スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中山グランドジャンプ&定理一二の成立条件

2006-04-15 21:16:41 | 中央競馬
 中山グランドジャンプは結局昨日あげた2頭の争いとなり,カラジがテイエムドラゴンを小差で抑えてこのレース二連覇。テイエムドラゴンは体重を大きく減らしていましたが,レースを見た限りではそうも影響はなかったようです。それにしても4250メートルを走ってこの着差,そして勝ったのが11歳馬で2着が4歳。障害レース史上に残る名勝負ではないでしょうか。
 明日は皐月賞です。中山の2000メートルということで紛れもあるでしょうが,中心はやはりアドマイヤムーン。先行できるフサイチリシャール,唯一アドマイヤムーンに土をつけたサクラメガワンダーが逆転候補。あと、無敗のフサイチジャンクと,ローテーションは不利でも素質は最上位かもしれないジャリスコライトを。

 定理一二定理九系から直接的に帰結するわけです。したがって,定理九系を定理九から導く場合の成立条件は、そのまま定理一二にも適用されなければなりません。すなわちこの場合には定理一二にも,現実的に存在するある人間の身体の中に起こることの観念の原因は,その人間の身体の観念=その人間の精神であるという,因果関係の図式が含まれているのです。そしてまさにこの点に,定理一二に関する僕の別の疑問が生じるのです。
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はなさかじいさん&定理九系の成立条件

2006-04-14 22:22:22 | 歌・小説
 一昨日のまんが日本昔話ではなさかじいさん(はなさかじじい)が放映されました。登場した犬は歌と同様にポチという名だったようですが,かつて20年近く前に放映されたときはシロという名でした。でもシロという名であったのにはそれなりの理由があります。犬の名前としてポピュラーなポチにははっきりとした語源があって,これはフランス語でかわいいや小さいを意味するプティットあるいはプチ。なので日本で犬にポチと名付けられるようになったのは明治以降なのです。しかしはなさかじいさんは最終的に殿様から褒美をもらうわけで,時代設定は少なくとも江戸時代以前。だから犬の名前は厳密に考えるなら少なくともポチではあり得ないのです。これは昔話でしかもファンタジーに属するので,こんなことをいうのはナンセンスではありますが。
 明日から競輪は西武園記念。決勝は18日です。また明日は中山グランドジャンプがあります。障害競走なので確たる予想はできませんが,外国馬で強力なのはオーストラリアのカラジ。日本側の最強馬はテイエムドラゴンということになります。

 定理九系が個物の観念の原因はそれとは別の個物の観念であるという定理九から導かれるためには,ある観念の対象の中に起こることの観念の原因は,その対象の観念であるということが前提されていなければなりません。つまり,ある知性の中にAの観念があるなら,Aの観念の対象の中に起こることの観念の原因はAの観念であるということです。そうでなければ定理九と定理九系の辻褄が合わなくなるからです。つまり,定理九系の命題には,一切の因果関係が含まれていないようにみえるのですが,もしもこれが定理九からの帰結ならば,実際にはこの因果関係が含まれていると理解しなければならないのです。
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名人戦&演繹法

2006-04-13 20:33:49 | 将棋
 妙な問題(主催社の移行)が持ちあがった将棋の名人戦ですが,一昨日と昨日に第一局が指され,振り駒で後手になった森内俊之名人が谷川浩司九段に勝って先勝しました。
 指し手の中で気になったのが封じ手直前の初日の午後5時ごろの▲7四歩。これに対しては実際に指された△同歩のほかに△6四角もあったわけですが,△6四角と指すならかなり考えたいところ。封じ手は5時半で,もちろんルール上はいくら考えてもよい(先月の王将戦では佐藤棋聖が夕食休憩を挟んで封じた将棋もありました)のですが,さすがにそれはやりにくい。ということは,5時ごろの▲7四歩には△同歩を強要するような意味もあったと思われます。もちろん谷川九段がそこまで考えて5時ごろに指したかは不明ですが,考えていたのなら高等戦術ですね。どちらにせよ,森内名人はその時点で不利を感じていたようですが。

