昨晩の第31回アフター5スター賞。
ブラックストームは発馬であおって4馬身の不利。ハセノエクスプレスが前に出て内からエンテレケイア,外からカラフルキューブが追っていく形。ローウェルとジゼルが並んで続きマックスを挟んでプリンスリターンとスターシューターが併走。ラヴケリー,スワーヴシャルル,ブンロートの順で続きました。2馬身差でカセノダンサーで4馬身差の最後尾にブラックストーム。前の3頭は内からエンテレケイアが前に出て,ハセノエクスプレス,カラフルキューブの順に落ち着きました。前半の600mは34秒6のハイペース。
3コーナーからも前の3頭は雁行。2馬身差でローウェルが続き,外から追い上げてきたのがマックスとスターシューター。直線に入るとカラフルキューブは一杯。ハセノエクスプレスの外からマックスが追い上げてきて,抜け出したエンテレケイアを追いました。差は一時的に詰まったのですが,そこからまたエンテレケイアが一伸び。鋭く逃げ切ったエンテレケイアが優勝。マックスが1馬身4分の1差で2着。ハセノエクスプレスが4分の3馬身差で3着。
優勝したエンテレケイアは習志野きらっとスプリントから連勝で南関東重賞2勝目。ここにきて本格化したという印象で,スピード能力を生かしての勝利。タイムからは重賞では厳しそうですが,南関東重賞のスプリント戦ではトップに立ったとみてよいと思います。父はアジアエクスプレス。Entelecheiaは哲学用語で完成された現実性。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞36勝目。第21回以来10年ぶりのアフター5スター賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞69勝目。第21回,22回に続く9年ぶりのアフター5スター賞3勝目。
これはあくまでも物語であって,実際にそうであったといいたいわけではありません。ただ,フッデJohann Huddeに対する配慮とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮の間には差があったということは厳然たる事実であって,その理由をどこに見出すかといったときに,僕が物語として提示した仮説を全面的に否定できるわけではないと思います。もちろんだからシュラーGeorg Hermann Schullerがスピノザの最期を看取ったのだとしなければならないわけではないですが,この仮説に対してわずかでも有利な条件になることは事実だと思います。とはいえコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaが示しているのはその医師はマイエルLodewijk Meyerだったということであって,事実としてそうであったかもしれません。一方でこの医師がシュラーであった可能性もないとはいえないのであって,それも否定する必要はないでしょう。ただ,マイエルであるかシュラーであるかのどちらかなのであって,それ以外の人物ではなかったと思います。
スピノザの死後のことで,スペイクが関わったのだけれど,コレルスの伝記では触れられていない重要なことがひとつあります。
スピノザは生前,もしも自分が死ぬようなことがあったら,おそらくスピノザが哲学の研究に使っていたと思われる机については,遺品として整理するのではなく,アムステルダムAmsterdamのリューウェルツJan Rieuwertszに送るようにスペイクに依頼していました。どのような形であったのかは分かりませんが,スペイクがこの依頼を忠実に守ったことははっきりしています。というのはこの机の中にスピノザの遺稿が入っていたのであって,編集者でもありまた印刷業と書店業を営んでいたリューウェルツの手にこの机が渡ったから,遺稿集Opera Posthumaの発刊が可能になったからです。したがってこのことは,それこそアムステルダムから来た医師が,スピノザが置いておいた金品をポケットに入れてその日のうちに帰ってしまったなどということと比べればよほど重要なことなのであって,伝記の中に記しておくべき事柄であったと思われます。しかしコレルスJohannes Colerusはこのことを記していません。これはたぶんコレルスがそのことを知らなかったからなのであって,つまりスペイクがそのことをスペイクに秘匿したからだと思われます。
ブラックストームは発馬であおって4馬身の不利。ハセノエクスプレスが前に出て内からエンテレケイア,外からカラフルキューブが追っていく形。ローウェルとジゼルが並んで続きマックスを挟んでプリンスリターンとスターシューターが併走。ラヴケリー,スワーヴシャルル,ブンロートの順で続きました。2馬身差でカセノダンサーで4馬身差の最後尾にブラックストーム。前の3頭は内からエンテレケイアが前に出て,ハセノエクスプレス,カラフルキューブの順に落ち着きました。前半の600mは34秒6のハイペース。
3コーナーからも前の3頭は雁行。2馬身差でローウェルが続き,外から追い上げてきたのがマックスとスターシューター。直線に入るとカラフルキューブは一杯。ハセノエクスプレスの外からマックスが追い上げてきて,抜け出したエンテレケイアを追いました。差は一時的に詰まったのですが,そこからまたエンテレケイアが一伸び。鋭く逃げ切ったエンテレケイアが優勝。マックスが1馬身4分の1差で2着。ハセノエクスプレスが4分の3馬身差で3着。
優勝したエンテレケイアは習志野きらっとスプリントから連勝で南関東重賞2勝目。ここにきて本格化したという印象で,スピード能力を生かしての勝利。タイムからは重賞では厳しそうですが,南関東重賞のスプリント戦ではトップに立ったとみてよいと思います。父はアジアエクスプレス。Entelecheiaは哲学用語で完成された現実性。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞36勝目。第21回以来10年ぶりのアフター5スター賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞69勝目。第21回,22回に続く9年ぶりのアフター5スター賞3勝目。
これはあくまでも物語であって,実際にそうであったといいたいわけではありません。ただ,フッデJohann Huddeに対する配慮とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮の間には差があったということは厳然たる事実であって,その理由をどこに見出すかといったときに,僕が物語として提示した仮説を全面的に否定できるわけではないと思います。もちろんだからシュラーGeorg Hermann Schullerがスピノザの最期を看取ったのだとしなければならないわけではないですが,この仮説に対してわずかでも有利な条件になることは事実だと思います。とはいえコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaが示しているのはその医師はマイエルLodewijk Meyerだったということであって,事実としてそうであったかもしれません。一方でこの医師がシュラーであった可能性もないとはいえないのであって,それも否定する必要はないでしょう。ただ,マイエルであるかシュラーであるかのどちらかなのであって,それ以外の人物ではなかったと思います。
スピノザの死後のことで,スペイクが関わったのだけれど,コレルスの伝記では触れられていない重要なことがひとつあります。
スピノザは生前,もしも自分が死ぬようなことがあったら,おそらくスピノザが哲学の研究に使っていたと思われる机については,遺品として整理するのではなく,アムステルダムAmsterdamのリューウェルツJan Rieuwertszに送るようにスペイクに依頼していました。どのような形であったのかは分かりませんが,スペイクがこの依頼を忠実に守ったことははっきりしています。というのはこの机の中にスピノザの遺稿が入っていたのであって,編集者でもありまた印刷業と書店業を営んでいたリューウェルツの手にこの机が渡ったから,遺稿集Opera Posthumaの発刊が可能になったからです。したがってこのことは,それこそアムステルダムから来た医師が,スピノザが置いておいた金品をポケットに入れてその日のうちに帰ってしまったなどということと比べればよほど重要なことなのであって,伝記の中に記しておくべき事柄であったと思われます。しかしコレルスJohannes Colerusはこのことを記していません。これはたぶんコレルスがそのことを知らなかったからなのであって,つまりスペイクがそのことをスペイクに秘匿したからだと思われます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます