スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

対立の発端&補強

2007-03-16 21:29:07 | 将棋トピック
 このブログのスタイルの説明です。
 経緯で紹介した米長会長の助言の内容について,石橋女流四段がメモという形でその内容の一部を公開しています。これでみれば,独立の原因ともいえる女流棋士の地位の改善については,現状のままでは連盟はそれをする気がないようです。経営に関わる部分はともかく,女流棋士に正会員の資格を与えるか否かという点については,おそらく米長会長の個人的意見ではなく,多かれ少なかれ多くのプロ棋士(正会員)が共有する認識ではないかと僕は推測します。ですから,独立するという判断はやはり正しかったと僕は思います。僕がこのエントリーで注目するのは最後にある「まぁでも現状じゃあ独立は無理でしょう」という部分。このメモの流れからすると,これは独立できるものならしてみろという挑発に受け取れますし,こういう形でメモを残したのですから石橋四段はそう受け取ったのだろうと思います。しかし米長会長の真意は,発言にもある,米長会長自身が意味する友好的という意図だったのでしょう。なお,この内容は,実際には女流棋士には明らかにはされてなく,後に相談を受けた場合に米長会長が考えていた私案のようなものだったのかもしれません。いずれにせよこの友好的というのは特殊な意味と僕は思いますし,この流れの中での発言ということを考慮すれば,石橋四段がそれを汲み取れなかったとしても無理からぬことと思います。ただ,こう考えるとこれは発端の部分から双方に誤解が生じていたようで,その誤解を解かないままに両者が突っ走ってしまった結果が現状のようです。逆にいえば円満な決着を図るためにはそこまで戻らないといけないわけで,それこそ長考が必要だということになるでしょう。個人的にはそれを望みはしませんが,もう喧嘩別れになることも覚悟はしています。ただ,連盟に残っては現在以上の地位の向上は見込めないわけですから,少なくとも大部分の女流棋士が結束して独立してほしいと願います。意見の相違はあるでしょうが,女流棋士をまとめあげる準備委員会の手腕に期待しています。

 混乱した観念を原因として生じる観念がどういった観念であるのかを考える視点は,実は第二部定理四〇のスピノザによる証明を別の角度からも補強する要素になると僕は思います。観念を神に関連付ければ,ある精神のうちにある混乱した観念は,この精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神(の思惟の属性)で,十全な観念はこの精神の本性を構成する限りでの神です。実在性の観点からは,前者から後者が生じることがあり得そうですが,実際にはそれは無から有が生じるということなのですからこういうことはあり得ません。いい換えれば,ある精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念からは,同様にある精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念だけが生じるのです。そしてこれは,実はある精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念から別の観念が神のうちに生じると考えた場合に,定理四〇の証明と同じ手続きを踏んでいるのです。なのでこれがそれを補強するといえると僕は思うのです。
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東京シティ盃&原因としての混乱した観念

2007-03-15 21:35:09 | 地方競馬
 昨日の東京シティ盃の回顧です。ここは逃げるのがベストと思われる馬が多かったので,どの馬が先行するのかが第一の焦点でしたが,長い向正面での先行争いに決着をつけたのは大外枠のナイキアディライトでした。前半の600メートルは34秒0。ダートの1200メートルというレースはスローペースになるということはまずあり得ず,もちろんハイペースですが,コース形態を加味して考えれば,ものすごくきついペーストはいえないのではないかと思います。コアレスタイムは好位で,フジノウェーブはその直後からのレース。直線に入っても逃げたナイキアディライトの脚はそれほど鈍りませんでしたが,これと先行争いをした各馬は末脚を失いました(それぞれが16頭立ての14~16着)。伸びてきたのはコアレスタイムとフジノウェーブで,粘るナイキアディライトを捕えて最後は1馬身半突き放したフジノウェーブが快勝。ナイキアディライトが2着に粘り,1馬身遅れての3着にコアレスタイムでした。優勝したフジノウェーブはこれで9連勝。重賞はここが初挑戦でした。2・3着の2頭は全国レベルで戦える馬ですので,この馬もそれだけの力があると考えていいと思います。2着のナイキアディライトは,この距離がベストとは思えませんが,単純な能力でいえばここでは断然の馬。距離適性から中心に期待したコアレスタイムは,純粋な能力面で先着された2頭に劣っていたということでしょう。実力馬が上位を占めるという,きわめて順当なレースでした。

 精神のうちにある混乱した観念があって,この観念を原因として十全な観念が生じるというのは,実はそれ自体で不条理なことをいっていると僕は考えます。なぜなら,十全な観念は同時に真の観念であり,混乱した観念は同時に誤った観念です。したがって第一部公理六からして,十全な観念がある実在的な対象を有するのに対して,混乱した観念というのはそうした対象を有していないような観念のことなのです。したがって,十全な観念と混乱した観念との相違というのは,単に十全な観念がある真理をその内容とする観念であるのに対して,混乱した観念は虚偽によってその内容を構成されている観念であるということだけではなく,スピノザ哲学に独特の平行論からの帰結として,十全な観念が実在的な観念であるのに対して,混乱した観念は非実在的な観念であるという点にもあるのです。したがってこれでみれば,精神のうちにある混乱した観念から十全な観念が生じる(生じ得る)という主張は,非実在的なものから実在的なものが生じる,すなわち,無から有が生じると主張しているにほかならないことが理解できると思います。しかし第一部公理三からして,結果の完全性(実在性)が原因の実在性を超越するということはあり得ないのでこれは不条理です。というわけで,混乱した観念から十全な観念が生じることはなく,これで四つの意味がすべて正しいということが明らかになったと考えます。
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女流名人戦&四つの意味