 第一部定理二八も第二部定理九も,「無限に進む」と締めくくられています。
 これは文字通りに結果の原因,原因の原因,その原因という連鎖が永遠に続くということですが,ここにはある消極的な意味があるのです。それはこのような帰納法(あるものからそれに先行するものを導く方法)によっては連鎖が延々と続くだけで,結局のところ,僕たちは何も確実には認識し得ないということです。
 スピノザは論理としては因果論、方法としては演繹法(先行するものから後発のものを導く方法)を用いるのですが,演繹法を用いなければならない理由の一端が,これらふたつの定理には含まれているのです。
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マイルグランプリ&第一部定理二八の意味

2006-04-12 22:16:28 | 地方競馬
 今晩のマイルグランプリアジュディミツオーがナイキアディライトさえ負かせば,という競馬をしてレコードタイムで快勝。
 ナイキアディライトはアジュディミツオーに強気な競馬をされたために直線で苦しくなり,コアレスタイムにも交わされての3着でした。
 アジュディミツオーの後ろにも何か強い馬がいれば,また結果も違ったのでしょう。それにしてもコアレスタイムにはびっくり。1600メートルは長いと思っていました。アジュディミツオーからの馬単で万馬券なので,おいしい馬券であったことは確かでしょう。

 第一部定理二八は長いですが,難しいところはないと思います。
 原因がなければ結果は生じない(第一部公理三)ので,ある個物Aが現実的に存在し,また,ある作用をなすのであれば,それには何らかの原因があるわけですが,存在と作用,どちらの場合にもその原因は個物Aとは別の個物,たとえば個物Bであるわけです。で,個物の観念というのは思惟属性の個物とみなしていいわけですから,第二部定理九が第一部定理二八から帰結するというのは間違いのないところでしょう。
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ふるさとダービー小松島&第一部定理二八

2006-04-11 21:05:37 | 競輪
 ふるさとダービー小松島の決勝は海老根選手の番手で神山選手が粘り,隊列が短くなったところを後方から僕の期待の志智選手が発進。捲りきることはできたのですがそこで一杯。その番手から踏み込んだ愛知の一丸安貴選手の優勝でした。ふたりの間を割った(なぜか決まり手がマークになっていますが)地元徳島の小倉竜二選手が2着。3着は諸橋愛選手でした。
 一丸選手はビッグ(GⅠ・GⅡ)は初優勝です。

 明日は大井でマイルグランプリ。南関東限定のレースに全国レベルの2頭が登場していますので,常識的にはアジュディミツオーとナイキアディライトの1着争い。3連単の3着にはチョウサンタイガーを推しておきます。2強のうち,消えるとすれば逃げられなかったときのナイキアディライトの方と思うので,アジュディミツオーからの馬単も少々。

 第二部定理九は第一部定理二八からの帰結です。
 「あらゆる個物(res singularis),すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は,同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた,同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む(et sic in infinitum)」。
 これもまた非常に長い定理Propositioです。
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蜘蛛&個物

2006-04-10 22:28:57 | 哲学
 スピノザは蜘蛛を飼っていました。これについては清水禮子さんとドゥルーズGille Deleuzeが言及しています。
 清水さんによれば,蜘蛛は絶対に群れない虫であって,そこはスピノザに似ている。そして,蜘蛛の巣というのは,蜘蛛が作り出すものであるにも関わらず,あたかも自然の一部と化していて,しかも形態にも一種の美的要素がある。それはスピノザが哲学によって生み出そうとしていたものに似ているのではないかということです。
                                          
                         
 一方,スピノザは趣味として,飼っていた蜘蛛同士を闘わせて遊んだそうですが,このことにドゥルーズは,どんなものにとってもそれ自身の破壊あるいは死が,徹底的に外在的なものである(たとえば第三部定理四)というスピノザの思想を見出しています。
                         

 明日はふるさとダービー小松島の決勝です。競輪祭に続きほぼ先行一車といっていい海老根選手にチャンス到来。もうひとり,調子のよさそうな志智選手にも期待してみたいところです。

 そして将棋の名人戦も明日から。決着は明後日です。

 第二部定理九を理解するためには,まず個物res singularisの何たるかを知らなければなりません。
 『エチカ』でいう個物とは,実体substantia(神Deus)の変状affectio=様態modusのうち,有限finitumであるもののことです(第二部定義七,第一部定理二五系)。つまり、たとえばある一定の限られた空間のうちに存在するものや,ある一定の時間tempusのうちに存在するもののことです。
 実際には,僕たちが日常生活のうちに知覚するpercipereものはすべて個物であると考えて構いません。そして,真の観念idea veraはその観念の対象ideatumに本性naturaが一致するのですから,個物の観念ideaも個物の本性を有します。すなわち,現実的に存在する個物の観念とは,思惟属性Cogitationis attributumの有限様態であって,それ自体が個物なのです。
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桜花賞&第二部定理九

2006-04-09 21:43:01 | 中央競馬
 第66回桜花賞はキストゥヘヴンが後方三番手から人気のアドマイヤキッスをマークするように進出してこれを差しきって1着。
 アドマイヤキッスは内のコイウタとかなり激しい競り合いになりましたが,なんとか凌いで2着。
 タッチザピークは10着。ここでは実力不足だったようです。
 ところで,今年の3歳牝馬路線は,クイーンカップ,チューリップ賞,アネモネステークス,フィリーズレビュー,フラワーカップと,いずれのレースも6番人気の馬が連対(1着か2着)していました。で,今日のキストゥヘヴンも6番人気。次のフローラステークスも6番人気は注目かも。

 第二部定理一二は第二部定理九系から直接的に帰結するわけです。で,ここまではその第二部定理九系を第二部定理七(系と備考を含めた意味で)から証明していたわけですが,第二部定理九系というからには,第二部定理九からの帰結事項でなければならない筈なのです。そこで第二部定理九をみてみましょう。これは長い定理Propositioです。
 「現実に存在する個物の観念は,神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし,この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする,このようにして無限に進む」。
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女流王将戦&疑問の解消

2006-04-08 21:29:21 | 将棋
 昨日指された女流王将戦の挑戦者決定戦は,中井広恵女流六段が石橋幸緒女流四段を破って挑戦権を獲得しました。女流棋界は昨年から世代交代の波が加速していて,ここはタイトル保持者が千葉涼子女流王将なので、初の20代同士(現在の,という意味です)でのタイトル戦ということになれば,さらにその波が進むところでしたが,中井さんが準決勝の矢内理絵子女流名人に続き石橋さんも破り,先行世代の意地をみせた形となりました。タイトル戦の第一局は5月14日です。
 明日は桜花賞です。前哨戦の勝ち馬がことごとく違う上にタイムも平凡で低レベルでの混戦という感じ。無難にいけばアドマイヤキッスでしょうが,狙ってみたいのは紅梅ステークスの内容が掛値なしに強かったタッチザピーク。しかし大外とは運が悪い。きりがないのでもう1頭だけ。相手が弱かったとはいえ牡馬相手の京王杯2歳ステークスでもそこそこ走ったコイウタを。

 神がなければ何も考えられ得ない(第一部定理一五)ので,事物を正しく認識するためには,何事も神と関係付けて概念しなければなりません。そして人間の精神や身体を神と関連させて考える限り,人間の精神が自分の身体を十全に認識しないのに,自分の身体の中に起こることについては十全な観念をもつとしても,それは結果の認識は原因の認識に依存するという第一部公理四には反しないのです。いや,反しないどころか,むしろそれによって,そうしたことが結論されるのです。したがって僕の最初の疑問というのは,人間の精神を,神との関係を離れて、それ単独で理解しようとしたという点にあったようです。なのでこの疑問は解消。でも、僕には定理一二について,もうひとつ,別の疑問が生じているのです。
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アストニシメント&ほかのものの正体

2006-04-07 22:17:26 | 血統
 3月20日の黒船賞を勝ったブルーコンコルド。この馬,母,母の母,その母というように辿っていくと,1902年にイギリスで産まれて輸入されたアストニシメント(7-c)という馬に遡れます。つまり明治の時代に日本にやってきて,その後ずっと日本で育まれてきた母系の出身馬なのです。
 日本の競馬の歴史は欧米に比べればまだまだ浅いものなのですが,それでもこれくらい古い日本の母系をもつ馬が活躍する程度の歴史は築いてきているのです。

 明日から小松島で競輪のふるさとダービー。決勝は11日になります。

 ここでもう一度注目したいのが第一部公理四。
 結果effectusの認識cognitioが原因causaの認識に依存するなら,ある人間の身体humanum corpusの観念ideaとさらにほかのものの観念を有する限りで,神Deusのうちにその人間の身体の観念があると説明されるとき,そのほかのものとは,その人間の身体全体の,あるいはその身体の諸部分を構成している物体corpusの,直接的な原因となっている物体のことではないでしょうか。
 そしてなるほど,そのように考えれば,論理的にも辻褄が合います。そうした人間の身体の原因となっている物体の観念は,少なくとも,その人間の身体の観念を有する限りでの神のうちにはないでしょう。で,ある人間の身体の観念を有する限りでの神とは,その人間の精神mens humanaのことなのですから、人間の精神は自分の身体を十全に認識しないということになり,それは,ここまでで得てきた結論に一致しています。
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ケータイ刑事&人間身体の観念のあり方

