スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大阪王将杯王将戦&近藤の関心

2020-03-16 19:25:20 | 将棋
 13日と14日に指された第69期王将戦七番勝負第六局。
 広瀬章人八段の先手で角換り。先手が早めに1筋の位を取ったので後手の渡辺明王将右玉に。先手が後手玉を剥き出しにして挟撃体制を築いたので,そのあたりは先手の方が模様のよい将棋だったと思います。ただ僕にはどこが悪かったのか分からなかったのですが,終盤は激戦に。
                                        
 先手が銀を打った局面。放置すれば☗5二角成の一手詰めですから受けなければならず,☖7四歩と打ちました。先手は☗3二銀成。
 ここで飛車取りを放置して☖5六角と桂馬を取ったのですが,これがこの将棋の勝因となったように思います。飛車取りにもなっているので先手は☗2三飛成と王手で逃げました。次の☖3三金もこの一手の受け方。
 ☗3一成銀☖2三金の取り合いは後手が勝ちます。なので☗3三同成銀と取りました。後手はもちろん☖同桂。そこで☗2二龍と入りました。
                                        
 この手が後手玉への詰めろとなってなく,第2図は後手の勝ちになっています。先手は☗3二銀成のところで☗3二銀不成と取る手はありました。これにも☖5六角と取られるのですが☗3一銀不成☖2九角成という取り合いに進め,☗7五桂と打ってどうだったでしょうか。
 渡辺王将が勝って3勝3敗。第七局は25日と26日です。

 まず,近藤の関心の中心がどういったところにあるのかを説明しておきます。
 『〈内在の哲学〉へ』には序章があって,これはこの本のために書き下ろされた部分です。その中に,「人新世」というキーワードが出てきます。僕は初めて知った語で,地質学に属する概念だそうです。人間の活動が,たとえば火山の大噴火とか巨大隕石の衝突といった大規模な自然現象と同様に,地質あるいはもっと広く地球の環境に大きな影響を与える時代という意味です。つまり地質学的には現在は「人新世」といってもいい時代に突入している,他面からいえば現代の人間による活動は,大噴火とか隕石の衝突並みに地球の環境に大きな影響を齎している時代であるという考え方が存在するのです。僕は地質学のことはほとんど分かりませんから,この概念が地質学会の中でどういう評価を受けているかは分かりません。ただ,現代の人類の活動が,大規模な自然現象並みに地球環境に多大な影響を与えているということについては,否定することはできません。
 近藤はこの「人新世」が始まったのは,1950年代前後とするのが妥当であるといっています。この妥当性については僕は肯定も否定もしません。というか肯定したり否定したりする材料を有していないので,肯定も否定もできないといった方が正確です。
 次に近藤は,この「人新世」という時代を産出するプロセスがあるといっています。なおかつそれらのプロセスにプラスのフィードバックがかかっていると主張しています。プラスのフィードバックがかかっているがゆえにそのプロセスは否定されにくい,たとえそのプロセスからネガティブな結果が産出されても,否定されにくくなっているといっています。このプロセスは自動的に再生産される仕組みになっているのですが,単純なプロセスというわけではありません。現代社会を構成するそのプロセスは4つのシステムから成立しています。第一に科学技術,第二に資本,第三に軍事,第四に議会制民主主義です。これらのシステムはそれぞれ単独で増殖運動を展開することができると同時に,各々の増進が相互にプラスのフィードバックを齎す形で編成されています。
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金亀杯争覇戦&〈内在の哲学〉へ

2020-03-15 18:57:57 | 競輪
 松山記念の決勝。並びは平原‐諸橋の関東,根田に守沢,松浦‐稲川‐志智の西日本で杉森と中川は単騎。
 平原がスタートを取りに行きましたが,外から上がってきた守沢に譲る形となり,前受けは根田。3番手に平原,5番手に松浦,8番手に中川,最後尾に杉森で周回。残り3周のバックから松浦が上昇。根田と併走しながらホームへ。ちょうど残り2周の地点で松浦が根田を叩いて誘導は退避。4番手に平原,6番手に中川,7番手に杉森,引いた根田が8番手という一列棒状に。松浦はスローペースに落としましたがだれも叩きに来ず,そのまま打鐘。松浦の成り行き先行かに思えましたが,コーナーで平原が上昇。松浦を押さえて先行することに。諸橋の後ろにいた中川が続こうとしましたが,これは松浦が阻止して3番手は松浦。中川は立て直してバックからまた発進しましたが松浦の横で一杯。この影響で松浦は発進することができませんでした。バックから平原との車間を開けていた諸橋が直線半ばから平原に詰め寄りましたが届かず,優勝は平原。マークの諸橋が8分の1車輪差の2着で関東のワンツー。諸橋の後ろから流れ込む形で松浦が4分の3車身差の3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は大宮記念以来の優勝で記念競輪22勝目。松山記念は初優勝ですが,2013年2月の全日本選抜競輪を当地で優勝しています。このレースは松浦と平原が総合的な力量で上位。ただどちらも先行タイプではないので,いい位置を確保できた方が有利になると予想していました。そういう意味では逃げたのは予想外だったのですが,松浦が先行するのを嫌がっているのを見て,機敏に先行していったのが好判断でした。中川と被って松浦が動けなかったのも有利になったといえるでしょう。また諸橋は,自身の優勝ということを考えれば,少し車間を開けすぎたかもしれません。

 12月18日,水曜日。僕はこの日は川崎に行っていました。移動の最中に1冊の本を読了しました。近藤和敬の『〈内在の哲学〉へ』です。
 読了したと書きましたが,これは最初から最後まで読んだという意味で,すべてを理解したわけではありません。当初からそのようなことは無理と予測していましたし,そういう目的で読んだ本でもないからです。近藤は『主体の論理・概念の倫理』の編集者のひとりで,巻末で鼎談を行っている3人のうちのひとりです。僕は『主体の論理・概念の倫理』に関して読後の考察をこのブログに示しました。ただその考察の中でもよく分かっていなかったことがありましたので,その補足のために『〈内在の哲学〉へ』を読みました。しかし当然ながらこちらにはそちらと無関係な事柄も含まれています。そういう部分に関しては目を通しましたが,よく理解できなかった事柄についてそれ以上調べることはしていません。それは当初の目的外に該当するからです、ですから僕はこの本全体の講評はできません。
 本の体裁は,近藤の論文を集め,それに修正を加えることで1冊の本として,つまり始まりから終りまで一貫性をもたせたものとなっています。したがって方法としていえば河合徳治の『スピノザ哲学論攷』と同じです。ただし1冊の本として成立させるという点でいえば,『スピノザ哲学論攷』ほど成功しているようには僕には思えませんでした。むしろ論文集として出版した方がよかったのではないかと思えるくらいです。「カヴァイエス ドゥルーズ スピノザ」という副題がついていますが,その3人とはおおよそ無関係といえるような論文も含まれています。もっとも,河合の本についていえば,スピノザの哲学だけが対象となっているのに対し,近藤のものは副題よりも広範に渡る内容が含まれているため,僕自身の理解力によって,前者の方が一貫した1冊の本にすることに成功していると感じられるだけかもしれません。
 補足として読んだので,まず近藤の思想の中心を簡単に紹介した後,このブログにとって必要な補足を加えます。そして最後に,近藤のスピノザの哲学に対する理解にひとつだけ疑問を呈します。
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大阪王将杯王将戦&変更の理由