2007-03-14 22:25:13 | 将棋
 女流名人戦五番勝負第四局。矢内理絵子女流名人が先手で▲7六歩△3四歩に▲6六歩。対して中井広恵女流六段は△6四歩としました。この△6四歩というのは,相手が振飛車党の場合には,一直線に右四間飛車からの速攻を狙う含みからあると思うのですが,居飛車党相手には,この段階では珍しいのではないかと思います。この将棋はここから後手が玉の囲いを放棄して,腰掛け銀から一直線に攻めて出ました。これに対して先手も単に受けに回るのではなく17手目に▲6六同角と応じたために,互いに居玉のまま攻め合うという大変に激しい内容の将棋に進展しました。まったく戦い方は異なりますが,棋王戦の第一局が似た将棋でしたが,あの将棋はそれでも途中から居玉は避けました。この将棋はそれすらありませんでしたので,ある意味ではそれ以上に激しい将棋だったわけですが,こういう将棋になると大概はどこかで一手でも緩んでしまった方が形勢を損ねるとしたもので,この将棋の場合は38手目の△4四龍がおそらくその手にあたると思われ,これ以降は先手が的確に攻めて一方的といっていいような内容で快勝しています。これで2勝2敗。そもそもこの棋戦が来年度からはどうなってしまうのかということすら心配せざるを得ないような状況ですが,さしあたって名人位が決定する第五局は26日に指されます。

 これで,第二部定理四〇が正しいということは十分に明らかになったといえるのではないかと思います。そこでこの定理に僕が含まれている意味として考えている事柄に注意するなら,これによって,十全な観念からは十全な観念が生じるということは明らかになったわけです。ところで,観念というのはその内的な特徴から考察される限り,十全な観念といわれるか,そうでなければ混乱した観念といわれるかのどちらかなのですから,十全な観念からは十全な観念だけが生じるということは,もしも精神のうちに混乱した観念がある場合には,それは混乱した観念から生じているということも明らかになったといえるでしょう。したがって,僕が定理四〇にスピノザが含めたと考えている四つの意味のうち,十全な観念からは十全な観念が,ということと,混乱した観念は混乱した観念から,ということのふたつはすでに問題がないといっていいのではないかと思います。ですから残る問題は,十全な観念は十全な観念から発生し,混乱した観念からは混乱した観念だけが発生するのかどうか,いい換えれば,混乱した観念から十全な観念が発生するということが本当にないのかどうかということになります。
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玉野記念&第二部定理一一系の意味

2007-03-13 22:40:20 | 競輪
 玉野記念決勝(動画)。斎藤選手がSを取って北日本の前受け。中団の4番手から九州で,6番手に手島選手。三宅選手は最後方で周回。残り2周のバックから中団の牧選手が動き,岡部選手を抑えて先頭に。東日本と三宅選手が続きました。あっさり7番手まで引いた岡部選手がホームから巻き返し。このカマシが決まってこのラインの先行になりましたが,斎藤選手が離れてしまったため牧選手が3番手を追う形に。手島選手はバックでも動かず,三宅選手が後方から捲りましたがこれは前段まで届かず。結果的に最高の展開となったのが岡部選手の番手の有坂選手で,直線で踏み込むと抜け出して優勝しました。3番手から追い込みの形になった牧選手と有坂選手の間を割った小野選手が2着で,牧選手が3着となっています。優勝した秋田の有坂直樹選手はいわずと知れた昨年の競輪グランプリの覇者。記念競輪は昨年5月の宇都宮記念以来。今日は絶好の展開で,有坂選手の力をもってすれば当然の優勝といえると思います。その有坂選手を引き出して4着に沈んだ岡部選手には斎藤選手が離れてしまったのが何よりの誤算。手島選手は単に中団にこだわっただけで,今日のレースはあまりにも消極的すぎたように思えます。手島選手が不発で,渡辺晴智選手の決勝2着の記録もここで途切れました。三宅選手は九州を追走した方がよかったかもしれません。
 明日は女流名人戦五番勝負第四局。よくもまあ僕を呆れさせるようなことが次から次へと続いているのですが,ここは将棋に注目です。
 そして大井では東京シティ盃。ここはコアレスタイム◎に期待して,ナイキアディライト○とフジノウェーブ▲。ほかではグローリーウイナー△とエイシンブーン△を少々。

