スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
⑭-4 の第2図の後手玉はかなり受け難そうにみえたのですが☖4一歩という手がひねり出されました。
これは☗同とでは詰めろが途切れてしまうので先手は☗3二と☖同玉と捨てて☗4一龍と王手でその歩を取りました。
対して☖2二玉は三手詰みですから☖3三玉はこの一手です。
AbemaTVは室谷由紀女流二段が聞き手役で,この局面では☗4四龍と王手で引けば☖2四玉も☖3二玉も一手詰み。なので☖2二玉と逃げる一手。そこで☗3二金と打てば☖同玉はまた一手詰みなので☖1二玉と逃げる一手。そこで☗4一龍か☗4二龍とすれば後手玉は受けなしで先手の勝ちではないかと指摘していて,解説の中村太地六段(当時)も同調していました。ですが先手はそう進めずに☗8八金と銀を入手する詰めろを掛けました。
これは実際に盤上には現れなかった水面下の変化を含んだ手順です。この手もまたこの将棋が名局賞に選出された一因になったのではないかと推測されます。
第四部定理四 で,人間が自然の一部分ではないことは不可能だといわれているのは,現実的に存在する人間は自然に共通の秩序ordoに従わないことは不可能であるという意味です。そういう意味ではあるのですが,人間が自然の一部分ではないということが不可能であるということは,人間は必然的にnecessario自然の一部分であるということを同時に意味します。そしてすでにみたように,自然の多様性はスピノザの哲学では絶対的に肯定されなければなりません。したがって,その自然の一部分を構成する人間の多様性もまた,全面的に肯定されなければならないことになります。というのは自然の多様性に対する絶対的な肯定とは,部分的な否定negatioすら許されないという意味でしたから,もし人間の多様性を何らかの点において否定するなら,それは自然の多様性を部分的に否定しているという意味になってしまい,自然の多様性の絶対的肯定から外れてしまうからです。
第二部定理二九備考 では,自然に共通の秩序に対して知性intellectusの秩序が暗に示されていました。これは人間が知性の秩序に従うことも可能であるということを前提しなければ意味を有さなくなります。そしてそこに示されている知性の秩序の基礎となるのは共通概念notiones communesで,第二部定理三八系 からして現実的に存在する人間の知性の一部は共通概念によって構成されていなければなりません。よって現実的に存在する人間が知性の秩序に従うことも可能であるという前提は成立していることになります。ですがこのことは,人間が自然の一部でないということは不可能であるということ,つまり人間が自然の一部であるということ,そしてそのゆえに人間の多様性が肯定されなければならないということとは何ら矛盾しません。
そもそも現実的に存在する人間の知性は自然の一部であると僕は考えます。しかし仮にそう考えなくても,人間が知性の秩序に従うということは,人間が理性的であるということと同じことだという点に注意するだけでも十分です。なぜなら第四部定理三五 にあるように,人間は理性的である限りでは本性naturaの上で一致をみるのですから,理性ratioに従う限りで人間の多様性を否定する要素は何もないからです。
人間は精神と身体 が合一 unioした存在であるというスピノザの考え方が齎す異質なものは,人間の能動と受動 は一義的なものであるということだけではありません。おそらく最も異質に感じられるのは,これから示す精神mensの一般性ないしは普遍性とでもいうべきことだと思います。
復習になりますが,スピノザの合一は平行論 なしには考えることができません。平行論を一般的に示したのが第二部定理七 で,それを人間という具体的な存在に適用したのが第二部定理一三 でした。ところで,第二部定理七証明の意味 から,一般的に観念ideaとその観念の対象ideatumは同一個体 であることになります。したがって人間の場合でいえば,人間の形相的有esse formaleと客観的有esse objectivumすなわちその形相的有の観念が合一しているということになります。そしてこのとき,人間の形相的有は人間の身体corpusといわれ,人間の客観的有は人間の精神mensといわれているのです。すると,観念対象と観念は一般的に,つまり人間の場合に限って同一個体であるというわけではないのですから,任意にAという形相的有を抽出すれば,AとAの観念とは同一個体であるということになります。よってその同一個体が合一しているとみられる限りにおいては,AはAの身体といわれ,Aの観念はAの精神といわれなければなりません。ここではAを任意に抽出しました。いい換えればAは何であってもこのことが成立します。かくしてあらゆるものとその観念は同一個体であり,よってそれらが合一しているとみられる場合には,あらゆるものが精神を有するといわれなければならないことになります。これが僕のいう精神の一般性で,スピノザが第二部定理一三備考 で主張している事柄です。
ここから分かるように,精神はある機能的な側面から精神といわれるのではなく,むしろ構造的な面から精神といわれるのです。そして精神の機能性の差異は,精神の対象すなわち身体の機能性の差異と同一の関係にあるのです。
第四部定理四 は,現実的に存在する人間が受動passioを免れることは不可能であることを示そうとしています。そしてそのためにスピノザが,人間が自然の一部分ではないということは不可能であるといっているのには,ある理由があります。スピノザは現実的に存在する人間の能動actioの秩序ordoについてはそれを知性intellectusの秩序というのに対し,現実的に存在する人間の受動の秩序については自然の秩序ordo naturaeと表現するからです。すなわち自然の一部分でないということは不可能であるとは,人間が自然の秩序に従わないことは不可能であるという意味であり,それはそのまま現実的に存在する人間が受動を免れることは不可能であるという意味に転ずるのです。スピノザは第二部定理二九備考 で,自然に共通の秩序communi naturae ordineといういい方をしていますが,これがここでいっている自然の秩序のことです。そしてこの備考Scholiumの中には知性の秩序という表現こそ登場しませんが,それがどのような秩序であるかということも示されています。
「これに反して内部から決定されて,すなわち多くの物を同時に観想することによって,物の一致点・相違点・反対点を認識する場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいはかの仕方で内部から決定される場合には,精神は常に物を明瞭判然と観想するからである 」。
内部から決定されるというのは,精神mensが十全な原因causa adaequataとなっているという意味です。そしてこの文章から理解できるように,ここでは主に共通概念notiones communesについて言及されています。共通概念による認識cognitioは理性ratioの認識であり,その場合は混乱して認識されず,明瞭判然 と,ここではこれは十全にというのと同じ意味ですから,十全に認識されるのです。つまり認識のあり方だけで限定していえば,自然の秩序に従った認識は混乱した認識であり,知性の秩序に従った認識は十全な認識であることになります。このとき,第三部定理一 により,僕たちは混乱した観念idea inadaequataを有する限りにおいては必然的にnecessario働きを受けるpati,ないしは働きを受けているのですから,自然の秩序に従わないことが不可能だということが,働きを受けないということは不可能だというのと同じ意味であることが,ここからも理解できるでしょう。
第17回名古屋グランプリ 。
前走とは違って無難に発馬したクリノスターオーがハナへ。カツゲキキトキトが2番手でマーク。この後ろはコーナーワークで順位に変動はあったもののメイショウスミトモ,サクラビクトワール,トップディーヴォ,タガノディグオ,オールブラッシュの5頭で一団。それらの後ろがストゥディウムとトウシンイーグル。ここまでの集団から離れてドラゴンエアル。そしてブランニューとアサクサポイント。スローペースでした。