2020-03-14 19:37:21 | 将棋
 5日と6日に大阪市で指された第69期王将戦七番勝負第五局。
 渡辺明王将の先手で相矢倉の脇システムに。後手の広瀬章人八段の方から誘ったような手順にも見えました。難解な中盤戦から終盤戦に。
                                        
 先手が香車を取りつつ2六の銀を1五に進め,後手が歩を受けた局面。この将棋の中では先手が最も勝ちに接近していた局面です。ここから後手が勝負手を繰り出していきました。
 ☗2四歩に☖1三玉と端に逃げたのが第一弾。先手は☗2六銀と引き☖2五歩に☗3五銀☖同金☗同飛と交換。そこで☖2四玉と自ら受けにいくのが第二弾。☗3八飛のときに受けずに☖7五桂と打つのが第三弾で,これで攻め合いも後手は目指せるようになりました。
 先手は☗3五金と上部を押さえて☖1三玉に☗1七桂と援軍を送りました。後手はここで攻め合いを目指して☖8三香。
                                        
 第2図で先手の最善は☗2五桂☖2二王に☗8六香。しかし実戦は王手を決めずに☗8六香と受けました。
 最善とどこが異なるかというと,☖同香☗同歩☖8七歩☗9七王となったとき,☖2二香と受ける手が生じたことです。
                                        
 第3図が先手の最後のチャンス。☗1六香と打てば先手が優位を保てていました。しかし☗2四歩と打ったため,逆転しました。
 広瀬八段が勝って3勝2敗。第六局は昨日と今日でした。

 このような指示が出されたのには理由がありました。ただそれは,妹の貧血の症状が改善に向かっているからではありません。この治療が開始されたのは11月12日で,まだ1ヶ月と少しが経過しただけです。もちろんその間は鉄剤を服用していたのですから,症状がよくなっているのは間違いありません。しかし以前,こども医療センター遺伝科で同じように鉄剤を処方されていたとき,貧血の症状が改善されたので服用が停止されるまでにはもっと長い期間がありました。その当時に服用していた薬剤の名称が不明なので,今回の薬剤と比較するのが適切であるかは分かりませんが,そのときは最初は2錠を服用していたのが中途から1錠になり,その後に服用の中止に至ったのです。今回は1錠だけを服用していたので,それよりずっと短い期間で,症状が劇的に改善されることは,常識的に考えてもあり得ないでしょう。
 ただし,服用の中止,というか今回の場合は適宜の服用への変更ですが,この処置自体に何か問題があるというようには僕は考えていません。そもそも採血は本牧脳神経外科でも行われていて,確かに貧血の症状はあるけれど,心配するほどではないと言われているのですから,僕としては服用しなくても大丈夫だろうと元来から思っていた治療だからです。他面からいえば,もし本牧脳神経外科の採血で貧血の症状が深刻であるという判断が出されれば,そちらから鉄剤が処方されるか,そうでなければ別の病院で治療を受けるように指示が出されるであろうと僕は思っているのです。
 ではなぜ服用を適宜に行うようにとの指示が出されたかといえば,これは妹の痔と関係するのです。妹の痔は肛門内部にできたものが外に露出したもので,それに対しては対症療法で露出を妨げることができたので,この時点ではすでに薬は処方されていませんでした。ですがこの痔は体質的なもので,完治することはありません。一方,鉄剤にはいくつかの副作用があり,そのひとつに便が固くなるというのがあります。固い便が痔に悪いのはいうまでもありません。痔も港南中央病院の肛門科を受診したので,それとの兼ね合いでこのような指示となったのです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&医師の指示

2020-03-13 19:18:59 | 地方競馬
 昨日の第43回名古屋大賞典
 鞭を何発も入れてモズオラクルがハナへ。2番手のフィードバック,3番手のナムラカメタローまでは集団。3馬身差でロードゴラッソが4番手。5番手のビルジキール,6番手のサンデンバロンの3頭が集団。2馬身差でカレドヴルフが7番手。直後をマコトネネキリマルとアセイラントが併走してこの3頭も集団。2馬身差でアングライフェン。3馬身差でエバーゴールド。最後尾にヒーズインラブという隊列。スローペースでした。
 モズオラクルの逃げは2周目の向正面の入口まで。フィードバックとナムラカメタロー,1周目の正面からコーナーにかけて外から追い上げてきたアングライフェンの3頭が横並びとなり,4番手にビルジキールで5番手にロードゴラッソという隊列に変化。3コーナーからのコーナーワークでまたフィードバックが前に出ましたが,3頭は雁行。直線に入るとフィードバックは一杯。ナムラカメタローとアングライフェンの競り合いはアングライフェンが制したものの,2頭の外から末脚を伸ばしたロードゴラッソが差し切って優勝。アングライフェンが1馬身半差で2着。ナムラカメタローが半馬身差で3着。
 優勝したロードゴラッソはシリウスステークス以来の勝利で重賞2勝目。ここは上位3頭の能力が上位。後方からの競馬になったアングライフェンが早めに動き,それを先に行かせてから最後に脚を使うことになったのが勝因でしょう。この3頭は大きな能力の差があるわけではなく,同じレースに出走してくれば,展開次第で勝ったり負けたりという関係になってくるものと思います。ロードゴラッソに関しては,左回りはやや割引かもしれません。父はハーツクライ。Golazoはスペイン語で目標。
                                        
 騎乗した川田将雅騎手は第37回以来6年ぶりの名古屋大賞典2勝目。管理している藤岡健一調教師は名古屋大賞典初勝利。

 12月13日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
 12月14日,土曜日。10日にピアノの先生からの依頼で変更になっていた妹のピアノのレッスンでした。午後2時開始でした。
 12月16日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 12月17日,火曜日。午後3時20分に地域担当支援主任のSさんから電話がありました。これは13日から16日にかけて,妹が帰宅していたときの状況と関連します。
 妹の薬のうち,本牧脳神経外科から処方されている癲癇を抑制するための3種類の薬剤は,僕が薬局で入手します。妹はこの薬を朝食後と夕食後に飲む必要があります。妹は昼食は家にいない場合は通所施設で摂取しますが,朝食と夕食は家にいない場合はグループホームで摂ることになります。よってこの3種類の薬剤はグループホームでも必要な薬剤なので,僕が決まった方法で梱包し,それを妹を送る際に通所施設へ持参します。現在は支援態勢が変更になっていますから,妹を施設で迎えるのは,稀にSさんであることもありますが,大抵は通所施設の職員です。なので僕はその職員に渡し,グループホームに届けてもらうよう依頼するのです。これは支援態勢が変わる以前とほぼ同じです。
 一方,妹が港南中央医院に通院して薬を処方され,それを家でも服用する必要がある場合は,僕が迎えに行ったときに,施設の職員から渡されます。現在は迎えのときは必ず施設の職員が対応するようになっています。そして妹は貧血の治療のために薬剤を処方されていましたから,それ以降は必ずその薬を渡されていました。ところが13日に迎えに行ったときはなかったのです。よって週末は妹は鉄剤を服用していません。発作の抑制薬は服用が必須ですが,鉄剤なら飲まない日があっても大丈夫だろうと僕は思いましたので,その薬剤を入手しようとはしなかったのです。ただ飲まなかったのは事実なので,渡されなかったので飲まなかったということは,連絡帳に記しておきました。Sさんはそれを読んで電話を掛けてきたのです。
 港南中央医院の医師から,毎日は服用せず,様子を見ながら飲ませるようにという指示が出たとのことでした。
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農林水産大臣賞典ダイオライト記念&従妹の様子