 第二部定理一一系にスピノザが託した意味というのは,直後に述べられているように,ある精神の本性を構成する限りでの神のうちにAという観念があるということは,その精神がAを十全に認識するということであり,ある精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念があるとは,その精神がAを混乱して認識するということでいいと思います。そこでこれを実在性の観点に照らし合わせて考えると,あたかも僕は混乱した観念は十全な観念より大きな完全性(実在性)を有するといっているように思われるかもしれませんが,それは違います。僕がその完全性を比較しているのは,人間の精神のうちにある十全な観念と混乱した観念ではなくて,ある人間の本性を構成する限りでの神のうちにある観念と,ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神のうちにある観念の方です。したがってこれらは第二部定理七系の意味からしてともに十全な観念であるということになりますので,僕はある十全な観念の,完全性と,それとは別の十全な観念の完全性とを比較した上で,一方が他方より完全であるといっていることになります。混乱した観念が十全な観念より完全であるというのは,エチカの考え方に根本的に反しますので,その点には注意して理解してください。
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森嶋猛&実在性の観点

2007-03-12 21:41:21 | NOAH
 1月の日本武道館大会で初防衛戦となった三沢選手に挑戦して敗れた森嶋猛選手はその後,前シリーズの前半戦を欠場して渡米,当地でROHのベルトに挑戦するとこれを奪取,初めてのシングルチャンピオンになると,防衛にも成功して王者として帰国しました。今月の武道館大会はタイトルマッチなしの5大シングルマッチとなっていて,森嶋選手はKENTA選手との試合が決まっていましたが,急遽この試合が防衛戦として行われることになりました。現在形の両選手ですがこのふたりは昨年から激しくやりあってきた関係。それ以前は分かりませんが,ふたりがトップクラスとなってからはシングルマッチでははっきりとした決着がついていませんでしたので,白黒をつける試合となりました。開始直後から激しい打ち合いになり,KENTA選手のキックでやや危ないと思わせる場面もあったのですが,徐々に体格の差を生かし始め,最後はポンポンと気持ちいいくらいに何度も投げ技を決め,森嶋選手が勝っています。KENTA選手も森嶋選手クラスの体格の相手と戦う場合には,もう少し工夫が必要と感じました。森嶋選手は次期シリーズも前半戦を欠場し,アメリカでの防衛ロードに出ることが決定しています。
 明日は玉野記念の決勝。並びは岡部-有坂-斎藤の北日本,手島-渡辺-鈴木の東日本,牧-小野の九州,地元の三宅は単騎。ここは手島選手◎と渡辺選手○からいくか,岡部選手▲と有坂選手△からいくかのどちらかで,牧選手の先行が予想されますので小野選手を絡めたいところです。

 第二部定理四〇は,実在性(完全性)の観点を導入することにより,さらに別の仕方で証明できると思います。第一部公理三によれば,結果は原因があることによってあることも考えられることも可能になるのですから,結果の完全性が原因の完全性を上回る,あるいは超越するということはあり得ません。そこである精神のうちにある十全な観念と混乱した観念とをスピノザによる証明と同様に神に関連付けて考えれば,Aの精神のうちに十全な観念があるとは,Aの精神を構成する限りで神のうちにある観念があるということであり,Aの精神のうちに混乱した観念があるというのは,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を構成する限りで神のうちにある観念があるということになります。したがって,ある精神のうちで,十全な観念を原因として混乱した観念が生じるというなら,結果として生じる観念の方が,ほかのものといわれている実在する何らかのものの観念を含む分だけ,原因として与えられている観念より大きな実在性(完全性)を含むことになります。つまりこの主張は,結果の完全性が原因の実在性を超越する,あるいは超越し得るという主張なのです。しかしこれは不条理です。よって,精神のうちにある十全な観念からは,十全な観念だけが生じるということになります。
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ももたろう賞&第二部定理四〇証明

2007-03-11 21:38:47 | 競輪
 玉野記念2日目優秀として争われたももたろう賞(動画)。並びは昨日の予想通りで、出入りの激しいレースになりました。まず前を抑えたのが岡部選手で、さらにこれを井上選手が抑えて先行態勢に。残り2周のバックから小嶋選手が踏み込むと、井上選手は流しませんでしたが、先行争いというほどの争いにはならずにホームから小嶋選手が叩いて先行。やや離れ気味になった鈴木選手も何とか3番手を確保して井上選手が4番手。すると1コーナーから石丸選手が発進。バックで外をぐんぐんと上がっていきましたが、渡辺選手の横までで力尽きました。結果、逃げた小嶋選手と番手の渡辺選手、さらに8番手から捲り追い込んできた岡部選手の3人でゴールは接戦となりましたが、番手からきわどく差した渡辺選手が1着、小嶋選手が2着に逃げ粘り、大外を強襲の岡部選手は3着まででした。玉野の風の状況がどうであったのかは僕には分かりませんが、小嶋選手の強さが際立ったレースであったとは思います。

 それではいよいよ第二部定理四〇をそれ自体で証明します。これは実際にスピノザがしているように、ある精神のうちにある十全な観念というのを、神と関連付ければ簡単に証明できます。すなわち、ある精神のうちに十全な観念Aがあり、この精神のうちでこのAの観念を原因としてBという観念が結果として生じるというのは、神に関連させれば、ある精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念Aを原因としてBという別の観念が生じるといっているにほかならないのです。ところで、ある精神の本性を構成する限りでの神というのは、たとえば第二部定理一一系に従う限り、その精神そのもののことであるということになります。次に第二部定理七系の意味からして、ある観念は神のうちにある場合には必然的に十全な観念であり、混乱した観念ではないということになります。したがって、ある精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念があるというのは、その精神のうちにある十全な観念があるということを意味しているのです。したがってこの場合、Aが十全な観念である限り、Bもまた十全な観念であるということになります。よって、精神のうちにある十全な観念を原因としては、十全な観念だけが結果として生じるということになるのです。
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棋王戦&観念と精神

