一昨日と昨日,掛川城二の丸茶室で指された第74期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王将が18勝,永瀬拓矢九段が7勝。千日手が2局あります。
掛川市長の振駒で永瀬九段の先手となり相掛り。後手の藤井王将の玉型の関係から先手が早々に1筋から仕掛け,先手が歩を損する代償に後手の陣形を愚形にするという戦いになりました。
ここは先手にとって岐路の局面。実戦は☗7一角と打ちましたが,☗1二角も有力手で,実戦の進行からするとそちらを選択するべきだったと思われます。というのはこの手には☖9二飛と逃げる手があり,これが後の☖9五角を見据えた逃げ場所になっていたからです。
この後,先手は5三で清算。後手が銀ではなく金の方を渡したので☗8二金から飛車金交換となり,下図の局面に進みました。
囲碁将棋チャンネルのAIによれば,この局面は☗6六飛と寄り,☖6四香が絶好にみえるのですが☗6五飛☖同香に☗4五桂と打てば先手に分がある戦いであったそうです。ただこれは非常に難解な手順なので,選べなかったとしても仕方がないように思えます。なので勝敗の帰路は上図の方にあったのではないでしょうか。
藤井王将が先勝。第二局は25日と26日に指される予定です。
スピノザの哲学と主知主義の親和性は,以下の点にみられると僕は考えています。
スピノザの哲学では,神Deusの本性naturaの必然性necessitasから無限に多くのinfinitaことが無限に多くの仕方で生じることになっています。これは第一部定理一六にみられる考え方です。したがって,ある事柄が神の本性の必然性に即しているということであれば,その事柄はすべて必然的にnecessario生じるのです。これに対して,ある事柄が神の本性の必然性に反しているのであれば,その事柄が生じることはありません。このことが不変の法則として成立していることになります。
スピノザはこのことを神の完全性perfectioと関連付けて説明するのですが,これについては何度もいってきたことですからここでは繰り返しません。ただ,主意主義と主知主義,吉田の分類によれば神の全知および全能と関連させていえば,もし神がなし得ることのすべてをなすのであれば神は全能といえるが,なし得ることの一部しかなさない神は全能とはいえないというのがスピノザの考え方になるのです。よって,もし神が真理veritasを虚偽falsitasにすることができるのに,それをなさないというなら,神は全能であるといえないことになります。なので自由意志voluntas liberaによって神にはそれができるという立場を採用しなければならない主意主義とは,この点でもスピノザは訣別しているといえるでしょう。
一方でスピノザがいう全知というのは,神の本性の必然性に即した全知を意味するのであって,神の本性の必然性に反することまで含めたような全知ではありません。神の本性の必然性に反するようなことは何も生じないのですから,もしそうしたことが認識されるなら,いい換えればそうしたものの観念ideaがあるのなら,その観念は誤った観念idea falsa以外の何ものでもありません。つまり神が全知であるということは,神のうちには無限に多くの真の観念idea veraがあるということであり,同時に神のうちには一切の誤った観念はないということでもあるのです。よってもしも主知主義がこの点を肯定するaffirmareのであれば,つまり神は全知であるとはいっても,それは神が不条理な事柄を認識するcognoscereという意味ではないというのであれば,スピノザの思想は主知主義的だといえるでしょう。
掛川市長の振駒で永瀬九段の先手となり相掛り。後手の藤井王将の玉型の関係から先手が早々に1筋から仕掛け,先手が歩を損する代償に後手の陣形を愚形にするという戦いになりました。
ここは先手にとって岐路の局面。実戦は☗7一角と打ちましたが,☗1二角も有力手で,実戦の進行からするとそちらを選択するべきだったと思われます。というのはこの手には☖9二飛と逃げる手があり,これが後の☖9五角を見据えた逃げ場所になっていたからです。
この後,先手は5三で清算。後手が銀ではなく金の方を渡したので☗8二金から飛車金交換となり,下図の局面に進みました。
囲碁将棋チャンネルのAIによれば,この局面は☗6六飛と寄り,☖6四香が絶好にみえるのですが☗6五飛☖同香に☗4五桂と打てば先手に分がある戦いであったそうです。ただこれは非常に難解な手順なので,選べなかったとしても仕方がないように思えます。なので勝敗の帰路は上図の方にあったのではないでしょうか。
藤井王将が先勝。第二局は25日と26日に指される予定です。
スピノザの哲学と主知主義の親和性は,以下の点にみられると僕は考えています。
スピノザの哲学では,神Deusの本性naturaの必然性necessitasから無限に多くのinfinitaことが無限に多くの仕方で生じることになっています。これは第一部定理一六にみられる考え方です。したがって,ある事柄が神の本性の必然性に即しているということであれば,その事柄はすべて必然的にnecessario生じるのです。これに対して,ある事柄が神の本性の必然性に反しているのであれば,その事柄が生じることはありません。このことが不変の法則として成立していることになります。
スピノザはこのことを神の完全性perfectioと関連付けて説明するのですが,これについては何度もいってきたことですからここでは繰り返しません。ただ,主意主義と主知主義,吉田の分類によれば神の全知および全能と関連させていえば,もし神がなし得ることのすべてをなすのであれば神は全能といえるが,なし得ることの一部しかなさない神は全能とはいえないというのがスピノザの考え方になるのです。よって,もし神が真理veritasを虚偽falsitasにすることができるのに,それをなさないというなら,神は全能であるといえないことになります。なので自由意志voluntas liberaによって神にはそれができるという立場を採用しなければならない主意主義とは,この点でもスピノザは訣別しているといえるでしょう。
一方でスピノザがいう全知というのは,神の本性の必然性に即した全知を意味するのであって,神の本性の必然性に反することまで含めたような全知ではありません。神の本性の必然性に反するようなことは何も生じないのですから,もしそうしたことが認識されるなら,いい換えればそうしたものの観念ideaがあるのなら,その観念は誤った観念idea falsa以外の何ものでもありません。つまり神が全知であるということは,神のうちには無限に多くの真の観念idea veraがあるということであり,同時に神のうちには一切の誤った観念はないということでもあるのです。よってもしも主知主義がこの点を肯定するaffirmareのであれば,つまり神は全知であるとはいっても,それは神が不条理な事柄を認識するcognoscereという意味ではないというのであれば,スピノザの思想は主知主義的だといえるでしょう。
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