2020-03-12 19:10:44 | 地方競馬
 昨晩の第65回ダイオライト記念
 ハクサンルドルフは加速が鈍く2馬身の不利。1周目の向正面ではヤマノファイトが先頭に立ちましたが,コーナーから正面にかけてアナザートゥルースが前に出て,アナザートゥルースの逃げに。2番手にヤマノファイトとタガノゴールド。4番手にサトノアッシュ,トーセンブル,サウンドトゥルーの3頭。7番手にジョーダンキングとハセノパイロ。9番手にウェスタールンドとコウエイワンマン。11番手のフレアリングダイヤまでは差がなく追走。4馬身差でキタノイットウセイ,ジュンスターホース,ハクサンルドルフという隊列に。最初の1000mは65秒8の超スローペース。
 2周目の向正面でサウンドトゥルーが単独の3番手に。ここから4番手以降との差が4馬身くらいに開きました。3コーナーではタガノゴールドが後退してサウンドトゥルーが2番手に。後方から追い上げてきたウェスタールンドが3番手に。直線に入るとアナザートゥルースがサウンドトゥルーを振り切って抜け出しました。ウェスタールンドが外から2番手に上がり,徐々に差は詰めましたがとても届くという感じではなく,逃げ切ったアナザートゥルースが優勝。2馬身差の2着にウェスタールンド。4馬身差の3着にサウンドトゥルー。
 優勝したアナザートゥルースは昨年のアンタレスステークス以来の勝利で重賞2勝目。ここはウェスタールンドとサウンドトゥルーが能力では上位でしたが,2頭とも控えて末脚を生かすのが持ち味なので,もっと前の位置につけて安定した成績を残しているこの馬にも展開次第でチャンスはあるだろうと思っていました。逃げたのは意外でしたが,このメンバー構成ならそれが最善の策だったということでしょう。超スローペースに乗じたところがあり,これまでと比較して格段の強さを発揮したというわけではありませんから,これを機会に連戦連勝というわけにはいかないのだろうと思います。母の父はフジキセキ。4つ上の半兄に2016年のJRA賞で最優秀ダートホースに選出され,このレースでは3着だったサウンドトゥルー。2つ上の半兄に一昨年の佐賀記念を勝っている現役のルールソヴァール
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している高木登調教師はダイオライト記念初制覇。

 そういう前提であったというのは,従妹が僕に話した内容がそうであったという意味です。ただ,従妹がどういう意図でそのような前提をしたかということは,僕の知り得るところではありません。
 実際には従妹は,自分の余命が少ないということを知っていて,しかし僕には過大な心配を掛けないためにそのように話したのかもしれません。そしてもしそうであったとしたなら,従妹は死ぬ前に僕と話をしておきたいと思い,急に僕に電話を掛けてきたのだと理解しておくのが適切であるように,今の僕は思います。しかし一方で実際には従妹は,僕に話した前提を真実だと思っていた可能性もあります。この場合,その後の状況から考えると,従妹は自分の脳腫瘍の状況については,真実を知らされていなかった可能性の方が高いように僕には思えます。するとなぜ僕に電話を掛けてきたのかということには疑問の余地が残りますが,真実を知らされてはいなくても,自分の身体のことですから,それがどの程度まで悪化してきているのかということはある程度まで把握することはできるでしょうから,やはり僕とも話だけでもしたいと思って電話をしてきたという可能性は排除することはできません。
 僕が確たることとしていえるのは,次のことです。
 このとき従妹は自分の家から電話を掛けてきました。いい換えればこのときには従妹は入院しなければならないほどには体力的に衰えてはいなかったことになります。そして従妹と僕との会話は,何ら不自然なところは一切なく,そのすべてが成立していました。つまりこのとき,これは正確にはこの小一時間はといわなければならないでしょうが,従妹の意識は少しでも不明瞭になってはいませんでした。そして僕は電話を受けたとき,しばらくは会っていなかったのですが,その声だけでそれが従妹であるということを理解することができました。つまりこのときは,僕が知っている元気なころの従妹と,声色は同じだったということです。
 この電話の後,午後7時20分にピアノの先生からも電話がありました。これは15日に予定されているピアノのレッスンを14日に変更したいという依頼で,承諾しました。
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マイナビ女子オープン&脳腫瘍

2020-03-11 19:18:44 | 将棋
 6日に指された第13期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は清水市代女流六段が2勝,加藤桃子女流三段が7勝。
 振駒で清水六段の先手。先手だけが飛車先を交換する相掛かり風の将棋で,先後ともに浮飛車というあまり見ない将棋。さらに先手が攻めに趣向を凝らしたので力戦模様となりました。
                                        
 先手が9七に上がった角を7五に上がり,後手の飛車が8四から寄ったので先手が歩を突いて受けた局面。1六に銀を出たのが先手の趣向。ただこのままでは働きませんから,それが働くかどうかが勝負の鍵。
 後手はその銀の働きが鈍いうちに☖5六歩と仕掛けていきました。これがいい着想で,勝利を引き寄せたのではないかと思います。
 香車取りになっていますので☗7七桂はこの一手。後手は☖5七歩成と取り先手は☗同角と応じました。これは意外な一手に思えます。後手は☖5四飛と回りこれには☗5六歩の一手。後手は☖5三銀左と援軍を送りました。
 ここで先手は☗6九王と引きましたが,この手が必要であるならもう苦戦だったように思います。後手は☖1六歩☗2七銀と引かせて☖4四銀と上がりました。
                                        
 第2図となっては先手は主張できそうなところがありません。1六に銀が上がることの正否は分かりませんが,第1図まで組んでしまうとすでに先手は作戦負けなのでしょう。この趣向を用いるならそれ以前に工夫が必要になります。
 加藤三段が勝って挑戦者に。タイトルを失った第11期以来2期ぶりの五番勝負出場。第一局は来月7日です。