2007-03-10 22:25:42 | 将棋
 棋王戦五番勝負第三局。角換り模様の立ち上りから森内棋王の10手目△5四歩が珍しい手。後手は5筋の位を取って角交換を拒否し、その間に先手の佐藤棋聖は2筋の歩を交換しました。僕が観戦し始めたのは昼食休憩時で32手目の△5三銀の局面。ここから2時半前まで断続的に見ていましたが、その間には戦いになりませんでした。後手は中央を制圧していますが、玉は先手の方が堅いので、実戦的にはいい勝負ではないかと思いました。次はもう7時前で、佐藤棋聖が▲3五角と打った局面でした。パッと見た感じでは先手の玉が絶体絶命のように思えたので、これは後手の勝ちと判断したのですが、数手ほど進んで森内棋王が投了。確かにその局面では後手の持駒が角と桂馬で、先手玉を攻めるのにも自玉を受けるのにも窮していて仕方がないのでしょう。ということは、僕が見た局面はすでに先手が勝ちの局面であったということで、僕自身の大局観の悪さに呆れました。57手目に▲9五角と逃げた角が最後になって働いてきて、さすがにここまで想定していたわけではないでしょうから、将棋全体の作りが佐藤棋聖にとってうまくできていたということではないかと思います。これで佐藤棋聖が2勝1敗。棋王奪取に王手がかかりました。第四局は23日に指されます。
 明日は玉野記念2日目優秀。並びは予想で、岡部-有坂の北日本、石丸-三宅の地元岡山、井上-小野の九州、空いた小嶋に渡辺-鈴木の南関東。たぶんこうなると思うので、これを前提に、小嶋選手◎が中心で追走の渡辺選手○。あとは岡部選手▲と小野選手△で。いつもと違い12レースです。

 第二部定理四〇は、あくまでもある十全な観念が精神のうちにある場合を前提としています。しかし精神というのはそれ自体がひとつの観念であると考えられるわけで、その場合にはどうなるのかということを問うてみる余地はあるのかもしれません。しかし僕はこれはあまり問題にならないだろうと思っています。というのは、ここで抽出したい事柄からして、ある知性(精神)の全体が、十全な観念と混乱した観念の双方から構成されている(少なくとも構成され得る)場合のみこの言及は意味をなします。ところが第二部定理七系の意味により、神のうちにある観念はすべて十全な観念です。つまり無限知性を構成する観念はすべて十全な観念であるということですから、十全な観念と混乱した観念の両者からその全体を構成される知性というのは有限異性に限られるのです。そして定理四〇の冒頭でいわれている精神とは、まさにある有限知性のことをスピノザは意図していると僕は考えます。したがって、この定理四〇の中に、十全な観念からは十全な観念が、十全な観念は十全な観念から、混乱した観念からは混乱した観念が、混乱した観念は混乱した観念から、という意味が一般的に含まれていると考えていいだろうと僕は考えます。
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ダイオライト記念&第二部定理四〇の意味

2007-03-09 21:29:04 | 地方競馬
 一昨日のダイオライト記念を回顧します。逃げたのはマズルブラストで、これをキングスゾーンやナイキアースワークが追う展開。前半の1000メートルが61秒5。2400メートルという距離を考えると、わりと早いラップだったと思います。レースのポイントになったのは1コーナー過ぎから2周目の向正面にかけてで、前半は後ろ目に位置していたサイレントディールが外を徐々に上がっていき、先頭に立ちました。これに一緒になってついていったのがキクノアローで、やや押しながらクーリンガーも追走。先行していた3頭はここで下がりました。直線に入ると楽についていっていたキクノアローの方がサイレントディールを置き去りにして抜け出し、後続に4馬身の差をつけて圧勝となっています。この馬はここがオープン初挑戦。メンバーにはやや恵まれましたが、ゆうにGⅡレベルの力はつけていたようです。栗東の目野哲也調教師、安藤勝己騎手。2着には押しながら追走したクーリンガーで、完敗ではありますが、この馬らしいしぶとさは見せてくれたと思います。一旦下がってしまったナイキアースワークが盛り返して3着。ここが船橋に移籍しての初戦で、距離もやや長いのではないかと思えますので、健闘といえるでしょう。捲って出たサイレントディールは4着。前走の佐賀記念と似たような競馬をしましたが、この馬もここは距離が長かったようです。
 明日は棋王戦五番勝負第三局。また激しい戦いをみせてくれるでしょうか。
 また、明日から玉野記念が開幕。石川の小嶋敬二選手が中心になりそうです。

 第二部定理四〇は、それ自体で読む限り、ある精神(ここでのテーマとの関連では人間の精神に限定して構いません)のうちに十全な観念があるとき、この十全な観念を原因として生じるどんな観念も十全な観念であるということになります。しかし僕は、この定理に含まれている意味はただこれだけにとどまるとは考えていません。なぜなら、第一部公理三によれば、原因というのはそれが与えられれば必然的に結果を生じるようなあるものですし、また逆に結果というのは、何らかの原因が与えられない限りはあることも考えることもできないあるものだからです。したがってこのことから、精神のうちにある十全な観念が結果として生じる場合には、その原因の観念もまた十全な観念でなければならないこと、そしてこれを逆に考えれば、精神のうちにある混乱した観念がある場合には、この観念を原因としては十全な観念が生じるということはないこと、さらに十全な観念が原因であれば十全な観念だけが結果として生じるのですから、混乱した観念が精神のうちに結果としてある場合には、その原因は混乱した観念であるということが含まれていると思うからです。ですから僕が考える定理四〇の意味は、十全な観念からは十全な観念だけが生じ、十全な観念は十全な観念だけから生じ、混乱した観念からは混乱した観念だけが生じ、混乱した観念は混乱した観念だけから生じるということになります。
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朝日オープン&第二部定理四〇

2007-03-08 20:35:13 | 将棋
 昨日指された朝日オープンの挑戦者決定戦。これは振駒で、鈴木大介八段の先手に。得意の三間飛車ではなく中飛車にして、後手の阿久津主税五段が居飛車穴熊模様に進めたところで27手目▲5五歩から開戦。阿久津五段も穴熊には潜らず30手目に△8六歩から反撃。この戦いの結果、どうやら後手が優位に立ち、そのまま終盤戦に突入。後手が攻めにも受けにもうまい手を連発したという感じで、差は広がったのではないかと思います。ただ最後の最後、寄せ損なったといえるのかどうかはわかりませんが、一気に反撃を食らってしまいましたが、逆転にまで至っていた局面はなかったようで、入玉を果たし、即詰みに討ち取って阿久津五段が羽生選手権者への挑戦件を獲得しました。阿久津五段は2004年度に将棋大賞の新人賞を獲得したほかには棋士としての実績はまだ何もありませんが、王位リーグでは佐藤棋聖を破り、このトーナメントでは森内名人にも勝つなど、実力は確かで、個人的な考えでは将来はタイトルを獲得するところまでいくのではないかとと思っている若手有望棋士のひとり。今年度は対局数と勝数で共に佐藤棋聖に続いて第二位と好調。羽生選手権者との五番勝負の第一局は年度が改まって早々の4月5日に指される予定です。

 第一の前提が誤っているならば、それにどのような事柄を付け加えたとしても、そこから生じてくる結論は、やはり前提と同様に誤りであるということ、すなわち誤った前提を原因としては誤った結論だけが結果として生じるということは、現在のテーマとは直接的に関係するものではないかもしれませんが、スピノザの哲学の中ではわりと重要なことではないかと僕は思いますし、また、もしもこのことが一般的に証明することができたなら、今後の考察全般の上でも、もしも原因となっている事柄の認識(観念)がある誤りを含んでいるならば、そこから導かれるすべてのことは、とくにその内容について吟味するまでもなく誤りであると結論付けてよいということになり、これはこれで便利ですから、このことについてここで補足しておくことにします。これをエチカに訴える場合に僕が適当であると考えるのは第二部定理四〇です。「精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である」。もちろんここで妥当な観念といわれているのは十全な観念のことです。またこの定理はエチカの流れの中では、人間の精神のうちにある共通概念を原因として生じるすべての観念は十全であるという意味でいわれていますが、ここではその流れの中での意味から切り離し、この定理単独で考察していきます。
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王将戦&考察の前提

2007-03-07 22:57:44 | 将棋
 王将戦七番勝負第六局。今日は9時頃までネット環境になかったので、まったく観戦できなかったのですが、第一局と同様に千日手になったと知ってちょっと驚きました。昼食休憩の段階では両対局者とも千日手を覚悟していたようですが、2日目開始の段階では先手だった羽生王将が佐藤棋聖より1時間ほど多く残していたのが互角となり、かつ佐藤棋聖の先手となるわけですから、佐藤棋聖の方がうまくやったといえるのではないかと思います。指し直し局は後手の羽生王将が向飛車で先手の佐藤棋聖が居飛車穴熊。まず2筋で攻防があった後、43手目の▲7五歩から本格的な戦いに。中央で銀交換になった後、54手目に△4六銀と打ったのにはちょっと驚きました。ただ、この銀は一応は金と交換になりましたがその金を64手目に△7四金と打たなくてはいけないようでは後手が芳しくないと思います。75手目に▲7六銀で桂馬を入手し、この桂馬で王手をかけた後、87手目の▲4五飛打が詰めろ角取りで大勢が決しました。佐藤棋聖が勝って3勝3敗の五分に。すべてが決まる第七局は19日と20日に指されます。

