書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

嫌がらせ。

2011年04月01日 22時40分11秒 | 日記
 あの、自転車の後ろのブレーキって、何であんなにうるさいんだろう。

 「鳴らない。」って書いてあっても鳴るよね。

 前のブレーキは、そんなにうるさくない。前のブレーキと同じものを後ろにも着けてくれればいいのにね。

 高級なスポーツサイクルは、そうなっている。

 雨上がりとか、物凄いうるさい。

 耳がおかしくなる。

 頭までおかしくなりそう。

 なんなんだろうね。嫌がらせかね。

 何のために?。

 なぞだわー。

無意識機能。

2011年04月01日 15時49分15秒 | 意識論関連
 大脳新皮質というのは、学習によって、神経回路を「整理。」することによって、高速高機能な無意識性能力を得ることができる。

 大脳のほとんどは、既に整理「された。」、学習「された。」無意識機能であるため。脳地図のような領域の確定が可能である。

 こうした機能ごとの領域というものは、必ずしも先天的に決定されているようなものではなく、腕を失った人などで不要になった領域が、他の機能に「侵食。」されることもある。

 タイプライターやパソコンのキーボードなどは、ヒトという種の生物としての歴史において極最近の体験である。従って、こうしたものの学習というものも、先天的な機能とは異なる領域侵食によって発達するものであると言える。

 バカな生物学者は、それによって脳に障害が生ずるのではないかなどと言い出すが、それに関する実証的な根拠は全く存在しない。単なる観念的な恐怖心に過ぎない。

 バカは放置しておいて、無意識機能について話を戻そう。

 タイピングによる文字入力も、一種の言語機能の一つである。筆記言語に関わる機能の近傍の領域に作られるであろう、こうした機能も、後天的に「学習。」されたものであるが。一般に音声言語などとは異なり、ある程度の年齢にならないと学習しない場合が多いので、その学習の過程について記憶がある場合が多い。

 初めてキーボードなどに触れるとき、どのキーがどこにあるのかを一つづつ探しながら入力してゆく。

 しかし、ある程度慣れてくると、定型的な言葉に関しては、頭の中で思い描いただけで反射的に指が勝手に動くようになってくる。

 逆に、慣れすぎてしまうと、具体的にどのキーがどこにあるのかは意識上では意識できないままに入力するようになってしまう。どのキーがどこにあるのかをいちいち意識上で考えながら入力していたら、「何を書くか。」の意識をも奪ってしまうために、文章を打ち込むのに集中することができないからである。

 大脳の領域の多くは、こうした特定機能への「特化。」をした無意識機能であるため、その動作が極めて「整理。」されているために領域が明確に判別できるのである。

 特化された機能であるため、機械反射的に高速高機能であるのだが。一方では汎用性に欠けるため、特定機能以外には使えない。

 無意識機能というのは高速で特化された特定機能であり、機械手続き的な条件反射反応しかできないのである。

 こうした機械手続き的な条件反射反応しかできないのであれば、行動の全ては行動習性とか傾向性で全て説明されることになる。そこに本質的知能としての新しい認識は構造的に生じることはなく。チンパンジーのように環境以上の能力は発揮されることはない。


 本質的な知能としての意識機能が欠落していれば、ヒトの大脳容積は生物的には余剰でしかない。チンパンジー程度あれば生物「生存。」において充分だからである。

 認知症などの大脳萎縮の結果も、生物的には「生存。」には充分であろう。「生存。」に必要な能力以外を「整理。」することは、大脳辺縁系の反応として必然的な結果であるとも言える。

 水頭症などの疾患に由来する認知症以外のアルツハイマー型認知症の場合、本質的な意識、自発的な思考や新たに学習「する。」意思の欠落が原因ではないかと考えられる。まだ臨床的な検証もされていない上、原因に対する具体的な対策も確立していないので、現段階においては一般の患者への治療などへの応用はするべきではない。

 認知症というのは、当人に認識させると反って悪化することまであるので、あまり短絡的に応用すべきではない。

 応用として早急に必要なのは、大脳萎縮が特に生じていないにも関わらず、論理的に理解できない学者の頭の悪さである。国家最高学府の教授でありながら、理論的に理解できないというのはあまりに支離滅裂である。バカの多数決でバカげた観念を振り回して公費を浪費する現在の体制は、かなり根本的に見直す必要性がある。どうしても生物学者には理論的思考ができないというのならば、理工系の学者などによる精密検証も必要であろう。

 単に学力が高いだけのバカを大量生産するために国立大学の存在価値があるわけではない。被災地の学校でも論ずるように、「他人の為になる人。」を育てる機関でなければならない。それは、決してお念仏のように唱えておけばどうにかなるようなものではなく、学生個人の意思、意識の改革や、それができない学生や教員の「淘汰。」が必要である。

 現在は東北地方の災害対応があるので、優先順位としてはそちらを優先するべきであろうが。災害に乗じて事実撹乱、証拠隠滅をされてしまっては話にならない。まあ、既に公表されたものなら隠蔽しようもないので、逆に公表させること、情報開示を徹底させることが大切であろう。




実証。

2011年04月01日 15時10分16秒 | 意識論関連
 瞑想や座禅を行っていた人の方が、もしかすると振り込め詐欺への耐性が低いとか。あるいは認知症になりやすいとか。そういった統計的実証も可能かも知れない。

 振り込め詐欺の被害者とか、認知症患者というのは個人情報に関わるので、在野の理屈屋には検証のしようがない。

 認知症患者の傾向性というものに、「自慢をしたがる。」傾向があるという。これは他人からの評価に対する執着の現れであり。これは一つの左証にはなるだろう。

 他にもこうした証明はあるはずだが、詳細をすぐに忘れてしまう。こうした実証自体に意識が働かないのは、社会的評価にあまり関心が向いていないからであろう。もう少し貪欲になった方がいいかも知れない。






兵隊。

2011年04月01日 14時47分36秒 | 意識論関連
 軍隊というものは、兵隊に絶対服従をさせるために自律的判断を行うことから意識を逸らせるために過剰な訓練を行うのである。

 ヒトという種の生物を、どんなに鍛えたところで、所詮は鉄砲弾一発で役立たずになることに変わりはなく。戦術的には鍛練の効果はほとんど全くない。

 上官からの命令に服従させ続けることによって、服従することに「馴らし。」自律的に考えて行動することを不具にすることが、訓練の厳しさの本当の理由である。

 これは安物の仏教の修業とも共通するものであり。その最も先鋭化したものが瞑想とか座禅であろう。

 訓練を行っている上官自身も、実際にはその上官からの命令に従うようにシツケられているため。一種の「虐待の連鎖。」のように部下にも強制する。その行動には一切疑いを抱く意識などほとんど存在しない。

 福島原発のレスキュー隊長のように、部下の心配で精神的に病んでしまうということは、実は珍しいことではない。乃木希典大将の自害も、同じ「責任。」感からの行動である。

 こうした感覚的な「責任。」への「悩み。」とは、実際にはサバイバーズギルドと同じで、ある種の錯覚であり、アプリオリな観念である。本当は当人に道義的責任など存在しない。隊長であっても、所詮は「上。」からの命令に従っているだけであり、本当の責任とは、現場の隊長にあるのではない。

 では、福島原発の責任とはどこにあるのか。それは原子力政策に対する国民の無関心と、それに乗じて原発運営にたかった利権者達の方にある。

 だから隊長も含めて被害者なのである。


煩悩。

2011年04月01日 13時19分59秒 | 意識論関連
 「煩わしい悩み。」と書いて「煩悩。」。

 「考えた。」つもりになっている人というのがいる。「Aにしようか、それともBにしようか。」その選択に論理的根拠があるならば、それは「考え。」である。

 実際には、「考え。」ではなくて、単に「悩んで。」いることの方が圧倒的に多いらしい。

 「悩んで。」いるということは、要するに気分的にどっちにしようか「悩んで。」いるだけで。どんなに気分的に「悩んで。」も、それは「考え。」ではない。

 気分的なバイアスであれば、それは環境依存に他ならない。気分的な好き嫌い自体が当人の意識的選択ではない上に、その場の気分自体もまた自律的選択ではないからだ。

 気分的に「悩む。」と、感情的に疲れるので。あたかも「たくさん考えた。」ような気分に陥る人は少なくない。

 ハーバード大学のマイケル:サンデルの講義とかは、受講者に「悩み。」を与えているだけである。受講者はややこしい状況、あるいは判断不能な状況というものを与えられて、その与えられた条件内部だけで「悩む。」だけで。「なぜ、そんな状況になったのか。」とか、「なぜ、その状況だけしか考えてはいけないのか。」には意識が働かない。もとい、「働き難い。」