2006-04-06 21:37:03 | 哲学
 BSiおよび地上波のTBS系列で,ケータイ刑事というドラマのシリーズがあります(ありました,かな)。映画化もされています。警視総監の孫という設定の女子高校生が刑事となって事件を解決するもので,4姉妹で4シリーズ放映されました。この中で,ヒロインが事件を解決したとき,たまに「Q.E.D.」ということがありますが,このQ.E.D,エチカに頻繁に現れます。ラテン語で,Quod erat demonstrandumの略で,直訳すると「これが証明されるべきことであった」という意味になるようです。僕はエチカ以外で見たことがないし,ドラマのスタッフにエチカの読者がいたのかもしれません。

 人間の精神が自分の身体の中に起こることを十全に認識するとき,神との関係では,ある人間の精神の本性を構成する限りで,あるいは,ある人間の身体の観念を有する限りで,神のうちにその観念があるのでした(3月20日)。なので,自分の身体については人間の精神はその十全な観念をもたないわけですから,同じように説明される限りでの神のうちには,どの人間の身体の観念はないことになります。だから,神は現実的に存在するある人間の身体とさらに何かほかのものの観念をもつ限りで,その人間の身体の観念をもつということになると考えられます。それでは,そのほかのものとは,一体どんなものであると考えればよいのでしょうか。
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マリーンカップ&疑問の所在

2006-04-05 20:27:03 | 地方競馬
 マリーンカップは不良馬場の中,グラッブユアハートが中団から差して1着。2着争いは激戦となり,勝ち馬とほぼ同じ位置から最内を差してきたレマーズガールと,勝ち馬の後ろから大外を追い込んだ船橋のジーナフォンテンの同着。ジーナフォンテンは,地元の船橋よりむしろ川崎を得意としている印象があり,エンプレス杯の結果から軽視していたのですが,実力的にはこれくらいは走られても不思議のないところでした。レイナワルツはいい競馬をしたものの4着,5着がローレルアンジュで,トーセンジョウオーは逃げたものの失速して8着でした。レース映像は,フルスクリーンですと画像がやや粗い感じなので,2倍でお楽しみください。

 問題は,簡単にいえば,人間の精神のうちにはない人間の身体の十全な観念が,なぜ神のうちにはあることができるのか,ということになります。もちろんそれは,神のうちには,あらゆる形相的事物の十全な観念があるからだ(定理七系)ということになるのですが,でも,これでは,この疑問に対して,十分に答えていないように思えます。そこで,疑問のありか,あるいは疑問の形式を次のように変えてみることにします。神のうちに,現実的に存在するある人間の身体の十全な観念があるとき,この観念は神のうちで,どのようなあり方をするのでしょうか。つまり,この観念が神のうちにあるということを説明するとき,僕たちは,あるいは一般に知性は,神をどのような仕方で説明すればよいのでしょうか。
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朝日オープン&人間身体の十全な観念

2006-04-04 19:50:22 | 将棋
 朝日オープンの第一局は先手となった羽生選手権者が,藤井システムに対して急戦を仕掛けて勝利。幼少期を過ごした八王子で幸先のよい1勝を挙げました。藤井九段はかつては竜王戦の挑戦者決定戦で2勝1敗で羽生さんを破って挑戦者となり,また竜王獲得後は,やはり羽生さん相手に4勝3敗で防衛したこともあるのですが,ここ最近は羽生さんに9連敗。どうも苦手にしているようです。もっとも,羽生三冠が苦手などという棋士はほかにもたくさんいそうですけど。
 明日は船橋でマリーンカップ。荒れる傾向のレースですが,一応,レマーズガールvsグラッブユアハートとみます。まとめて負かせば休養明けでもトーセンジョウオー。ローレルアンジュはエンプレス杯がうまくいきすぎの感じ。それなら3着だったレイナワルツの方が面白そう。