 責任という概念に関する一般論にふたつの誤謬があるということからして、この後の考察の前提となるのは、人間の意志が自分自身の行為の原因ではあり得ない場合に、また、人間の意志が自由ではない場合に、それでも責任という概念があり得るなら、それはどのような概念であるのかということになります。しかし僕はこのうち前者に関しては、ここではこれ以上は考えていくつもりはありません。というのも、この一般論というのは、たとえこの前者が正しいと仮定されたとしても、後者の意志の自由が保証されないのであれば、結局のところ人間の行為は自由なものではないということになり、やはり人間が責任を負うことができなくなると考えられるからです。つまり前者が第一の要請として成立し、後者が第二の要請として加わることによってこの一般論は成立していると考えられます。ところが、スピノザ哲学の立場では、もしも第一のものが誤謬であるならば、そこにはどんなに真理であることを(この場合にはさらに虚偽を加えているわけですが)加えたとしても、そこから論理的に帰結されることは、第一のものがそうであるのと同様に誤謬であるとされるのです。したがって、この立場からは、前者、すなわち第二の要請については、これ以上はとくに考える必要がないだろうと僕は思います。
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熊本記念&一般論の誤謬

2007-03-06 22:28:05 | 競輪
 熊本記念決勝(動画)。
 Sを取ったのは手島選手で関東の前受け。小野選手は初手はこのラインを追走。近畿が続いて、前に入ろうとした単騎のふたりは入れてもらえずに加藤選手が8番手、佐藤選手が最後尾での周回。結局このまま何の動きもないまま打鐘。小野選手が手島選手の外へ追い上げるとホームで簡単にこの位置を奪取。手島選手は4番手に入ってほぼ一本棒のまま志村選手の先行。バックから市田選手が捲っていきましたが、これが前段に届く前の3コーナーから武田選手が番手捲り。おおよそ考え得る最高の展開となって武田選手がそのまま優勝。2着はやや接戦となりましたが、武田選手の後ろを奪った小野選手が続き、手島選手が3着と、前の組での決着となりました。もう少し激しく競るかと思っていたのですが、意外とあっさりと小野選手が取りきったので、その分だけふたりとも脚を残していたのだと思います。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は昨年9月の取手記念以来の記念競輪優勝。昨年は記念競輪もこれだけで、力からすればやや不満です。今日は明らかに展開の利がありましたが、これを機にかつての強さを取り戻してほしいところです。

 王将戦は先手・羽生王将の四間飛車藤井システムに佐藤棋聖の急戦。先手が左の金を繰り出していった封じ手の局面は僕はあまり見たことがありません。

 明日は朝日オープンの挑戦者決定戦もあります。決勝まで勝ち進んだのは鈴木八段と阿久津五段。この棋戦は今回が最後になります。

 そして船橋でダイオライト記念。例年になくレベルが低く難しいです。パーソナルラッシュ◎に期待します。一応はサイレントディール○とクーリンガー▲で、ナイキアースワーク△とキクノアロー△も。ただ展開次第ではキングスゾーンやマズルブラストの出番もあるかもしれません。

 責任という概念に関する一般論の中には、スピノザ哲学の立場からは、すでにふたつの誤謬が含まれているということがここまでの考察から明らかになっています。
 ひとつは人間の意志が自由なものであるという前提で、これは今回の暫定的なテーマである第一部定理三二において否定されています。
 もうひとつは人間は自分の意志によって自分の身体をある運動に決定できるとする前提で、こちらは第三部定理二によって否定されています。
 したがって、もしもこうした観点からしか僕たちが人間の責任という概念を形成することができないのだとすれば、エチカにおいては、人間の責任という概念(厳密にいえばこれは概念ではないということになりますが)は、人間の想像あるいは幻想に類するようなあるものであって、それを人間が果たすべき事柄、あるいは負うべき事柄と考えることは誤りであるというのがひとつの結論になるでしょう。
 しかし、逆にいえばだからこそ、エチカにおいて責任という概念はどのようなものなのかということを僕はここで考察してみようと思ったわけですから、もう少し別の角度からもこれを考えていくことにします。
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女流名人戦&責任の一般論

2007-03-05 21:57:26 | 将棋
 女流名人戦五番勝負第三局。中国での対局ということで時差があったわけですが、今日はネットに接続できたのがようやく8時前ということで、残念ながら将棋は終っていました。戦型は横歩取り△8四飛ということで第一局と同じ。横歩取りの将棋は往々にして中盤戦が短く、一気に終盤に突入するものですが、この将棋はその短い中盤戦で、先手の中井広恵女流六段がうまく飛車角交換に持ち込み、53手目に▲8二飛と打ち込んだ局面でははっきりと優勢に立ったと思います。こういう将棋はこの程度の差がつけばあっさりと決着するのが常なのですが、この将棋はここからかなり続きました。最終盤ともいえる寄せの段階で、先手が後手玉の左側からやや重めに攻め込んだのがおそらくその原因で、結果的に上部に脱出されてしまい、入玉を許してしまいました。ただ、先手の玉は捕まるような形勢ではありませんでしたので、局面としては先手が悪くなったというところはなかったように思います。矢内理絵子女流名人としては、どこかで持将棋に持ち込むようなチャンスがあったかもしれませんが、勝ち目というのはほぼない将棋だったと思います。最後は何とか後手玉を受けなしに追い込み、中井六段の勝ち。名人復位にあと1勝としました。矢内名人にしてはえらく不出来な一局だったように思います。
 明日は熊本記念決勝。志村-武田-手島-内田の関東、市田-大井の近畿、佐藤と加藤は単騎で、小野は手島と競り。普通なら武田選手◎が大本命。競られるケースなら市田選手○と大井選手▲で、無理に競らないであろう佐藤選手△を少々。
 明日から王将戦七番勝負第六局。先手の羽生王将としてはここで防衛を決めたいところではないでしょうか。