2周目の向正面からペースアップ。2番手のカツゲキキトキトにトップディーヴォが並び掛けたためカツゲキキトキトも動いてクリノスターオーと3頭で雁行となってコーナーへ。内にいたメイショウスミトモがこれらの後ろを追走し,5番手以下は離れました。直線の入口ではカツゲキキトキトとトップディーヴォが並ぶように先頭へ。メイショウスミトモはここからこの2頭の外へ持ち出し,あっさりと2頭を交わして抜け出し優勝。トップディーヴォが1馬身半差で2着。カツゲキキトキトが1馬身半差の3着。
優勝したメイショウスミトモ は前々走のシリウスステークス以来の重賞2勝目。昨夏にオープンを連勝していたのですが,その後の戦績からそのときは驚くような結果でした。ただ内容はとてもよいもので,距離を伸ばしたことが重賞制覇につながったのではないかと思われ,それならさらに距離が伸びるここでもっとよさが出る可能性があるのではないかと考えていました。おそらく長距離の適性が高い馬で,地方競馬の馬場への適性も高いタイプと思われますから,長い距離の重賞では今後も目が離せない存在でしょう。スローな展開から上がりの競馬になったのもこの馬には味方したものと思います。父はゴールドアリュール 。7つ上の半兄に2007年にユニコーンステークスを勝ったロングプライド 。母の1つ上の半兄がウイングアロー 。
騎乗した古川吉洋騎手と管理している南井克巳調教師は名古屋グランプリ初勝利。
悪malumの否定negatioについても言及しておけば,理性ratioないしは徳virtusは,それ自体で悪を否定することはありません。というか,第四部定理六四 により,悪の認識 cognitioは混乱した認識であり,理性による認識すなわち精神の能動actio Mentisによる認識は十全な認識であるので,理性は悪をそれ自体で認識することがありません。このことは第四部定理六四系 から明らかです。ですから理性ないしは徳によっては悪を認識すること自体が不可能なのであり,よってそれ自体でそれを否定することも不可能であることになります。そして,善悪 というのは比較上の概念であり,ふたつ以上のものが認識された上で一方が善bonum,他方が悪と認識され得るということに注意するなら,悪が認識されないということは善も認識されないということです。したがって理性による肯定および否定というのは,哲学的肯定ないしは哲学的否定だけを意味します。いい換えればここでは善が肯定され悪が否定されるというより,真理veritasが肯定され虚偽falsitasあるいは誤謬errorが否定されるのです。よって第一部定理一六 を理性的に認識するとき,自然 の多様性は必然的な真理であると認識されることになりますから,それは全面的に肯定されることになるのです。他面からいえば部分的にすら否定することは不可能になるのです。
これにより,スピノザの哲学が自然の多様性を肯定しているということは明白になったといえるでしょう。このことは,哲学的な実践 と大きく関係してくることになります。おそらくスピノザの哲学は論理的に自然の多様性を肯定するということよりも,それが肯定されるということによって,いかなる実践が肯定されることになり,逆にいかなる実践は否定されることになるのかということの方が重要なのです。これはもはや『ゲーテとスピノザ主義 』の範疇を大きく逸脱し,ことによるとゲーテJohann Wolfgang von Goethe自身の関心からも逸れることになるかもしれないのですが,スピノザは哲学的論理よりも哲学的実践を重要視したという形跡がありますので,最後にこの点についても僕の考えを示しておきましょう。いわば肯定的実践とはいかなる実践であるのかということです。
ここでもまず第四部定理四 に着目しなければなりません。
第68回全日本2歳優駿 。北海道のダモンデが左の前脚を跛行したため競走除外で13頭。
外の方から押していったサザンヴィグラスがハナへ。逃げて3連勝だったハヤブサマカオーは2番手に控えました。向正面に入るとこの後ろに2馬身ほどの差がつき,3番手にはダークリパルサー。4番手にソイカウボーイ。5番手はハセノパイロ,ハッピーグリン,ビッグスモーキーの3頭。8番手にドンフォルティス。その後ろにリコーワルサーと発馬があまりよくなかったルヴァンスレーヴ。あとの3頭は引き離されました。前半の800mは50秒3のミドルペース。
3コーナーを回ってマークしていたハヤブサマカオーをサザンヴィグラスがやや引き離すような形で直線に。コーナーで外を捲り上げていたルヴァンスレーヴがその勢いのまま外から内の各馬をすべて差して先頭に。先に動かれ,その後を追う形になったドンフォルティスもよい脚で追い込み,フィニッシュにかけては差を詰めていきましたが届かず,優勝はルヴァンスレーヴ。ドンフォルティスが1馬身差で2着。最内を回り最後に逃げたサザンヴィグラスの外に持ち出す形となったハセノパイロが3馬身差で3着。内を掬われるような形となったダークリパルサーがクビ差の4着。
優勝したルヴァンスレーヴ は8月の新馬戦を7馬身差で圧勝。10月の500万に出走して2馬身半差のレコードで優勝。重賞の勝ち馬もいましたが,能力はむしろこちらが上と考えることができました。川崎コースに対応できるかが最大の課題ではありましたが問題なくクリア。今年はダート路線で能力上位と目される馬がすべて揃ってのレースでしたので,2歳最強とみてよいだろうと思います。圧勝だった新馬戦のときも発馬は悪く,それが今後の課題でしょう。父はシンボリクリスエス 。母の父はネオユニヴァース 。ファンシミン 系ファンシーダイナ の分枝で4代母は1986年に京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年にエプソムカップと新潟記念とオールカマーを勝ったダイナフェアリー 。Le Vent Se Leveはフランス語で風立ちぬ。
騎乗したミルコ・デムーロ騎手はマイルチャンピオンシップ 以来の大レース制覇。全日本2歳優駿は初勝利。管理している萩原清調教師は2011年の全日本2歳優駿 以来の大レース3勝目。6年ぶりの全日本2歳優駿2勝目。
善bonumの肯定affirmatioおよび悪malumの否定negatioは,人間の現実的本性actualis essentiaであっても,何が善でありまた悪であるかについては,まったく普遍性を有しているわけではありません。各々の人間は,そのときそのときに応じてあるものを肯定ないしは否定するnegareというだけです。一方,第一部定理一六 に依拠することによって,自然 Naturaの多様性を肯定することは,万人の間で一致します。なぜならこの認識 cognitioは理性ratioによる認識であり,第四部定理三五 により,人間は理性に従っている限りでは本性 naturaが一致するからです。他面からいえば,人間は理性に従っている限りでは,自然の多様性を肯定します。よってその多様性を肯定しないのは,その人間が理性に従っていない,つまり受動状態にあることの証明のようなものなのです。
さらに善についていうなら,次の第四部定理三六で次のようにいわれています。
「徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって,すべての人が等しくこれを楽しむことができる 」。
第四部定義八 により,スピノザがいう人間にとっての徳virtutemは,その人間が十全な原因causa adaequataとなることをなす力potentiamを有する限りにおいてのその人間の本性hominis essentia, seu naturaです。Xが十全な原因となってAが生起するというとき,第三部定義二 によりAに対してXの能動 actioといわれるのです。したがってこの定義Definitioは,人間が能動的である限りにおいてその人間の本性を人間にとっての徳であるといっているのと同じです。しかるに理性は精神の能動actio Mentisですから,理性に従うということと徳に従うということの間に相違があるとすれば,徳に従うということは理性に従うということより広きにわたり得るということであり,理性に従うということが徳に従うということの一部であることは間違いありません。よって,人間は理性に従う限りでは,単にその本性が一致するというだけでなく,何が善であるのかということも共通するのです。いい換えれば何を肯定するaffirmareのかということも一致するのです。
