトが実際にしたのとは異なった順序で説明されている部分があります。國分はそれに目をつけ,その順序の相違は,デカルトの方法論とスピノザの方法論の差異によるものと理解し,だからそこにはスピノザの哲学に特有の方法論が存在しているという観点から,スピノザの方法を網羅的に概説していきます。内容をどうこういう前に,この視点が素晴らしいと僕には思えました。
2011年1月の発行。日本語で読める近年のスピノザ研究としては名著中の名著だと思います。ぜひご一読ください。
僕の考えでは,真偽不明である事柄に関しても,真理と非真理がそうであるのと同じように,それが神Deusの認識cognitioのうちにあるとライプニッツ主義は規定する必要があります。あるモナドMonadeと別のモナドが実在的にrealiter区別されなければならないなら,それが必須であると考えるからです。
スピノザとライプニッツが会見するという命題は,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizには真偽不明と判断されます。このために,スピノザとライプニッツが会見するモナドと,会見しないモナドの両方が実在しなければなりません。そこで,それ以外のすべての条件は一致し,スピノザとライプニッツが会見するかしないかだけが異なっているふたつのモナドがあると仮定して,会見する方をモナドA,会見しない方をモナドBと記号化します。僕がいっているのは実際にAとBのふたつのモナドが実在するということではありません。このような規定から何が帰結するかを考察するために仮定するということです。
AとBは実在的に区別されなければなりません。いい換えればAとBには共通点はありません。したがって第一部公理五により,知性intellectusはAを認識してもBを認識するcognoscereことはできないし,Bを認識することによってAを認識することもできないことになります。厳密にいうとこれはスピノザ主義の規定ですが,ライプニッツ主義もこれを認める必要があります。認めない場合はヘーゲルのライプニッツ批判を受容する必要が生じるからです。
このことが示しているのは,Aではスピノザとライプニッツは会見し,Bではスピノザとライプニッツは会見しないのですが,知性はこの認識によってはAとBを区別することができないということです。このこと自体がややおかしく思えるのですが,それに関しては少し後で説明しましょう。
ではAとBはいかにして区別され得るのでしょうか。それは,AともBとも共通点を有しているモナドの中のモナドすなわち神の認識によって区別されるのです。したがって,AもBも真偽不明であるということ,いい換えればスピノザとライプニッツが会見するということが真偽不明であるという認識が,神のうちにあるのでなければなりません。
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