 幼馴染という語がありますが,僕と従妹の関係は,親類というよりは幼馴染に近いかもしれません。確かに僕の感覚からしても,従妹というよりは,ある時期を境に急に疎遠になってしまった幼馴染といいう方が近いのです。なので僕の記憶の中の従妹は,小学生とか中学生です。もちろん近場に住んでいたわけではありませんから,一般に幼馴染という語でイメージされるほど頻繁に顔を合わせていたわけではありません。一方,親類ですから,一般に幼馴染といわれる関係ではあり得ないであろう濃密な関係ももっています。とはいえ,従妹というよりは幼馴染としてイメージしてもらった方が,僕と従妹の関係は正しく把握できるだろうと思います。
 なぜ従妹が急に電話を掛けてきたのかということは,今になってみれば理解することができます。しかしこのときは突然の電話でとても驚きましたし,このときに話した内容からしても,その電話の直後には僕はそれを理解することはできませんでした。
 小一時間ほど話をしましたので,様ざまな内容がありました。それらをすべてここに記すことは無意味ですから避けます。最も重要だったのは次の点です。
 従妹は,脳腫瘍ができたため,2回の開頭手術を行いました。そして現時点,というのはこの電話があった時点のことですが,月に1度,放射線治療のために通院しているということでした。この放射線治療というのは抗癌剤治療のことで,母が1度は試したものの,副作用が辛すぎて断念した治療法です。従妹の場合は脳腫瘍で,母の場合は大腸癌に起因する肝臓癌でしたから,部位は異なります。ただ従妹もまたこの治療の辛さを訴えていましたので,僕の方からも母の事情を話しました。従妹は僕の母が死んだことは知っていましたが詳しい経緯は知りませんでしたから,僕は母が抗癌剤治療を断念した後のこと,とくに最後は緩和病棟に入院して死を迎えたことなども話しました。
 ただし,これは僕が従妹に対してそのようにすることを勧めたというわけではありません。そもそも従妹は脳腫瘍が他の部位に転移したわけではないし,現在の腫瘍を排除できればまだ生きられるという前提だったからです。
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農林水産大臣賞典黒船賞&従妹

2020-03-10 19:13:29 | 地方競馬
 第22回黒船賞
 デュープロセスは発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利。すぐにラプタスが先手を奪い,2番手にはサクセスエナジー。3馬身ほど開いて巻き返してきたデュープロセスが3番手で4番手にサクラレグナムで1周目の正面を通過。2馬身差でワンダーリーデル,スペルマロン,オオオヤブンの順で続き,4馬身差でウォーターマーズ,アースグロウ,テーオージーニアスの3頭。2馬身差でイルティモーネ。ナラは大きく取り残されました。ハイペース。
 3コーナーを回るとラプタスがサクセスエナジーとの差を広げにかかりました。サクセスエナジーも何とか追い掛けていき,内にサクラレグナムで外からデュープロセス。ラプタスはここで広げたリードをそのまま保ち,鮮やかに逃げ切って優勝。内のサクラレグナムと外のサクセスエナジーで競り合っているところ,向正面から追い上げを開始し,最後まで外を伸びたテーオージーニアスがまとめて差して3馬身差の2着。サクセスエナジーが半馬身差の3着でサクラレグナムは1馬身差で4着。
 優勝したラプタスは重賞初挑戦で初制覇。4戦目で初めてダート戦に挑むと初勝利を挙げ,そこからとんとん拍子に1勝クラス,2勝クラス,3勝クラスと勝ち続けてオープン入り。前走のオープンでは8着に敗れましたが,これはスタートでミスがあった後に先手を奪ったためで,はっきりとした敗因がありました。ここはデュープロセスも逃げたい馬なので,先行争いになるとどうかと思っていたのですが,デュープロセスの発馬が悪かったために労せず先手を奪えました。これが勝因でしょう。したがって楽に先手を奪えないというケースでは大敗もあり得る馬と判断しておくのがよいかと思います。父は2011年の東京スポーツ杯2歳ステークスと2012年の日本ダービーを勝ったディープブリランテでその父はディープインパクト。5代母がバウンドトゥダンスとファーストアクトの祖母にあたる同一牝系。Raptusは衝動。
 騎乗した幸英明騎手は第9回以来14年ぶりの黒船賞2勝目。回数と年数の差が合っていないのは2008年は実施されていないからです。管理している松永昌博調教師は黒船賞初勝利。

 12月10日,火曜日。福江島に住む叔父,母の弟の娘,僕からみると従妹から電話がありました。午後6時ごろです。
 僕がこの従妹と最後に会ったのは,祖母の法事のとき,おそらく一周忌のときだったのではないかと思います。2012年の12月ですから,この電話の時点でいえば7年前になります。それ以降は会っていないどころか,連絡を取ることもありませんでした。僕の従妹にはなるのですが,叔父は離婚していて,この従妹と叔父の関係はさほど良好とはいえませんでしたので,僕とも次第に疎遠になっていったのです。なのでの入院中も従妹は見舞いに来ませんでしたし,母の通夜や葬儀にも来ませんでした。
 叔父は離婚する前は大和に祖母も同居して住んでいました。これは僕の母の実家になります。ですから子どもの頃は僕も母に連れられてよく行っていました。横浜から大和ですから帰省という感覚は稀薄ですが,近い分だけ頻度は高かったのです。従妹は僕より2つ下でしたから,小さい頃は一緒に遊んだことも多々ありました。つまり会った回数だけでいうなら,小学生くらいまでが圧倒的に多いので,僕の印象としてもその頃のことが最も残っています。
 それからもうひとつ,これは大人になってからですが,偶然に会ったということもあり,これはエピソードとしては僕の記憶に残っています。といっても,長野でオリンピックをやっていた頃のことですから,もう20年以上前のことではあります。僕はその当時,大和市内のある倉庫で勤務していました。最寄りの駅は小田急江ノ島線の鶴間駅です。その頃,鶴間駅の近くにコンビニエンスストアがありました。これは僕の勤務地に行くのには反対側の出口になるので,僕は滅多に利用することはありません。ところがあるとき,理由は忘れてしまいましたが,なぜかその店舗を利用する機会があったのです。このときにレジを打っていたのが従妹でした。僕は最初は気付かなかった,というか思いもよらなかったのですが,従妹の方から声を掛けてくれたので,僕も気付きました。これは僕の人生の中でもかなり印象的なエピソードです。
 とはいえこのときは急な電話で,驚きました。
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書簡四&面会

2020-03-09 19:25:09 | 哲学
 書簡三に対するスピノザの返信が書簡四です。この書簡にも日付は明記されていませんが,書簡三が1661年9月27日付で,書簡四を受けたオルデンブルクHeinrich Ordenburgからの書簡五は1661年10月21日付となっていますから,1661年10月中に書かれたものと推定することができます。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                                        
 内容の大部分は書簡三の質問に対する解答です。第一の質問に対しては,一般にものの定義Definitioが与えられれば,そのものの存在existentiaがそこから帰結するわけではないというのが解答になっています。もしあるものの定義からそのものの存在が帰結するなら,そうしたものは自己原因causa suiといわれます。よって自己原因ではないようなものの定義からは,定義されたものの存在が帰結するわけではありません。一方,神Deusは自己原因なので,神の定義からは神の存在が帰結するのです。質問する段階でオルデンブルクがこれらのことを理解できていなかったということです。
 第二の質問に対しては,延長Extensioは延長である限りにおいては思惟Cogitatioではなく,思惟は思惟である限りにおいては延長ではないということさえ認めれば十分だという主旨の解答になっています。もしこのことさえ認めれば,もしも延長が思惟によって限定されたり,思惟が延長によって限定されたりすることがあったとしても,延長は絶対に無限absolute infinitumではないけれども自己の類において無限であり,思惟もまた同様であるということが帰結することになるからです。
 第三の質問に関しては,第一部定義三第一部定義五に着目することを要求しています。この定義さえ受け入れれば,第一部定理一,第一部公理一,第一部定理二,第一部定理三はいずれも明白だとスピノザはいっています。書簡三でオルデンブルクが公理Axiomaというとき,それが具体的に何を指しているのかは明白ではない部分もあるのですが,スピノザの解答の方から,その具体的内容を知ることができます。