 スピノザ哲学において責任論というのをどのように考えていったらよいかという前提条件が明らかになったところで、それが一般に責任ということばからイメージされるものとどのような齟齬を来すのかということを調べるために、ここで、一般に責任という概念がどのように考えられているのかということをみておくことにします。自分がなした事柄について、なぜ人間がその責任を取らなければならないのか、あるいはなぜ責任を取ることができるのかといえば、これはやはり端的に、人間は自分自身のなすこと、すなわち自分自身の行為というものを、自分自身によって決定できると考えられているからでしょう。一般に責任というのがこのように行為に対して問われるということは、たとえば犯罪に対する刑罰の考え方において、犯罪行為を犯した者が、そのときに精神的に衰弱していたとされる場合には、刑罰を軽減されたりあるいは課せられない場合があるということから明らかだと思います。したがってこのことを逆に考えれば、少なくとも人間が正常な精神状態にある限り、自分自身の行為を自分自身で決定し得ると考えられていることになります。そしてその決定を果たすのがその当人の意志ということになりますので、人間の意志はやはりその当人が自由に決定できるとされていなければなりません。責任の一般論には、まずこのふたつのことが前提となっていると思われます。
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火の鳥賞&経験論

2007-03-04 21:49:16 | 競輪
 熊本記念2日目優秀の火の鳥賞(動画)並びは予想と違い、甲越ということで志村選手に阿部選手が直付け。空いた武田選手に佐藤選手が付け、加藤選手がここを追走の4分戦でした。残り1周のホームで先行態勢に入ったのは武田選手。4番手でインの市田選手と併走になった志村選手がここから発進し、後方になった新田選手がこのラインの動きに乗る形に。関東両車の先行争いは、突っ張った武田選手が制してバックで志村選手は後退。ここからこのラインの上を満を持していた新田選手が捲り発進。このスピードがよく前段を捲りきりました。やや離され加減でしたがマークの村本選手も何とか追走。結局、新田選手が1着、村本選手が2着と静岡のワンツーが決まりました。3着は接戦で、武田選手の番手から静岡ラインに切り替えた佐藤選手が確保したように思ったのですが、写真判定の結果、市田選手にわずかに(微差)交わされていました。
 明日は女流名人戦五番勝負第三局。これは中国での対局です。

 第三部定理二の論理的な証明の結果、確かに人間の意志が自分自身の身体をある運動に決定することはできないということが明らかなのですが、もしかすると、経験的に反省してみた場合に、そんなことはないのではないかと思われる場合があるかもしれません。スピノザ哲学の立場では、それは勘違いで、この勘違いは次のように説明されます。人間身体は物体(延長の個物)ですので、第一部定理二八により、その存在と作用(運動)はほかの個物によって決定され、その個物は第二部定理六によりやはり人間身体と同じ物体であるということになります。ところが僕たちは大抵の場合は自分の行為(身体の運動)については意識しますが、その原因となっている物体については認識しません。一方、思惟の様態であるこの行為(運動)に関係する意志の方は明瞭に意識しますので、あたかもこの意志が自分自身の身体を動かした原因であるかのように錯覚してしまうのです。僕はこの定理二は、単に論理的に証明できるというだけでなく、経験的な観点からも確証できる、あるいは経験的な観点からこの論証の結果が正しいということを補足できると考えています。ただこれはやり出せば長くなりますし、ここでのテーマとはかけ離れていますので、いずれまた別のテーマとして扱うことを約束し、ここでは論理的に証明しておくにとどめます。いずれにせよ、エチカにおいて責任論について考察するときには、人間の意志が自分自身の行為の原因である、あるいはあり得るということを前提とすることはできないということはここで確認しておいてください。
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ダイシング&第三部定理二証明

2007-03-03 20:36:32 | 血統
 フェブラリーステークスでGⅠ初制覇を達成したサンライズバッカス。この馬の母系祖先も古くに日本に輸入された馬ですので紹介しておきます。
           
 日本での祖となっているのは1925年、すなわち大正14年にアメリカで産まれたダイシング(7-c)という馬。輸入されたのがいつであるのかということが判然としませんが、サンライズバッカスへと続くダイシングの直仔となる第弐ダンシングが産まれたのが1939年。第弐がいるならそれ以前に第壱もいると思われますので、遅くとも昭和10年前後には輸入されていたものと推定されます。
 ただしこの一族は繁栄しているとはとてもいいがたく、これだけの歴史の中でGⅠ馬はサンライズバッカスが初めて。それどころか活躍馬というのもほとんど出てなく、これまでのこの一族の代表馬は、まだGⅠに格付けされる以前の東京大賞典を勝ったキョウトシチー。これは僕の競馬キャリアの中の1頭ですが、それ以前にも重賞の勝ち馬はわずかに1頭出ていただけのようです。このような牝系がよくぞ今の時代まで続いていたと思えるほどで、その中からGⅠ馬が出現したというのは奇跡的だといえるほどではないかという気がします。