これらのことから分かるように,人間にとって真の肯定とは理性的な認識による肯定であり,受動的な肯定はその場限りでの肯定にすぎず,後には否定されるかもしれない肯定という意味では,真の肯定とはいえないのです。
一昨日の伊東温泉記念の決勝 。並びは新山‐早坂‐伏見の北日本,黒田‐友定の岡山,太田‐原田‐阿竹の徳島で渡辺は単騎。
早坂がスタートを取って新山の前受け。4番手は内に太田,外に黒田で併走。渡辺が最後尾という変わった周回に。4番手の併走が残り2周のホームの入口まで続き,そこでようやく内の太田が引きました。新山はすぐに誘導を斬って発進。4番手に黒田,6番手に太田,最後尾に渡辺の一列棒状となってそのまま打鐘。バックの入口から太田が発進すると,さほど引き付けることなく新山の番手から早坂も発進。直線にかけて太田もよく迫ったのですが,展開をフルに生かした早坂が優勝。太田が半車輪差で2着。太田マークの原田が半車身差の3着。
優勝した宮城の早坂秀悟選手 は記念競輪初優勝。このレースは新山と太田という新鋭同士の対戦となって楽しみだったのですが,新山は後ろの優勝でも構わないという走り方をしたのに対し,太田は自分も優勝したいというレースに徹したため,早坂に有利な展開になりました。それでも太田は二段駆けを相手にかなり迫っていて,中団に固執せずにもう少し早めに引き,いいタイミングで駆けていった方がよかったようには思えます。ここは展開の恩恵を受けましたが,早坂は自力でも記念競輪を優勝しておかしくないだけの脚力がある選手だと思っています。ただ組み立てに難がある印象ですので,そのあたりは課題ではないでしょうか。
善bonumを希求ないしは肯定し,悪malumを忌避あるいは否定するという人間の現実的本性actualis essentiaが,何が悪であり何が善であるかについて一切の普遍性を示していないということは,単に現実的に存在するある人間と別の人間との間で一致をみないことだけを意味しているのではありません。第三部定理五一 は,異なった人間が同一のものから異なった仕方で刺激されるということと同時に,同一の人間が同一のものから,異なった時間tempusすなわち持続duratioのうちにあるときに,異なった刺激を受けるということを示しているからです。つまり同じ人間であれば同じものからいつでも同じ受動passioを受けるのではなく,異なった受動を受ける場合があるのです。
すでにみたように,悲しみtristitiaは必然的にnecessario受動でした。喜びlaetitiaは能動actioでもあり得ますが,受動でもあり得ます。したがって,同一の人間が異なったときに同じものから,あるときには悲しみを感じ,あるときには喜びを感じるということがあり得るのです。そして善は喜びの認識cognitioであり,悪は悲しみの認識ですから,同じ人間がかつては悪とみなしたがゆえに否定したものを,今は善とみなして肯定するということがあり得ます。もちろん逆に,かつては肯定したものを後に否定するという場合もあるでしょう。
ごく単純にいえば,人間の味覚というのは変ずるものなのであって,以前は不味いと感じて食べなかったもの,すなわち否定していたものを,今は美味と感じ好んで食べるようになったすなわち肯定するようになったということは,自身の経験として知っているという方もいらっしゃるでしょうし,自身の経験としてではなくても,ある人にとってそのような食べ物があるということを知っている方がほとんどでしょう。こうしたことが食物に対してだけではなく,すべてのもの全般に妥当するということを主張しているのが第三部邸五一の後半部分であり,前半部分についていえば,ある特定の食物を,ある人は美味と感じ別の人は不味いと感じる場合があるというような例が,食物に限定されずすべてのものに妥当するといっているのです。
このようにして,何が善で何が悪かは,同じ人間にとっても時間の経過とともに変ずるのです。
香港のシャティン競馬場で開催された昨日の香港国際競走。今年も4レースすべてに日本馬が参戦しました。
香港ヴァーズGⅠ 芝2400m。トーセンバジルが5,6番手の外,キセキは最後尾を追走。キセキは向正面で動いていき,3コーナーからは日本の2頭が併走で直線に。ただキセキはその時点ですでに手が動いていて直線での末脚は欠いて勝ち馬から9馬身半差の9着。トーセンバジルは外から4頭目あたりから前を追い掛けましたが,残り150mくらいで脚色が一杯。勝ち馬にはそこから引き離される形で2馬身半差の3着。このレースは端的にいって上位2頭の力量が上位でした。トーセンバジルは実績面からいえば3着でも順当でしょう。キセキは条件戦を除けば古馬相手のレースが初めてで,後方からでは苦しかったようです。
香港スプリントGⅠ 芝1200m。ワンスインナムーンは押して先頭に立ち,そのまま逃げました。逆にレッツゴードンキはダッシュが鈍く最後尾から。ワンスインナムーンは3コーナー過ぎに外から交わされて2番手。4コーナーで切り返して外に出ましたが,不利を受けたこともあって後続に飲み込まれて勝ち馬から13馬身4分の1差の12着。レッツゴードンキは馬群の中をそれなりに伸びてきましたが勝ち負けというところまではいかず3馬身4分の1差の6着でした。この路線の香港勢は強く,力量に見合った結果になったのではないかと思います。
香港マイルGⅠ 芝1600m。サトノアラジンは2頭並びの最後尾の外を追走。少し行きたがっていたように僕には見えました。3コーナーを過ぎてから外を捲り気味に進出し,直線では前を射程圏内に入れる位置までは取りつきましたが直線では伸びを欠き,勝ち馬から7馬身差の11着でした。この馬は能力は高いのですが,控えて末脚を生かすのが持ち味。このようなタイプの馬は香港のレースでは苦戦する傾向にあり,一か八かでもう少し前に位置するレースを試みてほしかったというのが正直な感想です。
香港カップGⅠ 芝2000m。ネオリアリズムはかなり掛かって内の2番手。その外に位置したのがスマートレイアー。ステファノスは後方2番手でしたが,向正面で内に入れて後方4番手まで上がりました。スマートレイアーは直線の入口では単独の2番手に。しかしそこから逃げていた馬に離され,4馬身4分の3差で5着。ネオリアリズムは直線で逃げた馬とスマートレイアーの間に。一旦は2番手に上がったものの,外から交わされ3馬身4分の3差で3着。ステファノスはスマートレイアーの外から伸びて4馬身4分の1差の4着でした。このレースは勝ち馬が展開利を生かして楽に逃げ切ったレース。ネオリアリズムは内から好発でしたので,前を譲らずそのまま逃げてしまった方がよかったのかもしれません。日本の3頭はあまり差のない入線で,それぞれの力は出し切ったものと思います。
現実的に存在する人間が善bonumを希求し悪malumを忌避するということ,いい換えれば善を肯定し悪を否定するということは現実的本性actualis essentiaです。ですがこれは現実的に存在する人間であればだれにでも妥当する現実的本性という意味であって,善および悪について何か普遍的な真理veritasを示しているわけではありません。なぜなら第四部定理一九 にあるように,現実的に存在する各々の人間は各々の人間の現実的本性に従って善を希求し悪を忌避する,すなわち善を肯定し悪を否定するのですから,もしも各々の人間の現実的本性が完全に一致すると仮定するなら,これによりすべての人間が同一のものを希求ないしは肯定し,同様に同一のものを忌避ないしは否定するということになるでしょうが,第四部定理三二 にあるように,現実的に存在する各々の人間が受動 passioに隷属している限りではその現実的本性が完全に一致することはありません。そして第四部定理三 により,現実的に存在する人間が受動から完全に免れるということは不可能なのですから,実際に各個人の現実的本性が完全に一致するということはないのです。よってたとえばAという人間がXを悪とみなして忌避または否定したとしても,Bという人間はそのXを善とみなし,むしろこれを希求あるいは肯定するということがあり得ることになります。逆にAはYを肯定するけれど,BはYを否定するという場合もあり得ることになります。こうしたことはこのように論理的に示さずとも,僕たちが経験によって知っていることでしょう。
よって,現実的に存在する諸個人は善を肯定し悪を否定するという現実的本性の下に生きるのですが,だからといってすべての人間が同じものを肯定しまた否定するという現実的本性を有しているわけではありません。自身がAを否定するからといって,そのAを肯定する人間もまた現実的に存在しているという場合がほとんどであるのです。ですから現実的に存在する人間が善を肯定し悪を否定するということは,人間の現実的本性としては一般的な真理ではありますが,何が善であり何が悪であるのかということについてそれと同じ意味での普遍的な真理を示しているというわけではないのです。
第69回阪神ジュベナイルフィリーズ 。
先手を奪ったのはラスエモーショネス。2番手にラテュロス。この後ろはサヤカチャン,マドモアゼル,リリーノーブル,コーディエライトの集団で,掛かり気味にロックディスタウンも加わっていきました。これらの後ろからマウレアとラッキーライラック。さらにグリエルマ,ハイヒール,モルトアレグロの3頭。そしてソシアルクラブとナディア。さらにトーセンアンバーとトーセンブレスで,最後尾にレグルドールとノーブルアース。前半の800mは47秒7のスローペース。
直線の入口では逃げるラスエモーショネスにコーディエライトが並び掛け,さらにその外にロックディスタウン。直線に入ってロックディスタウンが一旦は先頭に立ちましたが,前半のロスが響いたようでそこからの末脚に欠けました。代わって先頭に立ったのはリリーノーブルで,その外から追ってきたのがラッキーライラック。直線の半ばからはこの2頭の優勝争いとなり,外から差したラッキーライラックの優勝。4分の3馬身差の2着にリリーノーブル。競り合う2頭を後ろから追ったものの迫るところまではいかなかったマウレアが半馬身差で3着。
優勝したラッキーライラック は8月に新潟で新馬戦を勝ち,10月のアルテミスステークスで重賞制覇。連勝でここに出走していました。このレースは実績があって上位人気に推された馬が勝った場合には将来的に大成するケースが多く,この馬もそうなる可能性が大きいとみてよいのではないでしょうか。ペースのわりに3着と4着に2馬身半の差がつきましたので,おそらく上位3頭の能力が上位で,2着馬と3着馬にも巻き返す可能性があるのではないかと思います。父はJRA賞で2011年 の年度代表馬,2012年 と2013年 の最優秀4歳以上牡馬のオルフェーヴル でその父はステイゴールド 。3代母がステラマドリッド で祖母の半妹にJRA賞で2002年の最優秀4歳以上牝馬のダイヤモンドビコー 。
騎乗した石橋脩騎手は2012年の天皇賞(春) 以来の大レース2勝目。管理している松永幹夫調教師は昨年のJBCクラシック 以来の大レース4勝目。阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。
現実的に存在する人間がAを悪malumとみなすことの条件になるAの混乱した観念idea inadaequataと,Aを多様性のうちに肯定するAの十全な観念idea adaequataが,その人間の精神mens humanaのうちで両立し得ることはこれで明らかになりました。ただ,厳密にいえばこれは論理的に明らかになったまでで,その人間のうちで現実的なものとして明らかになったというわけではありません。というのも,哲学的肯定の根拠になる第一部定理一六 については,僕たちは理性 ratioによってすなわち第二種の認識cognitio secundi generisによって認識するcognoscereのであり,Aを現実的に存在する個別なものとして十全に認識するのは第三種の認識cognitio tertii generisであるからです。とはいえAが第三種の認識によって十全に認識された場合でも,第四部定理一 は適用が可能なのですから,その場合にもその人間はAを混乱して認識することによってAを悪とみなす場合があり得ることは明白で,この意味においては単に論理的にではなく現実的にも明らかになっていることになります。また,たとえその人間がAを第三種の認識によって認識していないという場合にも,第一部定理一六によって自然の多様性が肯定されなければならないということについてはその人間は一般的な真理 veritasとして認識することはできるのであって,そのゆえにたとえAが自身にとっての悪ではあっても,その多様性の肯定という観点からはAもまた肯定されなければならないということは理解できることになります。
第二部定理四二の意味 から,真理の規範 は真理自身なので,悪とみなすものに対する否定と,悪に対する哲学的肯定とのどちらが真理であるのかということを,僕たちは本来的にはたちどころに理解します。ただし,悪に対する否定というのは,大抵の場合には何らかの感情affectusを伴うものであって,第四部定理七 によってそうした感情はそれと相反する感情 によらなければ除去されません。このために,論理的には多様性が肯定されなければならないということは理解されていても,否定的な感情に隷属してしまうということが現実的に存在する人間には往々にして生じます。そこで,悪に対する否定は人間の現実的本性 actualis essentiaではあっても,永遠のaeternus真理ではないということを,別の観点からも示しておきます。
SWSが設立されたときに,SWSを批判し全日本を守ろうとした山本の決断 は,『1964年のジャイアント馬場 』に書かれているように,山本が全日本のブレーン として利益供与を受けていたからというわけではなくて,山本自身のプロレス観あるいは信念に起因していたという解釈に,一定の合理性を見出すことが可能です。ですからそれが真実であったのかもしれません。ただ,事実関係が詳細に明らかになっているというわけではないのですから,柳澤の記述を規準としても,もっと別の解釈,山本にとっては不利になるような解釈が不可能というわけではないと僕はみます。僕は柳澤の主張に合理性があることを認めますが,それを確実な真実と認定するわけでもないので,公平性を期すためにあり得る別の解釈も示しておきます。
柳澤によれば,このときにSWSないしは天龍源一郎 から利益提供を受けた記者が何人か存在したことになっています。すると山本はその事実を知り,自身も同様の利益提供を受けることを要求するという可能性がないわけではありません。この場合,山本はすでに全日本から利益を提供されていたのですから,それ以上のものを要求することになるでしょう。ところがその要求が利益を提供する側からみたときに過剰であった場合,過剰というのはたとえばあまりに高額の金銭とか,他に対する利益提供と大きく差があるような場合ですが,そのときは提供者はこの要求を拒否するのが自然であると考えられます。そこでこの交渉が決裂し,立腹した山本がペンの力でSWSを攻撃する側に回るというのは,可能性として完全に排除できるわけではありません。
もちろんここに示したのは山本にとって不利になる一例であり,ほかの例も考え得るでしょう。ただ,僕は何が真実であるかということを決定したいわけではありませんし,そういう決定は不可能だと考えています。柳澤のいっていることは合理性があり,確かに真実かもしれませんが,それを真実と確定することは避けておくのが安全であろうということを示しておきたいにすぎません。ですからここに示したことが真実であると僕が主張しているわけではないということには注意しておいてください。
善bonumを希求し悪malumを忌避することが,能動actioであるか受動passioであるかを問わずに人間の現実的本性actualis essentiaであるなら,現実的に存在する人間は自身にとっての善を肯定し,悪を否定するといっているのと同じことであると僕は考えます。いい換えれば現実的に存在する人間は自身に喜びlaetitiaを齎すものを肯定して悲しみtristitiaを齎すものは否定するといっているのと同じことだと考えます。これは,自然の多様性に対する哲学的肯定と相反するようにも思えるでしょう。実際に,多様性が肯定されるのであれば,悲しみを齎すものも肯定されなければならないという結論になるであろうからです。
しかし,僕はこのふたつの事柄は矛盾していないと考えます。つまり,現実的に存在する人間は自身にとっての善を肯定し悪を否定するという現実的本性で生きているけれども,自然の多様性は肯定され得ると考えるのです。
その根拠として僕が第一にあげたいのは,第四部定理一 です。この定理Propositioが明らかにしているのは,たとえばAという人間の精神mens humanaのうちにXの真の観念idea veraがあるとき,それが理由となってXの誤った観念が排除されることはないということです。この定理の意味 として,この場合にはXに対する誤謬errorについてはXの真の観念によって排除されるということはあるのですが,Xに関する虚偽falsitasは排除し得ないということがありました。したがって,Xの真の観念すなわち十全な観念idea adaequataと,Xの誤った観念すなわち混乱した観念idea inadaequataは,同一の人間の精神のうちで両立し得るということになります。
次に,第四部定理六四 により,現実的に存在する人間があるものを悪であると認識するなら,それは必然的にnecessario混乱した認識です。したがって,僕たちが悪を忌避するのは僕たちの現実的本性ですが,悪の忌避は必然的に混乱した認識から発生することになります。つまりAという人間がXを悪と認識し,Xを忌避する場合には,AはXを混乱して認識している,他面からいえば,AのうちにXの混乱した観念があるということになります。
一方,多様性に対する哲学的肯定は,第一部定理一六 を基に論理的に帰結するのであり,これは理性 ratioによる認識なので十全な認識あるいは真の認識なのです。
第7期女流王座戦 五番勝負第四局。
加藤桃子女王の先手で,手順に違いはありますが,里見香奈女流王座のごきげん中飛車 で①-Aから4筋で銀が向い合う形から先手の穴熊,後手の銀冠という戦型 に。戦いが始まりそうなところで互いに自重を重ね,先攻したのは先手になりました。
先手が歩を突いた局面。☖3三角を防がれた後手は☖8六銀と進出しました。先手は☗同角と取って☖同角。
ここでは☗7六飛と取るのも有力だったようですが,後手から8筋の歩を取ってくれたのを生かして☗8四歩と叩いて☖同銀に☗7四銀と打ちました。駒損でも攻め合って勝負になるという読みで,この読み自体は間違っていなかったようです。ですから勝負術としては相手の指し手を逆用した実戦の順でよかったのではないでしょうか。
後手はここで☖8七歩 と叩きましたが,類推するとこの手が先手の読みから外れていたようです。☗同銀と取って☖5九角成に☗8八歩と受けました。
駒損でも攻め合いを目指したので,どこかで☗8三歩と打つ手を残しておかなければならないのですが,この受けでそれがなくなってしまいました。これは一貫性を欠いた指し方で,中盤から終盤に入ろうかというところでこういう手順が出てしまうと差がつきます。☗8八歩と受けるところでは☗6四歩と攻め合うのが有力で,それなら均衡は保てていました。誤算があったのは仕方ありませんが,先手がうまく立て直せなかったという一局だったといえるのではないでしょうか。
里見王座が勝って 2勝2敗。第五局は22日です。
第四部定理四の意味 は,現実的に存在している人間は受動 passioを免れ得ないということです。第三部定理五八 は,基本感情 affectus primariiのうち喜びlaetitiaと欲望cupiditasは必然的にnecessario能動actioに由来するといっているわけではありません。よって僕たちは受動によって喜びを感じることもあれば欲望を感じる場合もあります。たとえば第三部諸感情の定義一二 の希望spesや,第三部諸感情の定義二八 の高慢superbiaといった喜びは,それぞれの定義Definitioから分かるように,何らかの混乱した観念idea inadaequataに起因する喜びですから,必然的に受動で,能動に由来する希望や高慢はありません。したがって希望や高慢から生じる欲望もまた必然的に受動であり,能動ではあり得ないことになります。
しかしながら,悲しみtristitiaはそれ自体で必然的に受動であるのですから,現実的に存在する人間が悲しみを免れ得ないということは,明らかであるといっていいでしょう。同時にそれは,僕たちが希望を感じずにはいられないとか,高慢を感じずにはいられないというのと同じことであるといえます。
第三部定理一二 は,現実的に存在する人間は喜びを希求するということを示しています。逆に第三部定理一三 は,現実的に存在する人間は悲しみを忌避するということを示しています。各々の定理Propositioでいわれている活動能力agendi potentiaの増大や減少というのは,完全性perfectioの移行transitioを意味します。小なる完全性から大なる完全性へと移行することが喜びであり,逆に大なる完全性から小なる完全性へと移行することが悲しみであるからです。
次に,こうした活動能力は僕たちが自己の有に固執する傾向すなわち第三部定理七 でいわれているコナトゥス Conatusであって,それは僕たちの現実的本性actualis essentiaです。そして第三部定理九 によって,この現実的本性というのは僕たちが十全な観念idea adaequataを有している場合でも混乱した観念を有している場合でも同じように妥当します。いい換えれば能動であるか受動であるかを問わずに妥当するのです。これでみれば分かるように,僕たちが喜びを希求し悲しみを忌避すること,他面からいえば第四部定理八 により僕たちに喜びを齎すものとしての善bonumを希求し悲しみを齎すものとしての悪malumを忌避するということは,人間の現実的本性であるといえるのです。
昨晩の第63回クイーン賞 。
大方の予想通りにプリンシアコメータがハナに。2番手にはアンデスクイーン。3番手がタガノヴェローナ。4番手はタイムビヨンドとアンジュデジール。6番手にオヤジノハナミチ。7番手にティルヴィングとラインハート。ここまでの8頭はひとつの集団。タッチデュールだけが大きく取り残されて1コーナーを通過。向正面に入るとオヤジノハナミチが脱落していき集団は7頭に。最初の800mは49秒5のミドルペース。
3コーナーを回ると2番手のアンデスクイーンの手応えが徐々に怪しくなり,その内を回ったアンジュデジール,外を回ったタガノヴェローナ,さらに外を回ったラインハートが集団に。直線に入ると少しだけ外に出たアンジュデジールが逃げるプリンシアコメータを捕まえにいこうとしましたが,むしろプリンシアコメータの脚色の方が優勢。楽に逃げ切ったプリンシアコメータが優勝。3馬身差の2着にアンジュデジール。さらに5馬身差の3着にラインハート。
優勝したプリンシアコメータ は重賞初勝利。1600万の身で前走は大レースに挑戦し,不利を受けた上で僅差の2着。このレースはハンデ戦でしたが,自身が重い斤量を背負ったわけではなく,軽い斤量の馬がいたというケース。こういう場合はダート戦では実力通りに決まることが圧倒的で,実際にこのレースは着差ほどの力差があるのではないとしても,強い順に入線したといえると思います。逃げることができなかった場合はまだ分からないのですが,少なくとも純粋な競走能力としては,現時点で牝馬のダート路線ではトップに近いところまでいっている可能性があると思います。クイーンマンボとの対戦が楽しみなるようなレースでした。母の全姉に2004年のNARグランプリ最優秀牝馬のベルモントビーチ 。Cometaはイタリア語で彗星。