 神のうちにありとあらゆる形相的事物の十全な観念があるのなら,現実的に存在するどんな人間の身体の観念も,神のうちには十全な観念としてあるということになります。したがって,人間の精神が自分の身体の十全な観念をもつことができないからといって,それは,人間の身体の十全な観念は実在しないという意味ではないのです。むしろ人間の身体の十全な観念は,どんな人間の精神のうちにはないのだとしても,神のうちにはあるでしょう。
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志賀賢太郎&第二部定理七系の意味

2006-04-03 22:25:45 | NOAH
 NOAHの4月シリーズは昨日の後楽園ホールで開幕。
 日本テレビとG+で中継があって見たのですがちょっとびっくり。失礼ないい方かもしれませんが,ひ弱な青年みたいなイメージだった志賀賢太郎選手が,無精髭にサングラス,おまけにパンチパーマでチンピラと化していました。髪型ひとつでこうも印象が変るとはね。
 試合は6人タッグでしたが,両手をロックしての首固めで川畑選手を丸め込んでいます。ファイトスタイルというのは一朝一夕に変るものではないと思いますが,今後,試合内容もチンピラ化していくのか注目です。明日,横浜(といっても横須賀に近い辺りですが)大会で,トーナメント一回戦,菊地選手との試合です。

 明日は将棋の朝日オープン第一局です。

 このテーマでは,第二部定理七の内容が実在的にrealiterも正しいということを前提としています。で,一見したところでは,第二部定理七で認識論的に証明したことを,第二部定理七系で実在的に証明しているように思われるのですが,スピノザが後にこの系Corollariumに訴える場合,神Deusのうちにある観念ideaはすべて十全な観念idea adaequataである,あるいは神のうちにはありとあらゆる形相的事物の十全な観念があるという意味でこれを用いているので,それがこの系にスピノザが託した意味と考えてよさそうです。
 形相的事物と客観的事物(観念)の原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoの実在的同一については,スピノザは単に第二部定理七に訴えます。第二部定理七は,それだけでみると明らかに認識論的証明にすぎないと僕は考えますが、おそらくスピノザは,第二部定理七ということで,第二部定理七系と備考Scholiumも含めているのではないかと思います。
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物故馬慰霊&第二部定理七系

2006-04-02 21:21:58 | 中央競馬
 競馬ファンの方ならご存知かと思いますが,競走中あるいは調教中の怪我がもとで絶命する(薬殺処分される)馬というのはわりといます。そこでそういった馬たちのための慰霊祭が,馬主団体によって執り行われます。一般ファンも参加が可能です。月曜の午後,しかも京都ということで,さすがに僕は行かれませんが,お近くの方で,お時間のある方は参列されてみてはいかがでしょうか。

 第二部定理七系に注目してみます。
 「この帰結として,神の思惟する能力はDei cogitandi potentia)神の行動する現実的能力に等しいことになるipsius actuali agendi potentia)。言いかえれば,神の無限な本性infinita Dei natura)から形相的にformaliter)起こるすべてのことは,神の観念Dei idea)から同一秩序・同一連結をもってidem ordo, eademque connexio)神のうちに想念的にobjective)〔すなわち観念として〕起こるのである」。
 これは第二部定理三二を証明するキーになる系Corollariumなのですが,ずいぶんと難解に表現されているように思われます。まずこの系が意味するところを考えなければいけません。
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神はサイコロを振らない&最初の疑問

2006-04-01 21:46:52 | 哲学
 先月まで「神はサイコロを振らない」というドラマが放送されてました。でも,ドラマの話じゃないですよ。「神はサイコロを振らない」とは,アインシュタインが言ったことば。そしてアインシュタインはスピノザ主義者。なので,「神はサイコロを振らない」という元のことばでいう「神」とは,ユダヤ教やキリスト教でいう神ではなくて、スピノザがいっている意味での神=絶対に無限な実体のことなのです。

 少しまとめてみましょう。定理一九定理二七からすれば,人間の精神のうちには,自分の身体の十全な観念は存在しません。一方,定理一二定理三二からすると、人間の精神のうちには、自分の身体の中に起こることについてはすべて,その十全な観念があるわけです。でもこれって,第一部公理四に反していないでしょうか。定理一二について僕が抱いた最初の疑問はこうしたものでした。そこで今度はこの疑問について,エチカに訴えつつ考えてみたいと思います。
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