 長崎に行くのは叔父と会うためです。叔父は五島列島の福江島に住んでいるのですが,Kさんが福江島まで行くのは大変なので,叔父に長崎まで来てもらい,そこで会うとのことでした。そのための飛行機の時間が迫っていましたので,Kさんはそれほど長くは僕の家にいることはできませんでした。来るときは僕の家の最寄りのバス停まで来てもらったのですが,僕の家から根岸駅は歩いて行かれる距離です。なので帰りは僕が根岸駅まで送りました。
 12月6日,金曜日。O眼科で網膜症の検査をしてきました。正常でした。
 12月7日,土曜日。妹の土曜レクリエーションでした。なのでこの週は妹は週末をグループホームで過ごしました。
 12月9日,月曜日。お寺の奥さんが来訪しました。
 来訪したのは午後1時15分で,面会したのは30分くらいです。会話の中心となったのは3点です。ひとつは2019年分のお寺に関係する収支の報告です。僕はお寺の檀家として必要となる経費を,事前に奥さんに払ってあります。これはK伯母が死んだ後は,母がしていたことで,僕はその方法を引き継いだだけです。ですから2019年にどれほどの経費が必要とされ,実際に使われたのかということが報告されたのです。もうひとつは,2020年分の経費の支払いです。これは事前には言われていなかったのですが,奥さんが来るということは分かっていましたので,僕の方で用意しておいたものです。
 最後が父と祖母と祖父の遺骨をお寺の中の会堂に移すのに必要な手続きに関係することです。3通の埋葬証明書が石材店から出されるかどうかはこの時点でも未確定でしたが,お寺からの受入証明書はこの時点でも出すことができるという主旨の説明を受けました。なのでもし可能ならそれは先に出してもらって構わないということを伝えました。ただし日野公園墓地の墓の名義人は父のきょうだいの長男でしたので,もし出すことができるのであれば,それはそちらの方に送付するように伝えました。これは後に分かったことですが,受入証明書はこの面会の直後に,伯父に送られていたようです。ただ僕がその事実を知ったのは,年が明けてからでした。
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瀬戸の王子杯争奪戦&遠縁

2020-03-08 19:12:36 | 競輪
 玉野記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,郡司‐柿沢の東日本,畑段‐東口の近畿,清水‐岩津の中国で吉田は単騎。
 佐藤と東口がスタートを取りに行き,内の佐藤が譲る形で東口が誘導の後ろに。前受けは畑段となって3番手に新山。5番手に清水,7番手に吉田,8番手に郡司で周回。残り3周のバックを出ると郡司が上昇を開始。柿沢の後ろに吉田がスイッチし,その吉田を清水が追走して残り2周のホームでは2列に。残り2周となったところで郡司が畑段を叩いて誘導は退避。コーナーでは清水が上昇していき,バックに入ったところで郡司を叩いて前に。さらに外から新山が上昇。清水を叩いて打鐘。吉田は佐藤の後ろを追走しようとしましたがこれを清水が阻止。3番手に清水,5番手に郡司という隊列になりました。ホームから畑段が発進。しかしこれもホームからコーナーにかけて清水が阻止しました。清水はバックから発進していきましたが今度は佐藤に牽制されて失速。郡司は清水の外から捲り追い込む形。直線は逃げる新山,マークの佐藤,捲り追い込んだ郡司と,清水マークから新山と佐藤の間を割りにいった岩津の4選手の争い。優勝争いは写真判定となり,最内の新山と大外の郡司で同着。外からふたり目の佐藤が8分の1車輪差の3着で内からふたり目の岩津は半車輪差の4着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は昨年9月の共同通信社杯以来の優勝。記念競輪はその直前の小田原記念以来となる7勝目。玉野記念は初優勝。青森の新山響平選手は昨年9月の青森記念以来の優勝で記念競輪4勝目。玉野記念は初優勝。このレースは力量では清水と郡司。清水の方がよい位置を取ることができたのですが,吉田をブロック,さらに畑段もブロックと,レース中に力を使わなければならない場面が多く,その結果として佐藤の牽制によってすぐに失速してしまったのではないかと思います。これだと展開有利は佐藤でしたが,新山を差すには至らず。逆に新山にとってはこのメンバーで打鐘から先行して,同着とはいえ優勝できたのは自信になるのではないでしょうか。郡司も清水のさらに外からの捲りでしたから普通は苦しいパターンで,力はみせたと思います。

 線香を立ててもらった後,自宅でKさんと話をしました。それで,Kさんと祖母の関係がどういったものかが分かりました。ただ,想像できないくらい複雑なものでした。
 祖母の父には何人かの妾がいました。このために祖母には親戚筋が増えることになったのです。
 祖母が育ったのを本家であるというなら,妾の家系はその分家ということになります。その分家のひとつにK家がありました。僕は祖母に何人の兄弟姉妹がいたのかということは知らないのですが,本家とは別に,分家には異母兄弟姉妹が何人か存在したことになります。しかしKさんとの関係が現在まで続いていることからも分かるように,異母兄弟姉妹は知り合いだったことになります。つまり本家と分家の間には交流があったということでしょう。それはつまり,本妻と妾の間に交流があったということを意味する筈で,僕にはちょっと考えられないのですが,時代背景的にはそれが普通だったのかもしれません。
 ややこしいのは,Kさん本人の出自はK家にはないということです。Kさんは小学校1年生の時に,K家に養子として入りました。それは本家と何の関係もない家系から入ったのかもしれませんし,本家からあるいはK家とは別の分家から入ったのかもしれません。ですから祖母とKさんの間には,血縁関係はあるかもしれないしないかもしれないのです。それはつまり,僕とKさんは親戚筋にあたるのは確かだけれど,はっきりとした血縁関係があるかないかは分からないということです。
 年齢から考えると,Kさんは祖母の甥,祖母の父の子の子にあたる筈です。よって僕のからみたとき,Kさんは従弟ということになります。血縁関係が複雑な上に,養子なので,僕たちが一般的に従弟とみなす関係とは大幅に異なりますが,従弟にあたるということはここまでのことから間違いありません。よってKさんは僕からみると,母の従弟ということになります。僕は父親の従兄弟姉妹,つまりの両親の兄弟姉妹の子どもというのはひとりとして知りません。ですから僕の親戚筋としては,Kさんはかなり遠縁にあたることになります。
 Kさんはこの後,長崎に行くとのことでした。
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オーストラリアンカップ&Kさん

2020-03-07 19:25:17 | 海外競馬
 オーストラリアのフレミントン競馬場で行われたオーストラリアンカップGⅠ芝2000m。
 スズカデヴィアスは発馬後に下げるような形で後方3番手の内という位置での前半。ほかの馬が上がっていったので3コーナーを回るあたりでは最後尾になりました。ただ馬群は一団でこのあたりでも先頭からは概ね7馬身くらい。直線の手前から入口にかけて徐々に外に持ち出していき,最後は大外から。それなりには伸びましたが,勝負になるというところまではいかれず,勝ち馬から約6馬身4分の1ほどの差で9着でした。
 GⅠになるとやはり現状のこの馬にはレベルが高く,好勝負をするというのは難しいようです。今日は最後の脚に賭けて可能な限り上位を目指すという競馬を選択したものと思われ,現状はこういったレベルでのレースだとこうした作戦を選択せざるを得ない面があると思います。