騎乗した岩田康誠騎手は第52回 ,56回 に続き7年ぶりのクイーン賞3勝目。管理している矢野英一調教師はクイーン賞初勝利。
あるものについてそれが完全であるといわれるならば,それはそのものに対する全面的な肯定であり,逆にあるものが不完全であるといわれるのであれば,それはそのものに対する全面的否定であるか部分的否定であるかのどちらかであるということは,自明であるといっていいかもしれません。すると第二部定義六 により,実在するあるいは実在し得るすべてのものはそれ自身の実在性 realitasを有しているのですから,それ自身において完全であるということになり,それ自身として肯定されているということになります。しかるに第一部定理一六 から,自然 のうちには,あるいは延長の属性Extensionis attributumに限定したとしても延長の属性からは,無限に多くのinfinitaものが発生するのですから,自然の多様性,またはゲーテJohann Wolfgang von Goetheの芸術作品にみられる意味での物体corpusの多様性が,スピノザの哲学のうちでは全面的に肯定されているのであって,部分的にすら否定されていないということが分かるのではないでしょうか。
僕たちは生きていく過程の中で,多くの悲しみtristitiaに遭遇します。他面からいえば,第四部定理八 により,僕たちに悲しみを齎すものとしての悪malumに遭遇します。ところがそうしたものもそれ自身においては完全であり,したがって肯定されていると考えなければなりません。要するに僕たちは僕たちが悪とみなすものについても肯定しなければならないことになり,これはそれ自体でみるととても不条理なように思えます。この部分は乗り越えなければならないある種の壁であるということができるでしょう。
このことと最も関連するのは,まず第三部定理五九 により,僕たちが悲しみを感じるのは受動 passioによってであるということです。このことから第四部定理六四 にあるように,僕たちがあるものを悪であると認識する場合には,そのものを十全には認識していない,いい換えれば混乱して認識しているということが帰結します。いい換えればもし僕たちがすべてのものを十全に認識するのであれば,僕たちは悪を認識するということはありません。これは第四部定理六四系 が示している通りです。
ただし,だから僕たちが悪を認識せずに生きていくことができるということにはなりません。
一昨日と昨日に指宿温泉で指された第30期竜王戦 七番勝負第五局。
羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。後手の渡辺明竜王 がバランス型の布陣を敷いたのに対して先手が銀をぶつけていくという,今まで見ることがなかった仕掛け。そこまでの駒組がよくなかったという感想が残っていますが,僕には封じ手 の段階では先手が有利になっていたとは思えないです。ただ,仕掛けて悪くなったということはまるでなく,成立するとはいいきれないまでも,あり得る仕掛けであったのは間違いないところでしょう。2日目は進んでいくうちに先手の有利が拡大し,最後は大差になるという,僕にはまったくもって不思議な将棋でした。
先手が角を打った局面。ここで☖4九龍と逃げましたが,逃げ場所としてはあまりよくなかったのかもしれません。
☗1二歩☖同香☗1三歩は先手が角を打ったときからの狙いの攻め筋。後手は☖同香☗同桂成☖同桂☗同角成と清算して☖2二金打と受けました。
先手は馬を逃げずに☗1五香と走って一歩を入手。後手が☖1三金と馬を取ったところですぐに取り返さずに☗6七角と打ちました。これは龍が4九に逃げたために生じた一手です。
後手は☖1九龍と回って1筋に利かせ,先手は☗1三香成と金を取りました。
第2図で後手は成香を取らずに☖4一王と早逃げしました。しかしこれには1筋で入手した歩を☗4四歩と打つ手があり,後手は☖9四桂と反撃に回ったものの☗2三成香☖同金☗4三歩成でと金を作られることに。
先手玉が詰めろになっていないので,第2図からの早逃げはあまり手が伸びてなく,一手パスに近くなってしまい,ここで決定的な差がつきました。第2図はたぶん後手が不利ですが,☖1三同龍と取る方がましだったでしょうし,早逃げするなら第1図から2図に進む間のどこかだったのではないかと思います。
4勝1敗で羽生棋聖が竜王を奪取 。第2期,5期,7期,8期,14期,15期に続く15年ぶり7期目の竜王位。同時に永世竜王の称号も獲得しました。すでに永世名人,永世王位,名誉王座,永世棋王,永世王将,永世棋聖の称号は獲得済みで,今期よりタイトル戦となった叡王戦以外のすべてのタイトル戦の永世・名誉称号を獲得するという快挙が達成されました。シリーズを通して羽生新竜王が積極性で圧倒したという印象です。
第一部定理一一第三の証明 は,神 Deusが絶対に無限absolute infinitumであることに依拠して,絶対に無限なものは最高の実在性realitasを有するから,それが実在するかさもなければ何も実在しないかのどちらかでなければならず,しかし何も実在しないというのはそれ自体で不条理なので神は実在するという主旨の論証Demonstratioです。神が絶対に無限な実体substantiaであることは第一部定義六 が示していることであり,仮にこれを無視しても,絶対に無限な実体は存在しなければならないということは理解できます。
これに類比的にいうなら,絶対に無限な実体は最高の肯定を意味するのであって,したがってそれが肯定されるか,そうでないなら肯定されるものは存在しないかのどちらかでなければならないのです。なぜこうした類比が成立するのかといえば,第一部定義六説明 にあるように,絶対に無限な実体の本性 essentiaに属するのは一切の否定negatioを含まないあらゆるものであるからです。そして絶対に無限な実体は存在しなければならないのですから,そこには一切の否定を含まないあらゆるものが属し,よって絶対に無限な実体すなわち神の本性から必然的にnecessario生起するあらゆるものは否定を含んでいない,すなわち肯定されているということになります。これが僕のいう哲学的肯定の意味です。
スピノザが第二部定義六 で,ものの実在性にものの完全性perfectioを等置するのは,こうした哲学的肯定と関連しているという見方が可能と僕は考えています。というのは,第一部定理一五 にあるように,存在するものはすべて神のうちにあるのであって,また第一部定理一六 により,それは神の本性の必然性 を原因とします。すでにみたように,第一部定理三四 によってその神の本性は神の力 potentiaと同一です。一方,第一部定理一一第三の第三の証明がいうように,存在し得るということは力で存在し得ないということは無能impotentiaです。実在性というのはそれが実在する力という意味ですから,事物の実在性の原因が神である以上,その力は神の力の分有です。あるいは実在するものは神の力を部分的に表現します。よって実在するものはどんなものであれ完全であり,つまりものの完全性というのはそのものの実在性であるということになるのです。
別府記念の決勝 。並びは田中‐中村の千葉,竹内‐坂口の中部,古性に大塚,岩津‐橋本の瀬戸内で木暮は単騎。
田中がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に岩津,5番手に木暮,6番手に竹内,8番手に古性という周回に。残り3周のホームに入ると早くも古性が上昇。バックでは田中の外で併走になりましたが,田中が引かなかったので叩けず,再び下げました。残り2周のホームで竹内が上昇。田中を叩いて誘導を斬って前に。3番手に田中,5番手に岩津,7番手に木暮,8番手に古性の一列棒状でバックを通過。打鐘が入ったところで古性が発進。竹内を叩いてかまし先行になりましたが,大塚がマークしきれず,番手に竹内,坂口の後ろは田中で降りた大塚はその後ろ。中村は大塚の後ろになってバックへ。大塚の後ろから岩津が発進すると合わせて田中も発進。さらに竹内も番手から発進と捲り合戦。これを制したのは田中で,直線で先頭に立つとそのまま後ろの追い上げを凌いで優勝。マークの形になった大塚が4分の3車身差で2着。大塚の後ろになった中村が1車輪差で3着。