 受験に合格した大学生であっても、学食で一人食事をすることの強迫観念を自己分析することはできない。もとい、「したがらない。」

 「普通の人。」の多くは、考えが浅い。考えの浅い人間が多数を占めている場合、その方が気分的に安心なので、考えが浅いままでも「安心。」なのである。

 判断というものを行うとき、そこに論理的根拠が伴わない、単なる気分的な好き嫌いのバイアスに拠る選択であれば、それは本質的には自律的に「考えた判断。」ではなく。環境依存的に既に存在している固定観念、好き嫌いに由来する無為無策な「反射行動。」に過ぎない。

 その反射行動に至るまでに、どんなに「悩んだ。」としても、その「悩み。」にどんなに神経を擦り減らしても、葛藤しても。それは「考え。」ではないのである。

 気分的な「煩わしさ。」こそが、むしろ「考え。」を阻害する。だから「煩悩。」というのであろう。

 本質的な有神論者の場合、危険な状況であっても命がけで「正しい。」行動をとることがある。というか、とる人のことを本当の有神論者というのであるが。こういう人には「悩み。」がない。恐れを知らない。ムスリムは「神以外の何物も、私は恐れない。」と言う。あまりに危険な状況でも無謀な程「正しい。」行動をとるので、できれば一人ではなく、ある程度大きな組織との連携を取って欲しい場面も、しばしばある。

 こういう人を、私は一人でも失いたくないからだ。

 別にイスラム教に限ったことではないが。大抵の「有神論者。」と名乗っている者の、少なからずは、「神がいないなら、何をしても構わない。」と思っているような自律判断の欠落した事実上の無神論者である。だからテロだの戦争だのが終わらない。

 パレスチナの女性救急隊員による自爆テロなど、イスラムの教えでは女性が殉教することは許されていないにも関わらず殉教に踏み切った。これは自分が神の祝福を受けられないことを知っていながら、自らの無力感に絶望したのであろう。

 パレスチナでの救急隊員の仕事というのは、とんでもない無謀な仕事である。ほとんど津波被災地の救出活動みたいなことが、何十年も続いているのである。しかし、相手は自然ではなく、ユダヤ人の強迫観念による迫害であり。人災である。ましてやパレスチナにおいて「大きな組織。」といえば、あまり選択の余地はない。何せ国連が放置している状態であるから、手詰まりになるのも仕方あるまい。

 ユダヤ人は、ナチスに迫害されたために、恐怖に怯えて「自分達の国。」を欲しがっているのであり。旧約聖書にある「約束。」を盲目的に信じ込まずにはいられないのである。

 モーゼの十戒の中には、「神がいないなら、何をしても許される。」というくだりがある。これは自律的な判断を一切放棄し、全てを神の責任に押し付ける精神的怠慢に他ならない。

 そもそも、軍隊というものは、生物学的な社会形成習性を経験則的にシステマチックに利用した、盲目的服従組織に他ならない。兵隊個人は命令以外に意識が働かなくなるように、過剰な訓練によって服従することを脳の身体性に刷り込み「学習。」されるため。結果的に「監獄実験。」のような虐待行動に陥るのである。

 本質的意識が働かなければ、そこに「心。」は宿らないからである。

 ユダヤの兵隊は、ただ上官の命令に従いパレスチナ人を迫害する。そこにナチスの吏官の亡霊が宿っていることも知らずに。だからアウシュビッツとやっていることが似てくるのである。犯罪者のプロファイリング同様、無意識な人間の行動というのは類似性が必ず出てくる。それはつまり「凡庸。」な出来事でもあるからだ。

 ヒトという種の生物の習性を利用することによって、自律的な「考え。」を阻害することが可能であるため、洗脳などのペテンが成立するのである。 

 これ程までに科学技術の進歩した現代においても、未だに戦争などという野蛮行為がなくならないのは。ヒトという種の生物を工学的に解析していないからである。

 既に社会心理学的実験の成果は充分にあがっている。その「結果。」をどう読み解くか、そこに意識が働かないから、世の中に変革が起きないのである。

 「豚の耳に小判。」である。豚の耳に小判をあてがっても、豚は嫌がるだけであろう。豚のままで満足か、それとも拒絶するか。本来は「選択の余地などない。」のである。