19日に指された第32期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は福間香奈倉敷藤花が30勝,伊藤沙恵女流四段が11勝。
振駒で福間倉敷藤花の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の伊藤女流四段が向飛車にして相振飛車。先手が左玉から6筋の位も取るという力戦になりました。
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ここで☖5三金と上がりました。先手の玉頭から攻めようという目論み。察知した先手は☗5八王と引きました。
手の流れからは☖6四歩と突くのでなければならないのですが,それが無理ということで☖6一飛と回りました。ただそのために先に先手から☗8五歩と攻められ,苦戦を招きました。
図では☖2四歩と突いて2筋の突破を目指していくのがよかったようです。突破できるわけではないのですが,受けるためには先手は☗3六歩から桂馬を跳ねて☗2九飛と回らざるを得ず,8筋からの攻めを緩和できる上に角筋も通っていて,後手も戦えたようです。
福間倉敷藤花が先勝。第二局は来月25日に指される予定です。
第三部諸感情の定義一三の感情affectusは,それ自体でみられるときは不安metusと訳されるより恐怖metusと訳される方がよいので,畠中が恐怖という訳を選択していることにも一理あります。ただこの場合はとくに第三部諸感情の定義一三説明でいわれていることに注意しなければならないのであって,この恐怖は単に希望の反対感情であるばかりでなく,常に希望spesという感情とともに同じ人間の精神mens humanaのうちにあるのです。
僕が示した例でいえば,死の恐怖に怯えている人間の精神のうちに希望が同時に存在するというようには考えにくいのではないかと思います。しかし実際はそうではなく,死が不確かなものである以上はそこに希望が存在しているのです。これは,もし死が確実視されるものとして表象される場合は,その感情は恐怖,僕や吉田の訳でいえば不安といわれるのではなく,第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioに該当するということに注意すれば分かりやすいでしょう。不確かな死への恐怖に怯えている人間のうちには,希望,生きることへの希望が同時に存在しているのです。他面からいえば,人間は生きることへの希望を有しているから,死への恐怖に怯えることができるということになるのです。
これは僕が糖尿病を発症し,救急車で病院へ運ばれる前に自宅でほぼ寝たきりの状態になっていたときにもいったことですが,『悪霊』のキリーロフの自殺を例示したときにいったことを想起すればよく分かると思います。キリーロフの自殺はキリーロフ自身の人神思想に由来しているのであり,その人神思想によれば,死の恐怖を克服した人間が神になることができるのです。キリーロフは自身が死への恐怖を克服した,すなわち神になることができる人間であるということを証明するために自殺したのです。しかしそれは,キリーロフの中に生きることへの希望がなかったということを意味するのであって,生への希望を失っている人間が自殺することは,是非は別として凡庸なことだと僕には思えます。自身が生きていくことへの希望をいっかな失ってしまっている人間が,どうして自分の死に怯えることができるでしょうか。
このように,恐怖は常に希望とともにあるのです。
振駒で福間倉敷藤花の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の伊藤女流四段が向飛車にして相振飛車。先手が左玉から6筋の位も取るという力戦になりました。
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ここで☖5三金と上がりました。先手の玉頭から攻めようという目論み。察知した先手は☗5八王と引きました。
手の流れからは☖6四歩と突くのでなければならないのですが,それが無理ということで☖6一飛と回りました。ただそのために先に先手から☗8五歩と攻められ,苦戦を招きました。
図では☖2四歩と突いて2筋の突破を目指していくのがよかったようです。突破できるわけではないのですが,受けるためには先手は☗3六歩から桂馬を跳ねて☗2九飛と回らざるを得ず,8筋からの攻めを緩和できる上に角筋も通っていて,後手も戦えたようです。
福間倉敷藤花が先勝。第二局は来月25日に指される予定です。
第三部諸感情の定義一三の感情affectusは,それ自体でみられるときは不安metusと訳されるより恐怖metusと訳される方がよいので,畠中が恐怖という訳を選択していることにも一理あります。ただこの場合はとくに第三部諸感情の定義一三説明でいわれていることに注意しなければならないのであって,この恐怖は単に希望の反対感情であるばかりでなく,常に希望spesという感情とともに同じ人間の精神mens humanaのうちにあるのです。
僕が示した例でいえば,死の恐怖に怯えている人間の精神のうちに希望が同時に存在するというようには考えにくいのではないかと思います。しかし実際はそうではなく,死が不確かなものである以上はそこに希望が存在しているのです。これは,もし死が確実視されるものとして表象される場合は,その感情は恐怖,僕や吉田の訳でいえば不安といわれるのではなく,第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioに該当するということに注意すれば分かりやすいでしょう。不確かな死への恐怖に怯えている人間のうちには,希望,生きることへの希望が同時に存在しているのです。他面からいえば,人間は生きることへの希望を有しているから,死への恐怖に怯えることができるということになるのです。
これは僕が糖尿病を発症し,救急車で病院へ運ばれる前に自宅でほぼ寝たきりの状態になっていたときにもいったことですが,『悪霊』のキリーロフの自殺を例示したときにいったことを想起すればよく分かると思います。キリーロフの自殺はキリーロフ自身の人神思想に由来しているのであり,その人神思想によれば,死の恐怖を克服した人間が神になることができるのです。キリーロフは自身が死への恐怖を克服した,すなわち神になることができる人間であるということを証明するために自殺したのです。しかしそれは,キリーロフの中に生きることへの希望がなかったということを意味するのであって,生への希望を失っている人間が自殺することは,是非は別として凡庸なことだと僕には思えます。自身が生きていくことへの希望をいっかな失ってしまっている人間が,どうして自分の死に怯えることができるでしょうか。
このように,恐怖は常に希望とともにあるのです。
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