 グループホームの利用者は,通所施設での作業が終了すればグループホームへと戻ります。なのでその場合はグループホームの利用者は通所施設での帰りの会には参加しません。つまり妹が帰りの会に参加することができるのは,僕が妹を通所施設に迎えに行く日に限られることになります。そしてその場合には,この帰りの会の司会を妹が務めるのです。妹はこういう場で前に立って話をすることを好むタイプなので,おそらく司会をすることは楽しみのひとつになっているものと思います。
 12月2日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 12月4日,水曜日。僕の家では秋田の農家から米を買っていますが,その農家の方が僕の家を訪ねてきました。僕はこの方とはお米を送ってもらう際に何度も電話で話していますが,会ったことはありませんでした。祖母,母の母の親類の関係であるということは知っていましたが,祖母の出自自体が僕にはよくわからない部分が多すぎ,単に親類というだけで,どのような縁者であるのかということはこの日に話してみるまで知りませんでした。ここではこの方をKさんということにします。母の友人だったKさんとは別の方ですので,長期にわたる読者の方は留意してください。
 Kさんに会う前に僕が知っていたのは,今年で還暦になった男の人であるということくらいです。電話でのやり取りはよくしていますから,僕の家の最寄りのバス停まで来てもらうようにお願いしておきました。連絡がありましたので午後1時40分に僕がそのバス停まで迎えに行きました。会ったことはない人でしたが,お互いにすぐに分かりました。Kさんは僕とは初対面ですが,僕の両親は秋田に行ったことがあり,会ったことがあります。Kさんは僕が僕のと似ていたのですぐに分かったと言っていました。
 Kさんの目的は本来は母の墓前に線香を立てることでした。なので本当はお寺の会堂に行くのがよかったのですが,お寺は交通の便が高いとはいえず,近くでゆっくり話せるような場所もありません。なので僕の方から,僕の家に来て,仏壇に線香を立てるようにしてほしいとお願いし,家の方に来てもらうことになっていたのです。
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天龍の雑感③&2019年11月の通院

2020-03-06 19:24:19 | NOAH
 天龍の雑感②で書いたように,ジャンボ・鶴田と最初に組んだ試合のことは天龍源一郎はよく覚えていないそうです。むしろこのアトランタでの試合の後,アマリロに戻った後のエピソードの方が強く記憶に残っているようです。
 天龍はアマリロのアパートに住んでいました。そこに鶴田と,東京スポーツで記者で全日本プロレス中継の解説も務めていた山田隆が訪ねてきて,素麺を湯がいて御馳走したそうです。アメリカで素麺を入手するのは簡単ではないと思われますが,韓国食品を売っている店があり,そこで買っていたそうです。アパートといってもここはかなり広く,日々の練習はここで行っていたそうです。また,このときに天龍と鶴田はふたりでプレスリーのコンサートに行ったそうです。これはもともと天龍がいきたいと思っていて,それを口にしていたら鶴田が同調してきて,ドリーがチケットを取ってくれたのでふたりで行ったのだそうです。初期の鶴田と天龍はこのくらい仲がよかったということの例として代表的なものといっていいかもしれません。
 鶴田は天龍より前に,同じアマリロで修業していました。鶴田は成長が早く,すぐに上達していきました。天龍もそのように期待されていた面があって,比較されるのはプレッシャーだったといっています。つまり天龍はデビュー前の時点で,周囲から比較されることによって,プロレスラーとしては鶴田に対してコンプレックスを抱く要素があったことがあります。実際に天龍は,自分がプロレスに馴染んでくればくるほど,鶴田はとてつもない壁になっていったという主旨のことをいっています。後の天龍の鶴田に対する敵対心の萌芽はすでにこの頃にあったといえるのかもしれません。

 11月15日,金曜日。妹の歯科検診でした。このためにこの週は木曜日に妹を迎えに行ったのでした。歯はよく磨けていたとのことで,クリーニングの時間もいつもより短かったです。
 11月18日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 11月22日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
 11月25日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。午後から内分泌科の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時10分でした。中央検査室には待機している患者がなく,すぐに採血をしてから採尿をしました。この日は使用済みの注射針は持参していませんでした。
 診察が開始になったのは午後3時10分でした。前回の通院から今回の通院の間は,血糖値の変動の幅が大きくなりました。これは季節的に気温が下がる日も出てくるようになった影響です。寒い日には血糖値はあまり下がらないのですが,暖かい日には低血糖の症状を発生することもありました。何度かいっているように,短期的にみた場合には低血糖の方が危険で,こちらを抑制する必要があります。そのためには注射するインスリンの量を減少させるのが効果的です。ただ,時期的にいえばこれからはもっと寒くなっていくでしょう。したがって低血糖を発症するリスクは,現状のままでも自然と減少していく筈です。なのでこの日は注射量の変更はせず,様子を見ていくことになりました。なお,HbA1cは7.3%で,10月よりも上昇していました。これは血糖値があまり下がらない日が出ていたのですから当然でしょう。これ以外には何も異常が出ていませんでした。これは9月以来です。
 帰途に寄った薬局には,インスリンも注射針も在庫がありました。診察の開始が予約の午後3時の10分後であったように,この日は時間の面ではかなり順調で,午後4時15分に帰宅することができました。通院の日の帰宅時刻としてはこれはかなり早いです。
 11月29日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。迎えは午後3時ですが,妹が出てくるのはもう少し遅くなります。これは帰宅する日は帰りの会にも参加するからです。妹はその場合は司会を務めているのだそうです。
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農林水産大臣賞典エンプレス杯&屋根の工事

