大脳新皮質というのは、学習によって、神経回路を「整理。」することによって、高速高機能な無意識性能力を得ることができる。
大脳のほとんどは、既に整理「された。」、学習「された。」無意識機能であるため。脳地図のような領域の確定が可能である。
こうした機能ごとの領域というものは、必ずしも先天的に決定されているようなものではなく、腕を失った人などで不要になった領域が、他の機能に「侵食。」されることもある。
タイプライターやパソコンのキーボードなどは、ヒトという種の生物としての歴史において極最近の体験である。従って、こうしたものの学習というものも、先天的な機能とは異なる領域侵食によって発達するものであると言える。
バカな生物学者は、それによって脳に障害が生ずるのではないかなどと言い出すが、それに関する実証的な根拠は全く存在しない。単なる観念的な恐怖心に過ぎない。
バカは放置しておいて、無意識機能について話を戻そう。
タイピングによる文字入力も、一種の言語機能の一つである。筆記言語に関わる機能の近傍の領域に作られるであろう、こうした機能も、後天的に「学習。」されたものであるが。一般に音声言語などとは異なり、ある程度の年齢にならないと学習しない場合が多いので、その学習の過程について記憶がある場合が多い。
初めてキーボードなどに触れるとき、どのキーがどこにあるのかを一つづつ探しながら入力してゆく。
しかし、ある程度慣れてくると、定型的な言葉に関しては、頭の中で思い描いただけで反射的に指が勝手に動くようになってくる。
逆に、慣れすぎてしまうと、具体的にどのキーがどこにあるのかは意識上では意識できないままに入力するようになってしまう。どのキーがどこにあるのかをいちいち意識上で考えながら入力していたら、「何を書くか。」の意識をも奪ってしまうために、文章を打ち込むのに集中することができないからである。
大脳の領域の多くは、こうした特定機能への「特化。」をした無意識機能であるため、その動作が極めて「整理。」されているために領域が明確に判別できるのである。
特化された機能であるため、機械反射的に高速高機能であるのだが。一方では汎用性に欠けるため、特定機能以外には使えない。
無意識機能というのは高速で特化された特定機能であり、機械手続き的な条件反射反応しかできないのである。
こうした機械手続き的な条件反射反応しかできないのであれば、行動の全ては行動習性とか傾向性で全て説明されることになる。そこに本質的知能としての新しい認識は構造的に生じることはなく。チンパンジーのように環境以上の能力は発揮されることはない。
本質的な知能としての意識機能が欠落していれば、ヒトの大脳容積は生物的には余剰でしかない。チンパンジー程度あれば生物「生存。」において充分だからである。
認知症などの大脳萎縮の結果も、生物的には「生存。」には充分であろう。「生存。」に必要な能力以外を「整理。」することは、大脳辺縁系の反応として必然的な結果であるとも言える。
水頭症などの疾患に由来する認知症以外のアルツハイマー型認知症の場合、本質的な意識、自発的な思考や新たに学習「する。」意思の欠落が原因ではないかと考えられる。まだ臨床的な検証もされていない上、原因に対する具体的な対策も確立していないので、現段階においては一般の患者への治療などへの応用はするべきではない。
認知症というのは、当人に認識させると反って悪化することまであるので、あまり短絡的に応用すべきではない。
応用として早急に必要なのは、大脳萎縮が特に生じていないにも関わらず、論理的に理解できない学者の頭の悪さである。国家最高学府の教授でありながら、理論的に理解できないというのはあまりに支離滅裂である。バカの多数決でバカげた観念を振り回して公費を浪費する現在の体制は、かなり根本的に見直す必要性がある。どうしても生物学者には理論的思考ができないというのならば、理工系の学者などによる精密検証も必要であろう。
単に学力が高いだけのバカを大量生産するために国立大学の存在価値があるわけではない。被災地の学校でも論ずるように、「他人の為になる人。」を育てる機関でなければならない。それは、決してお念仏のように唱えておけばどうにかなるようなものではなく、学生個人の意思、意識の改革や、それができない学生や教員の「淘汰。」が必要である。
現在は東北地方の災害対応があるので、優先順位としてはそちらを優先するべきであろうが。災害に乗じて事実撹乱、証拠隠滅をされてしまっては話にならない。まあ、既に公表されたものなら隠蔽しようもないので、逆に公表させること、情報開示を徹底させることが大切であろう。