優勝した千葉の田中晴基選手は2月に国際競技支援競輪 での優勝があり,GⅢは2勝目ですが記念競輪は初優勝。このレースは混戦模様のメンバー構成になったために,うまく立ち回ることができた選手が最も優勝に近いだろうくらいのことしか予想できず,だれがそういうレースをできるのかということを想像するのも難解でした。古性が早めに抑えにきたときに,突っ張ってそれを許さず,再び下げさせたのが最大の勝因ではないでしょうか。おそらく自力型では最も力がありそうな古性がそれで余分な力を使うことになりましたし,竹内ラインの後ろであれば,捲るだけの力はあったということだと思います。大塚がマークできなかったためとはいえ,絶好の展開となった竹内にとっては残念な結果でしょう。捲り合戦になるのは目に見えているので,後ろが近付く前に発進するべきだったと思います。
ゲーテJohann Wolfgang von Goetheは『若きウェルテルの悩み』をはじめとした芸術作品において,自然を賛美する多くの個所を残しています。よってゲーテが自然,もっと限定的にいえば物体corpusの多様性を肯定していることは疑い得ません。スピノザの場合,第一部定理三二系二 から,物体の多様性を是認しているということは分かりますが,それをゲーテと同様に肯定しているということは,これだけでは不明であるかもしれません。しかしスピノザの哲学はこれを肯定します。あるいは肯定しなければなりません。これは哲学的肯定であって,ゲーテの肯定とは趣が異なるかもしれませんが,少なくともスピノザが物体の多様性をどのような意味においても否定することはないのであって,よってそれは肯定されなければならないということは示すことができます。
まず,自然の多様性は第一部定理一六 によって是認されます。したがって物体の多様性も基本的にはこの定理Propositioによって是認されているということになります。しかるにこの定理でいわれている神の本性divinae naturaeというのは,第一部定理三四 によって神の力 potentiaであると解されなければなりません。よって神の力によって発生するものを,全体として否定するならそれは神の力を絶対的に否定することと同じです。また,神の力によって生じる無限に多くのinfinitaもののうちのいくつかのものについては否定するというなら,これは神の力を部分的に否定しているのと同じことになります。
このことは,自然のうちに存在する個物res singularisあるいはもっと特定して物体は,その物体という様態的変状modificatioに様態化した神であるということからなおのこと明らかでなければなりません。このことから,ある特定の物体についてそれを否定するということは,その物体という様態的変状に様態化した限りでの神を否定するということですから,これは神を部分的に否定していることになるからです。
ところが神は自己原因causa suiとして必然的にnecessario存在するものであり,また第一部定理一一第三の証明 あるいは第一部定理一五 から明白なように,それが存在しないなら何も存在し得ないものです。よって部分的にであれ神を否定することは,すべてのものを否定することと等しいのです。
Kが「私は金がない 」と言ったのは嫌味 ではなかったと僕は解します。裕福な男と困窮した男 という関係についてのKの自己意識 の稀薄さと,静 に対するKの恋心 を奥さんは知らなかったというのがその理由です。ですがテクストに書かれたこの記述から僕にもっと確かだと思われるのは,たとえKがそれを嫌味のつもりで言ったのだとしても,奥さんはそれを嫌味とは受け止めなかったということです。今度はその根拠を説明していきます。
この部分は先生と奥さんの会話で成立しています。先生と静の結婚の決定を奥さんがKに告げたときのKの態度を,先生の方から質問しているのです。この背景からして,もしも奥さんがKのことばを嫌味として受け止めていたなら,奥さんはこのことを先生には伏せておいたろうと推定されます。ところが奥さんは包み隠さずにKのことばを先生に教えているのです。それは奥さんがそれを嫌味とは受け止めていなかったからだと僕は考えます。
もしKのことばが嫌味となり得るなら,それは金のある先生は静と結婚できるけれども金のないKは結婚はおろかお祝いすることもできないという意味でなければなりません。要するに静は財産目当てで先生と結婚するのだし,奥さんは財産目当てで娘を先生と結婚させるのだということです。もし奥さんがこの意味を正確に把握したのなら,Kのことばをありのままに先生に伝えるのは,静の結婚は財産が目当てですと当事者の先生に伝えるようなものです。たとえ奥さんにそういう意図はなかったのだとしても,そういう嫌味として先生は解するかもしれないと奥さんは考える筈です。実際に先生は財産家なのですから,自分たちにとって不利益になるかもしれないそんなことまで教えるのは避けるのが普通でしょう。
ところが奥さんはそのまま伝えました。これはそれを嫌味と解さなかったからです。そしてなぜそれを嫌味と解さなかったのかも考えることができます。
第一部定理一六 は,自然 のうちに無限に多くのinfinita個物res singularisすなわち有限様態が発生しなければならないことを示しています。ただこの定理Propositioの意味 は,無限に多くの仕方といういい方で,神 Deusの本性naturaを構成する無限に多くの属性attributumのそれぞれから,その属性に属する個物が無限に多く発生するということを意味しています。僕はこうしたものを総称してスピノザの哲学における自然と解しますが,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが自然学の対象としているものは延長の属性Extensionis attributumに属する個物すなわち物体corpusに限られるのであって,この定理だけでも自然界の多様性の肯定というゲーテとスピノザの親和性は示すことが可能ですが,もっとゲーテに寄り添った形で示しておきましょう。
スピノザは延長の属性から無限に多くの個物が発生するといういい方はしません。これは当然で,第一部定理二一 により神の絶対的本性から生起する様態modiは無限様態modus infinitusでなければならないからです。有限様態すなわち個物の場合には第一部定理二八 の様式で存在existentiaと作用に決定されるのであり,このために延長の属性を原因としてある特定の物体が発生するといういい回しは相応しくはないのです。ただ,第一部定理二八は同時に,ある個物の原因はそれ以外の個物に変状した神であるという意味を含むので,その直後の備考 Scholiumにあるように,神は個物に対しても絶対的な最近原因causa proximaです。このことは第一部定理二五 からも明らかだといわなければならないと僕は考えます。
一方,無限に多くの物体が発生することをスピノザが是認していることは,第一部定理三二系二 から明らかです。そこでは延長の属性からとはいわれず,延長の属性の直接無限様態である運動motusと静止quiesからといわれていますが,これは物体は運動と静止の割合によって決定されるものであって,その運動と静止の割合は無限に多くあり得るからだと僕が解しているということは前に説明した通りです。しかしこの解釈の是非はここでは問う必要はありません。ゲーテは自然は原型とメタモルフォーゼの内的法則により無限に多くの物体を産出するといっているのであり,無限に多くの物体が生起するという点ではスピノザが認めているところと同一だということが分かれば十分です。
第18回チャンピオンズカップ 。アポロケンタッキーは右の前脚に跛行がみられたため出走取消となり15頭。