2020-03-05 19:08:17 | 地方競馬
 キヨフジ記念の第66回エンプレス杯
 レース前から予想できた通り,先行争いは激化。発走後の向正面ではクレイジーアクセル,サルサディオーネ,シークレットアリアの順で3頭が抜け出し,4馬身差でプリンシアコメータとラインカリーナ。3馬身差でトーセンガーネット。2馬身差でアッキーとピアノイッチョウ。1馬身差でナムラメルシー。1馬身差でサンルイビルとアンデスクイーン。2馬身差でパッシングスルー。4馬身差の最後尾にグレートコマンダーというとても縦に長い隊列。1周目の正面に入ってラインカリーナが3番手に上がり,4番手にプリンシアコメータ,5番手にシークレットアリアの順に先行勢の順位は変化。2周目の向正面に入ると2番手と3番手の差がまた3馬身くらいに開き,4番手のプリンシアコメータと5番手以下の差は6馬身以上になりました。滅多にないくらいの超ハイペース。
 3コーナーで前の4頭が一団に。クレイジーアクセルとサルサディオーネが脱落し,ラインカリーナが先頭でプリンシアコメータが2番手に。後方から追い上げてきたアンデスクイーンが3番手でそれをマークして上がってきたパッシングスルーが4番手に。直線に入るところでプリンシアコメータが単独の先頭に。しかしここで一杯になり,直後まで接近していたアンデスクイーンが抜け出しました。アンデスクイーン自身も疲れてはいましたが,このタイミングがベストで,形の上では抜け出したまま優勝。直線の入口では7番手だったナムラメルシーが大外から伸びて1馬身半差の2着。勝ち馬マークのパッシングスルーは最後まで追いつくことができず2馬身差で3着。一杯になったプリンシアコメータは1馬身半差で4着。
 優勝したアンデスクイーンレディスプレリュード以来の勝利で重賞3勝目。このレースは勝てそうな馬が6頭いて,それぞれに一長一短。この馬の場合はここまでの6勝すべてが右回りで,急なコーナーを何度も回る左回りへの対応が不安でした。1周目の正面では後方にいた3頭が上位にきているように,このレースは稀にみるハイペースの影響が最も結果に大きく左右したといえるでしょうが,この馬自身についていえば,左回りで勝ったということには大きな価値を見出していいように思います。母の父はキングカメハメハ。7代母がレディチャッター。祖母の9つ上の半姉は1998年に福島記念を勝ったオーバーザウォール,ふたつ上の半兄は2006年に福島記念,2007年に七夕賞を勝ったサンバレンティン,ひとつ上の半兄は2005年に京都新聞杯,2007年に朝日チャレンジカップと京都大賞典を勝ったインティライミ
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している西園正都調教師はエンプレス杯初勝利。

 11月6日,水曜日。屋根の改修を実施しました。始まったのが午前11時50分で,午後3時半に終了しました。工事の名称は,大屋根貫板交換と平ロック工事というものです。貫板は腐食に強い素材を用いてもらいました。これは値が張るものですが,前述したように僕は,妹の健康次第ということにはなりますが,今のに関しては可能な限り補修をして住み続けるという意向がありますので,なるべく長持ちするものをとこちらから依頼しました。工事代金は消費税込みで39万2千円でした。見積書には概要がありますが,新しいものを加工する費用が最も高額で,次は古いものを撤去する費用となっていました。
 11月8日,金曜日。6日に屋根の工事をしたために事前の予約を変更した虫歯治療のためにI歯科に行きました。先週は右上でしたので,この日は左上です。左上には2本の虫歯があったのですが,この日のうちに2本とも治療してくれました。治療の内容は先週と同じです。ただしレントゲン撮影は事前にしてありましたから,この日はしていません。2本とも治療したので,この治療はこれで終了となりました。
 11月9日,土曜日。妹の土曜レクリエーションでした。ですからいつものようにこの週は妹はグループホームで週末を過ごし,僕は迎えにはいっていません。この日はデンマークチーズケーキなるものを作って食べたそうです。チーズケーキには違いないのでしょうが,具体的にどのようなものであったのかということは僕には定かではありません。
 11月14日,木曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。この日は妹の特別乗車券を持参するのを忘れてしまいました。なので妹は現金を支払ってバスに乗りました。妹は12日に地域担当支援主任のSさんに連れられて港南中央医院を受診したとのことで,その日から貧血の治療が開始されたとのことでした。このために鉄剤が処方されていて,家で服用される分を渡されました。薬剤の名称はフェロ・グラデュメット錠10で,5㎎。名称から分かるように錠剤です。これを1日1回,夕食後に1錠飲むというのが具体的な治療内容になります。処方されていたのは2週間分でした。
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女流王位戦&家の維持

2020-03-04 19:12:13 | 将棋
 2日に指された第31期女流王位戦挑戦者決定戦。公式戦の対戦成績は伊藤沙恵女流三段が4勝,加藤桃子女流三段が8勝。持将棋が1局。これはNHK杯の女流予選の2局を含みます。
 振駒で加藤三段が先手となり伊藤三段のうそ矢倉。先手が強襲をかける将棋でした。
                                        
 後手が歩を突いた局面。角を引いて4四に銀を上がるというのが相場の展開。ですが事前に2四に歩を垂らしておいたのが先手の狙いで,いきなり☗9一角成☖同飛☗2三香と打っていきました。
 ここは☖9二飛か☖2一歩の二者択一。実戦は☖2一歩でしたが,☖9二飛も有力な変化でした。
 先手は☗2二香成☖同歩として☗5二銀の角金両取り。ここで☖9二飛と指したのは角を見捨てる驚くべき手。最善は☖4二王で,それなら受けきることができたようです。先手はもちろん☗5一銀成。この時点で先手の銀得という変化になり,強襲は成功したといえそうです。ここから☖7三角☗5二角と進みました。
                                        
 ここで☖2五香と打ったのが敗着に。☗4一成銀☖2一王☗4三角成☖同金となったときに,☗4五桂と跳ねる手が成立しました。この局面で飛車を取れないと香車を打った意味がありませんが,取ると簡単に負けなので☖4四銀☗3三桂成☖同金と進展。桂馬を排除することができたので☗2五飛で飛車が生還しました。
                                        
 7三に角を打ったのは,桂馬の動きを牽制する意味だったのかもしれませんが,実際はそのためには役立ってなく,第2図は☖5一角と成銀を取るほかありませんでした。
 加藤三段が挑戦者に。女流王位戦は女流棋士だけが参加できる棋戦なので,長く奨励会にいた加藤三段は初の五番勝負進出。第一局は来月3日です。

 ひとり暮らしの人間にとって,大きな,というかひとりにとって大き過ぎる家に住み続けることは楽なことではありません。単純にいっても家の維持費というのは大きさに比例するでしょうから,分相応といえない家に住むことは,経済的な面からいっても好ましいことではありません。このことは母も生前から心配していたようです。母は癌が発覚してから日々の出来事や思いをノートに綴っていましたが,その中に,家は土地と共に売却し,僕は賃貸アパートに住んだ方がいいのではないかという主旨のことが書かれていました。僕自身,その方がよいことは理解していますし,ゆくゆくはそのようにする心積もりもできています。
 ただ,この家というのは,妹が産まれまた育った家なのであって,グループホームから帰って来る家でもあります。ですから僕は,可能な限りはこの家に住み続けようとも思っています。何か重大な欠陥が発生し,全面的な改修が必要になったというような場合は,僕はもうそのようなことをする気はありません。ですが今回の屋根の場合のような部分的改修ですむような場合には,可能な範囲内でそのような補修を施し,今のこの家に住み続けようと思っています。妹がどれほど生きるのかということは僕にも分かりません。もし僕の方が先に死ぬようなことがあれば,僕は生涯をこの家で暮らし続ける可能性が大いにあるでしょう。ですがもし,妹の方が先に死ぬというようなことが起これば,もちろんそのときの状況,たとえば僕の健康状態なども影響しますが,すぐに売って住居を変えるということも僕は視野に入れています。
 11月3日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。午後4時半の開始でした。
 11月5日,火曜日。4日は文化の日の振り替え休日でした。なのでこの日に妹を通所施設に送りました。
 翌日は虫歯の治療のための予約をI歯科に入れていました。ですが屋根の補修工事ができる日が,業者と僕の都合を合わせると翌日しかありませんでした。僕はこの日は午後から高島町に行っていましたが,その帰りにI歯科に寄り,予約の日を変更しました。郵送を依頼しておいた妹の薬はこの日に配達されました。
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棋王戦&家

2020-03-03 19:02:59 | 将棋
 1日に新潟市で指された第45期棋王戦五番勝負第三局。
 渡辺明棋王の先手で相矢倉。後手の本田奎五段が本格的な戦いが生じる前の段階で誤ってしまう将棋でした。
                                        
 先手が2筋の歩を交換して飛車を引き上げた局面。ここで☖6五歩と突いたのですが,これがミス。先手から☗6六歩と突いてもらえれば争点になり得る地点なので,たとえば☖8五歩と無難な手を指しておいて待つのがよかったようです。
 先手は☗6八銀と引いて角筋を通しました。これは手損になるので,もしかしたら後手は軽視していたのかもしれません。後手は☖8一飛と引いて備え,先手は☗7九王と玉を固くしました。
 ここで☖5一玉と引いたのがさらなるミス。ここでも☖8五歩が優ったようです。先手は☗4五銀と出て後手は☖3三銀と引きました。
                                        
 わざわざ矢倉の銀を進出させておいたのですから,ぶつけられて戻っているのでははっきりと作戦負けです。後手の☖5一玉は☖6二玉とセットの手ですが,実戦はその手が回らず,先手の攻めが面白いように決まる一方的な展開となりました。
 渡辺棋王が勝って2勝1敗、第四局は17日です。

 本牧脳神経外科へ通院した場合は処方箋が出ますから,帰りに薬局に寄って妹の薬を処方してもらいます。この日は薬の在庫が不足していました。郵送してくれるとのことでしたので,在庫があった分だけは持ち帰り,残りは郵送を依頼しました。帰宅したのは午後4時半でした.午後6時にピアノの先生から電話がありました。日曜のピアノのレッスンの開始時刻に関してでした。
 11月2日,土曜日。29日に降雨のためできなかった屋根の点検をしてもらいました。釘が抜けていたり緩んでいたりする部分があるということでした。そのために微かながらも音がするようになっていたのだと思います。内部に雨が滲みこんでしまう可能性があるということでしたので,釘を打ち直すだけでなく,屋根の素材も含めた大幅な補修を依頼しました。もちろんこれはこの日に改修したというのではなく,日取りを決めたということです。
 僕の家は僕が2歳か3歳の時に建て直したものです。そのときは僕と僕の両親,そして僕の父の母の4人で暮らしていました。その後に妹が産まれて5人になり,僕が11歳か12歳の時に,2階の空間に二部屋を増築しました。それから約10年は同じ状態での暮らしが続き,祖母が死んで4人になりました。この4人の暮らしも長く続きましたが,今度は母の母が同居することになりました。近所にアパートを借りてはいましたが,実質的な生活は家の方で送っていましたから,また5人になったわけです。そして2010年の8月に父が死に,4人となりました。さらにその直後に,母が小脳出血で倒れたことも関係して,祖母は特別養護老人ホームに入所しました。よってここからは3人です。2017年8月に母の癌が発覚し,余命が長くないということが分かったので,妹はその年の暮れからグループホームに入所。週末などは帰りますが,基本的には僕と母のふたり暮らしとなりました。そして2018年8月に母が死に,現在は僕がひとりで暮らすようになっています。
 これでみれば分かるように,多いときには5人で暮らしていた家に,今は僕がひとりで住んでいます。ですから僕がひとりで住むには本当は大き過ぎるのです。
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春日賞争覇戦&虫歯の治療

2020-03-02 19:25:59 | 競輪
 昨日の奈良記念の決勝。並びは平原に松谷‐伊勢崎-萩原の南関東,三谷-坂口の近畿中部,宮本-小倉-湊の中国四国。
 平原がスタートを取って前受け。5番手に三谷,7番手に宮本で周回。残り3周のホームから宮本が動いていくと,後ろを見やっていた三谷も上昇。バックの入口で三谷が平原を叩くと,さらにその外から宮本が叩き,残り2周のホームは先頭に宮本,4番手に三谷,6番手に平原の一列棒状で通過。バックに入ると平原が外を上昇。追い出しを掛けたのかと思いきや,打鐘で内に斬れ込んでいき,宮本をコーナーで掬って残り1周のホームから先行。トリッキーな動きだったため,松谷はマークしましたが伊勢崎以下が離れ,3番手を内の三谷と外の宮本で取り合う形に。この競り合いは宮本が制し,3番手に宮本,4番手に三谷。以下は小倉-坂口-伊勢崎という隊列でバックへ。最終コーナーから宮本が外から発進し,三谷はさらにその外へ,。小倉は内に進路を取りました。直線は逃げる平原をフィニッシュ寸前で松谷が差して優勝。平原が4分の1車輪差の2着に逃げ粘ってこのラインのワンツー。平原と松谷の間に進路を求めた小倉は開かず4分の3車身差で3着。
 優勝した神奈川の松谷秀幸選手は2017年4月の西武園記念以来の記念競輪3勝目。奈良記念は初優勝。僕はこのレースは脚力とレースの巧みさから平原と三谷の争いになるのではないかと思っていました。展開的にそうなっただけといういい方はできますが,関東ラインでも先行は少ない平原の先行は予想外。そのときの動きにうまくついていったのが松谷の勝因でしょう。自力もある選手なので,平原の先行を2番手でマークなら差す方が自然です。

 帰りに薬局に寄りました。この日もインスリン,注射針ともに在庫が足りていました。
 10月29日,火曜日。10月は大きな台風がふたつ来ました。その後から,屋根が小さなものではあったのですが,カタカタと音を立てるようになりました。ふたつの台風とも強風を伴っていましたので,その影響が考えられました。ただ僕の家の屋根はベランダからでも覗くことができないような構造になっていますし,仮に見ることができたとしても,僕には修繕が必要なのか否かも分かりません。そこで業者に点検を依頼しました。その点検の日がこの日だったのですが,この日は雨が降ってしまったために延期となりました。
 10月30日,水曜日。虫歯の治療のためにI歯科に行きました。午前10時の予約でした。
 虫歯は左右の上の前歯にできていました。左に2か所,右に1か所の計3か所です。まずレントゲンで患部を確認し,この日は右上の部分を治療しました。治療は医師と歯科助手のふたりで行われました。虫歯の部分を削って,そこに詰め物をするというのがその具体的な内容です。前にもいったかと思いますが,I歯科では治療の際には塗る麻酔薬を使用します。これを使用すると治療のときはもちろんですが,麻酔をするために注射をしませんから,その痛みを感じることもありません。難点があるとすれば,この麻酔は強力なので,治療後も効果が続いてしまうことです。何かを飲んだり食べたりするのに,支障があるというほどではありませんが,明らかな違和感が残ります。
 帰宅後,午後12時45分に地域担当支援主任のSさんから電話がありました。妹のインフルエンザの予防接種を行うか否かの確認でした。接種してもらうように伝えました。
 10月31日,木曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 11月1日,金曜日。妹の本牧脳神経外科の通院でした。これがあったのでこの週は木曜に妹を迎えに行ったのでした。この日は診察だけでしたが,前回の通院のときに行った血液検査の結果が出ていましたので,その報告もありました。前にもいいましたが,この血液検査では妹は貧血であるけれども心配の必要はないと言われます。
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