 明日は熊本記念2日目優秀の火の鳥賞。並びは普通に考えて、志村-武田-阿部の関東、新田-村本の静岡、市田-中沢の近畿。地区的には佐藤は静岡、加藤は近畿を追走と思われますが、やや流動的ですので予想は控えます。

 これで第三部定理二を論証する条件が整いました。
 まず精神mensは思惟の様態cogitandi modiです。したがって第二部定理六により、ある精神が存在し、また何らかの思惟作用に決定される原因causaは、思惟の属性Cogitationis attributumとして説明される限りでの神Deusということになります。しかし身体corpusは延長Extensioの様態ですので、身体が精神のある思惟作用の原因であるということはできません。そしてこれと逆に、身体は延長の様態ですので、ある身体が存在し、またある運動作用に決定されるときの原因は、延長の属性Extensionis attributumとして説明される限りでの神であるということになります。ところが精神は思惟の様態なのですから、ある身体が何らかの運動作用をする場合の原因であるということはあり得ないということになるのです。
 現在の話との関係では、この後者の、精神(人間の精神mens humana)が身体(自分の身体の)あらゆる運動作用の原因ではあり得ないということが重要です。人間のある意志作用volitioというのは、まさにその人間の精神のある思惟作用なのですから、この意志作用が、運動motusにほかならないその人間の(身体の)行為の原因ではないということがここから帰結されるからです。したがって、この第三部定理二が証明されることによって、もしも人間の意志voluntasが自分自身の行為の原因であると考えるなら、スピノザの哲学においてはそれは誤りerrorであるということ、したがってここで考察しようとしている『エチカ』における責任論には、これを前提とすることができないということが理解できます。
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トゥザヴィクトリー&別の証明

2007-03-02 22:46:58 | 名馬
 先月の佐賀記念で久々に重賞勝ちを遂げたサイレントディールですが、この馬の4つ上の全姉(父サンデーサイレンス、母フェアリードール共に同じ姉という意味)にトゥザヴィクトリーという馬がいます。今日はこの馬の紹介。
 管理していたのはやはり池江泰郎調教師。早くに2勝を挙げ、クラシック路線に乗り、桜花賞GⅠ3着、優駿牝馬(オークス)GⅠ2着。やや引掛かり気味に先行してゴール前で何かに差されるというレースを続け、3勝目にして待望の重賞初勝利となったのが4歳夏のクイーンステークスGⅢ。続く府中牝馬ステークスGⅢも連勝、エリザベス女王杯GⅠは4着に負けたものの阪神牝馬ステークスGⅡは快勝。
 この後、フェブラリーステークスGⅠに参戦、これが初めてのダート競馬だったのですが3着に善戦しました。この後、ドバイに行ってドバイワールドカップGⅠに挑戦し2着に敗れましたが、これは非常に価値が高いです。このレースはダート競馬では世界の最高峰に位置するレースのひとつ。実際にこのクラスのダート競馬で連対を果たした日本の馬は現在までこれだけで、ましてこの馬は牝馬ですからなおさら賞賛されていいと思います。
 このレースの後、休養に入り、復帰初戦となったエリザベス女王杯で待望のGⅠ制覇。その後、有馬記念GⅠは超スローペースで逃げて3着と善戦、翌年またドバイに行きましたが今度は大敗を喫して引退しました。なお、サイレントディールのひとつ上の全姉にあたるビーポジティブもクイーン賞GⅢを制していて、フェアリードールは名繁殖牝馬といえます。

 明日から熊本記念。出場選手が予定と少し入れ替わりました。

 第二部定理六は、この証明方法とは別に、単に認識論に訴えるだけでも証明Demonstratioが可能であると僕は考えています。
 仮にXというある様態modiがあるとすれば、第一部公理三からして、このXが存在する原因causa、たとえばAがあることになります。さらに第一部公理四から、この場合にはXの認識cognitioはAの認識に依存する、つまり、Xの真の観念idea veraのうちにはその原因であるAの真の観念が含まれていなければならないのです。
 そこで今度は、XとAが異なった属性attributumに属する、すなわち実在的に区別されると仮定しています。すると第一部公理五により、XとAの間には、一方が他方を認識するcognoscere、すなわち一方が他方の認識を含むという関係はあり得ないということが理解できます。あるいはこれは、僕がこの第一部公理五の暫定的な意味としたことからより明らかで、この場合にはある知性intellectusが、A(原因)を認識することによってX(結果effectus)を認識することができないということになります。
 これは第一部公理四に反するので不条理ですが、この不条理は、XとAが実在的に区別されるという仮定から生じます。したがって、XとAは同一の属性に属していなければならず、このことから一般的に、ある属性の様態が神Deusを原因として存在existentiaと作用に決定されるとしても、それは神が無限infinitumであるという意味ではなく、それが様態となっている属性のもとで神が説明される限りでのことであるということが出てくると思います。
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