最内からコパノリッキーがハナに。行きたがるのを宥めつつテイエムジンソクが外の2番手。3番手は内からケイティブレイブ,モルトベーネ,ロンドンタウンで併走。6番手にグレンツェントとアウォーディー。8番手はメイショウスミトモとローズプリンスダム。10番手以降はカフジテイク,ゴールドドリーム,ミツバの順で続き,13番手をサウンドトゥルーとノンコノユメで併走。最後尾にキングズガード。最初の800mが48秒9のスローペースになったこともあり,隊列にほぼ切れ目のないレースでした。
直線の入口ではコパノリッキーとテイエムジンソクが雁行。内から外に出したケイティブレイブが単独の3番手に上がって前を追い掛けていきましたが,競り合う前の2頭が逆に引き離していく形に。展開有利に進めた2頭の争いかに思われましたが外からゴールドドリームが目を瞠る末脚を発揮。競り合う2頭をフィニッシュ手前で差し切って優勝。コパノリッキーを競り落としたテイエムジンソクがクビ差の2着。コパノリッキーがクビ差で3着。
優勝したゴールドドリーム はフェブラリーステークス 以来の勝利で大レース2勝目。この馬は2000mのレースでは明らかに距離が長いという負け方をしていました。このレースは1800mでも,過去の傾向からはスタミナ面を問われるレースになることが多く,その点で厳しいのではないかと考えていました。勝つことができたのはペースが緩み,どちらかといえばスピード能力のひとつといえる瞬発力に重きが置かれるレースになったからだと考えます。なのでこれ以上の距離延長はマイナスなのではないでしょうか。右回りよりは左回りの方がよいように思います。父はゴールドアリュール 。
騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手は香港カップ 以来の日本馬に騎乗しての大レース制覇でこのパターンでは大レース9勝目。国内では昨年の天皇賞(秋) 以来となる日本の大レース7勝目。チャンピオンズカップは初勝利。管理している平田修調教師はフェブラリーステークス以来の大レース3勝目。チャンピオンズカップは初勝利。
どういう仕方であれ,実体substantiaに模した形式で植物原型あるいは象徴的植物を定義し得るのであれば,論理的には,個々の植物の発生もまた示すことができるようになります。すなわち個々の植物とは,植物原型が一定の仕方で変状した様態modiであるという仕方で個々の植物を一般的に示すことができますし,植物原型から無限に多くのinfinita植物が必然的にnecessario発生するという仕方で,植物の発生を示すこともできるからです。
大槻はゲーテJohann Wolfgang von Goetheにとっての自然学は経験科学ではなく自然の形而上学であるといっていました。ここからは『ゲーテとスピノザ主義 』でいわれていることを離れた,僕の類推になるのですが,ゲーテにとって自然学が経験科学ではなく自然の形而上学でなければならなかった理由,あるいは少なくとも形而上学でもなければならなかった理由として,単に個々の植物の発生を示すため,あるいはもっと広く延長の属性Extensionis attributumに属する限りでの自然における個物res singularisすなわち物体corpusの発生を示すためであったというより,多種多様な植物あるいは無限に多くの物体の多様性を肯定するためということがあったのではないかと思うのです。そのためには経験科学では不十分であって,ゆえにスピノザの哲学のような形而上学的思想がゲーテにとってはとても有益であったと思うのです。というのも,スピノザの哲学はこのような多様性を絶対的な意味で肯定するような哲学であるからです。たぶんこの多様性の肯定という観点において,スピノザとゲーテとの間には顕著な一致があったのではないかと僕はみています。たとえば前に検証した『若きウェルテルの悩み』の一節は,確かにスピノザの哲学とは相容れない要素が多く含まれていることも確かですが,基本的に僕たちが自然とみなすものに対する賛美には溢れているのであって,ゲーテの芸術作品のうちにこの類の自然に対する賛歌が多く含まれるのは,ゲーテが自然の多様性を肯定的に評価していたからではないかと僕は思うのです。
スピノザの哲学はひとつの思想ですから,芸術作品のような自然の賛美が含まれているわけではありません。しかし自然における多様性が絶対的に肯定されているのは間違いないと僕は考えます。
先月のマイルチャンピオンシップ は3歳馬のペルシアンナイト が勝ちました。1993年にアメリカで産まれた祖母のニキーヤ がこの馬の輸入基礎繁殖牝馬になります。ファミリーナンバー は9-h 。Nikiyaはインドのヒンズー教の寺院を舞台にした古典バレエに登場する踊り子の名前。そのバレエがLa Bayad`ereで,ニキーヤの産駒の1頭はラバヤデールと名付けられています。
繁殖生活は日本で送りました。2頭目の産駒がゴールドアリュール で,早々に大物が輩出したことになります。
ラバヤデールはゴールドアリュールのひとつ下の全妹。JRAで3勝した後,繁殖牝馬となり,2014年にマーチステークス,今年は小倉サマージャンプを勝ったソロル の母になりました。ソロルはソーラといわれることもあるラバヤデールに登場する兵士で,ニキーヤと恋仲になります。
ラバヤデールのふたつ下の全妹はJRAで4勝。この馬が繁殖牝馬となってペルシアンナイトの母になりました。
ペルシアンナイトの5つ下の半弟はゴールスキー 。2014年に根岸ステークスを勝ちました。
ニキーヤの5つ下の半妹も後に繁殖牝馬として輸入されました。その馬からは一昨年のクイーン賞 を勝っている現役のディアマイダーリン が輩出しています。
枝葉はこれからも広がっていく系統だと思います。3頭目の大レース制覇を達成する一族の子孫が出てくる可能性もあるでしょう。
僕は十全な観念idea adaequataを定義した第二部定義四 のうちには,十全な観念の発生は含まれていないと考えます。しかし観念を定義した第二部定義三 は,かつて考察したように,観念の発生を含んでいると考えます。したがって観念が実在的有であるということは,その観念の対象 ideatumとは無関係に,いい換えればある観念の対象が何であるかを考慮せずとも,『エチカ』においては保証されているのであり,よって観念をある観点すなわち本来的特徴denominatio intrinsecaという観点からみた場合の十全な観念もまた実在的有あるいは客観的有esse objectivumであることが保証されていると考えます。
ゲーテJohann Wolfgang von Goetheがそれをどう考えていたかは分かりませんが,僕がいっている植物実体,ゲーテのいい方に倣えば植物の原型あるいは象徴的植物が,このような発生を含むような仕方で定義をすることができるものであるとは僕は考えません。ですがそれを客観的なあるいは思惟の様態cogitandi modiとして真verumなるものであることを保証するような定義Definitioを作ることは可能であると思います。たとえば個々の植物が有するような本性essentiaに共通するような要素を有するものを植物の原型というとか,あるいはこのようないい回しが許されるのであるとすれば,すべての植物が有する本来的特徴を有するようなものを象徴的植物という,というような定義の仕方です。それは植物の原型ないしは象徴的植物の発生はまったく含むことができないでので,観念であるということはできないでしょうが,虚構としての理性の有entia rationisであるということはできるでしょう。実際,定義においてはそれが有であるか無であるかということより,真であるか偽であるか,あるいは真であり得るか偽であり得るかということの方が重要である場合があるのであって,その条件の下には,これが植物実体の定義であるということはできます。第一部定義三 というのは実在的realiterにも援用できますが,形而上学的にも援用することができる定義であり,植物実体の定義は単に形而上学的には援用できるけれども実在的には援用することができない定義であるという限定があるという相違がそこにはあるだけです。
もちろん,これは一例で,ゲーテに都合のよい定義の仕方はほかにもあるでしょう。