新潮文庫版の『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の中に,キリストという意訳がみられるということが『生き抜くためのドストエフスキー入門』では指摘されているわけですが,この意訳が生じる要因がどういうところにあったのかということを,佐藤は推察しています。一言でいえばそれは,日本におけるキリスト教の理解の限界だというのが佐藤の見解です。
キリスト教では,人間は神の似姿として創造されたけれども,自由意志を悪用してしまったので罪の中に沈んでしまったという考え方があります。いわゆる原罪といわれるものです。この原罪を人間は自力で解消することができません。そこでそれを解消するために,神はイエスを地上に送り,そこから原罪からの救済が始まるのです。ただしこれは救済が開始されるということを意味するのであって,救済が完了するということを意味するのではありません。
イエスは十字架に架けられた上で処刑され,その後に復活します。復活したイエスはすぐに来ると言い残して天に上ります。しかしイエスは未だに戻ってきていません。救済の完了とはイエスの再来を意味するのですが,イエスは再来していないので救済は完了しておらず,現在もまだ終末期にあり,佐藤のいい方に倣えば,終末が遅延しているのです。
この間に,自分こそがイエスの再来であると自称する者が現れたとしたら,その人間は偽イエス,偽キリストということになります。ここでは仮定としていいましたが,実際にそうした人間はいたのであり,ロシアにはとくに多かったのだと佐藤は指摘しています。佐藤によればドストエフスキーはこのことを踏まえて「大審問官」を書いているのです。したがって,原卓也によってキリストと訳されている部分は,偽キリストという意味かもしれないのであって,確かにキリストという解釈も可能ではあるのですが,偽キリストという解釈も可能な文章になっていると佐藤はいっています。
この指摘は心得ておかなければならないでしょう。「大審問官」を読むときに,キリストという文脈だけで理解するのは危険があるようです。
これとは別の見方として,デカルトRené Descartesもそれに従っている,ユダヤ教あるいはキリスト教的な創造主としての神Deusを,世界に対して外的なものでなく内的なものとしてみる解釈もできます。すなわち,神の自由意志voluntas liberaを想定して,その自由意志の下に神によって産出されることになる被造物としての世界が,創造主としての神のうちに余すところなく含まれているので,被造物としての世界が神の外部に出ることはあることも考えるconcipereこともできないとする見方です。ただこの見方は,第一部定理一五については十全に説明しているといえますが,第一部定理一八については十全には説明しきれません。神があらゆる被造物の内在的原因causa immanensとして働くagereのであれば,包み込む存在existentiaである筈の神が,部分的にではあれ世界の内に包み込まれる事態も想定しなければなりませんから,これでは神が世界を包み込むこと自体が成立しなくなってしまうからです。
吉田はここではいっていませんが,ここには重大な指摘が含まれているといわなければならないでしょう。第一部定理一五を理解するときに,ここでは神の自由意志をもち出しましたから,というのは吉田がそのように説明しているからなのですが,第一部定理三二系一により,それがスピノザの哲学に該当しないということはそれ自体で明らかです。しかしこの説明は,神の自由意志を,神の本性naturaの必然性necessitasといい換えても成立するでしょう。そしてスピノザは第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で発生するといっているのです。なのでこのときにこれらの定理Propositioを,ユダヤ教あるいはキリスト教における神と世界の関係にあたる,創造主と被造物という関係でみること自体が,実は誤解なのであるということがここでは指摘されているのです。神がなければ何もあることも考えることもできないということはスピノザの哲学においてもその通りではあるのですが,それは神が創造主であって世界が被造物である,あるいは世界を構成する各々の個物res singularisが被造物であるという関係を,十全に示しているというわけではないのです。このような仕方で神と世界の関係を解さないように注意しなければなりません。
キリスト教では,人間は神の似姿として創造されたけれども,自由意志を悪用してしまったので罪の中に沈んでしまったという考え方があります。いわゆる原罪といわれるものです。この原罪を人間は自力で解消することができません。そこでそれを解消するために,神はイエスを地上に送り,そこから原罪からの救済が始まるのです。ただしこれは救済が開始されるということを意味するのであって,救済が完了するということを意味するのではありません。
イエスは十字架に架けられた上で処刑され,その後に復活します。復活したイエスはすぐに来ると言い残して天に上ります。しかしイエスは未だに戻ってきていません。救済の完了とはイエスの再来を意味するのですが,イエスは再来していないので救済は完了しておらず,現在もまだ終末期にあり,佐藤のいい方に倣えば,終末が遅延しているのです。
この間に,自分こそがイエスの再来であると自称する者が現れたとしたら,その人間は偽イエス,偽キリストということになります。ここでは仮定としていいましたが,実際にそうした人間はいたのであり,ロシアにはとくに多かったのだと佐藤は指摘しています。佐藤によればドストエフスキーはこのことを踏まえて「大審問官」を書いているのです。したがって,原卓也によってキリストと訳されている部分は,偽キリストという意味かもしれないのであって,確かにキリストという解釈も可能ではあるのですが,偽キリストという解釈も可能な文章になっていると佐藤はいっています。
この指摘は心得ておかなければならないでしょう。「大審問官」を読むときに,キリストという文脈だけで理解するのは危険があるようです。
これとは別の見方として,デカルトRené Descartesもそれに従っている,ユダヤ教あるいはキリスト教的な創造主としての神Deusを,世界に対して外的なものでなく内的なものとしてみる解釈もできます。すなわち,神の自由意志voluntas liberaを想定して,その自由意志の下に神によって産出されることになる被造物としての世界が,創造主としての神のうちに余すところなく含まれているので,被造物としての世界が神の外部に出ることはあることも考えるconcipereこともできないとする見方です。ただこの見方は,第一部定理一五については十全に説明しているといえますが,第一部定理一八については十全には説明しきれません。神があらゆる被造物の内在的原因causa immanensとして働くagereのであれば,包み込む存在existentiaである筈の神が,部分的にではあれ世界の内に包み込まれる事態も想定しなければなりませんから,これでは神が世界を包み込むこと自体が成立しなくなってしまうからです。
吉田はここではいっていませんが,ここには重大な指摘が含まれているといわなければならないでしょう。第一部定理一五を理解するときに,ここでは神の自由意志をもち出しましたから,というのは吉田がそのように説明しているからなのですが,第一部定理三二系一により,それがスピノザの哲学に該当しないということはそれ自体で明らかです。しかしこの説明は,神の自由意志を,神の本性naturaの必然性necessitasといい換えても成立するでしょう。そしてスピノザは第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で発生するといっているのです。なのでこのときにこれらの定理Propositioを,ユダヤ教あるいはキリスト教における神と世界の関係にあたる,創造主と被造物という関係でみること自体が,実は誤解なのであるということがここでは指摘されているのです。神がなければ何もあることも考えることもできないということはスピノザの哲学においてもその通りではあるのですが,それは神が創造主であって世界が被造物である,あるいは世界を構成する各々の個物res singularisが被造物であるという関係を,十全に示しているというわけではないのです。このような仕方で神と世界の関係を解さないように注意しなければなりません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます