スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

阿波おどり杯争覇戦&第二部定理一〇系の場合

2014-07-06 18:47:09 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは早坂-大槻-安部の宮城,中村-志智-有賀の近畿中部,原田-阿竹-松岡の西国。
 スタートは志智が取って中村の前受け。4番手に原田,7番手から早坂の周回に。残り2周半のコーナーで早坂が上昇。原田は即座に引いて7番手。ホームでは早坂は前までは上がらず,4番手に収まって原田を牽制。バックに入って原田が発進すると早坂も併せ,打鐘で先行争いに。原田があっさりと退き,阿竹は早坂の番手を狙いにいくも失敗。引いていた中村にとっては絶好の展開で,バックから捲っていくとラインで出きって直線勝負。番手有利に差し込んだ志智が優勝。中を割った有賀が4分の3車身差の2着。捲った中村が1車輪差の3着で近畿中部の上位独占。
 優勝した岐阜の志智俊夫選手は昨年1月の京王閣記念以来の記念競輪4勝目。小松島記念は初優勝。早坂が地元勢に対抗意識を燃やしたため,ラインにとって最高の展開に。他から何の影響も受けずに前に出られましたので,持っている力からすれば楽な形での優勝だったのではないでしょうか。このブログを始めた8年くらい前に期待していた選手のひとりですが,これだけの時間の経過の後に記念競輪の優勝を積み重ねていくようになるとは思いもよりませんでした。もっとも,それが人間が自分の力で走る競輪という競技の面白さであるとはいえます。

 第二部定理一〇系では,系そのものの中に様態的変状という語句が用いられています。人間の本性が神の属性の様態的変状から構成されているということ。これはつまり,人間の本性が神なしにはあることも考えることもできないものであり,人間の本性の十全な認識のうちには,その原因としての神の観念が含まれていなければならないことを強調する意図からだろうと考えられます。
 第二部定理一〇というのは,人間の本性に実体の有が属さないということ,いい換えるなら人間は実体ではないということを示しています。第一部公理一の意味からして,その定理から人間の本性が様態であるということは帰結します。そしてこのことだけを示すのであるなら,人間の本性は神の属性の様態的変状であるとはいわずに,単に人間の本性は実体の変状,すなわち第一部定義五により様態であるといえば十分であったでしょう。実際にこのことは,第二部定理一〇からの帰結事項です。それなのにわざわざ属性の様態的変状であるとスピノザがいったのですから,そこにはそれなりの理由があると考えるべきでしょう。
 このことは,この系のスピノザによる証明によって裏打ちされていると僕には思えます。証明の方ではスピノザは,人間の本性が様態であるといっていて,様態的変状であるとはいっていません。そしてそのときスピノザが訴訟過程で訴えているのは,第一部定理二五系です。この系は,個物res particularisが,神の本性を一定の仕方で表現する様態であるということを示しています。つまりその観点は,表現される神あるいは神の属性の側にあるのではなく,表現する様態の側にあるのです。だからこの場合には,人間の本性は様態であるといわれるべきなのであり,属性の様態的変状であるといわれるべきではないのです。
 このようにこの系のテクストとその証明のテクストを読解するなら,様態と様態的変状は,知性を離れて形相的にみられる限り,同一であること,よって区別されるならそれは理性的区別であること,そしてその理性的区別の内容がどのようなものであるのかということを,すべて正確に説明できると僕は思います。

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