自分で自分自身の行動を律することができなければ、それは本質的に「人間としての知能。」ではない。
特定の能力がどんなに秀でていようとも、それは「チンパンジーの瞬間記憶能力。」と何らかの変わりがないのである。世間一般においては、社会的に成功してさえいれば、それを「才能。」と勝手に規定するが。これには論理的根拠など存在しないのである。
どんなに馬鹿げた多数の大衆観念をサンプリングしてきたところで、それが科学的、論理的な証明になどならない。
もちろん、現在の生物学や哲学のようなオカルト状態の内部における観念の多数抽出でも同様である。
「だって、皆が。」というのは論理的根拠、「理由。」にはならない。
従来の教育システムにおいては、とにかく「学力成績さえ高ければ知能。」という論理性の欠落した観念に基づいて、成績ビジネスとして体制が出来上がってしまっており。成績さえ上がれば評価報酬となるように構築されてしまっているのである。
さらに、大衆一般においては、とにかく自分さえ社会的評価が得られれば良しとする利己的な観念と結び付き。まるでオカルトのごとく学力成績を追求することばかりに執着するのである。これを「アスペクト盲。」とは呼ばないのは、単に多数の人が信じ込んでいるために気分的に安心であるためである。
もちろん、建築設計を行うのに国家試験などは必要である。問題なのは単に国家試験さえ合格すれば、どんなに自律判断の欠落した人間であっても建築設計が行えるということである。
ある特定の人物が、行動責任を全うする自律判断を持った人間であるかどうかを測定する基準などは存在し得ない。もしそれを規定したとしても、その規定に則って嘘をつけば良いだけのことであり。規定は意味を成さない。
自律とは個人の意識に依存するものであり、外的には測定不可能なものである。アイヒマン実験の内容を既に知っている場合と、知らない場合では、被験者の行動が全く異なるのは予想するまでもなかろう。
たとえアイヒマン実験を知っていて、実験に「引っ掛かる。」ことがなかったとしても。それが本当に個人の自律的な行動判断力を証明するわけではない。
大衆観念からすると、個人の意識に依存する自律などというものは無益であると「思う。」らしいが。それこそそう「思って。」いる当人の意識の欠落を証明するものなのである。
社会全体の信頼性というものは、あくまで個人の自律によって形成されるものであり。当然学力成績とは無関係であることは既に鬱陶しい程述べたはずである。どこまで鬱陶しく言わなければ理解できないのか、書いているこっちの方がよっぽど鬱陶しいのだが。そんなことにまでは大衆凡民の意識は働かないであろう。
とかく自律のないヒトというのは、自分が今まで行ってきた行動に対して、何が何でも事後正当化するための屁理屈を取り繕う。だから自律的な脱構築可能性が失われるのである。
年功序列体質などの、生物学上の「社会形成習性。」に由来する体制維持体質というのは、それが動物的な本能、情動行動によって結果的に形成されてしまったものであるために。その体制維持には感情論が先行するため、異常なまでの固執が生ずるのである。
生物学や哲学といった、思考構造が文系の観念に由来する学者達にとって、従来のパラダイムを信じ込んでいた自分の愚かさを認識することを気分的に忌避するため。一向に改善することがないのである。
それはカルト宗教の信者に対して「お前さんの信じているものは科学的根拠などないよ。」と諭しても、全く聞く耳を持たないのと同じ心理構造なのである。
「養老訓。」とは、「嫌な話を意識から外す、無視する。」ための屁理屈の羅列である。従って、それを読んだ「ヒト。」の多くは気分的に満足し、自分勝手な観念の拠り所として異常なまでの執着をするのである。
ドーパミンが作り出す気分的な「安心。」は、同時にそれ以外の事に対する気分的な「不安。」や「恐怖。」も形成してしまっていることを忘れてはならない。
「社会の信頼性を高めるためには、先ず自分自身が行動責任をとること。」というあまりに自明な倫理を、大衆は意識から外そうとする。他人には責任を負えと言いつつ、自分は責任を取りたくないのである。こうした意識の低さこそが社会全体の信頼性を失う最も大きな原因なのである。
特定の能力がどんなに秀でていようとも、それは「チンパンジーの瞬間記憶能力。」と何らかの変わりがないのである。世間一般においては、社会的に成功してさえいれば、それを「才能。」と勝手に規定するが。これには論理的根拠など存在しないのである。
どんなに馬鹿げた多数の大衆観念をサンプリングしてきたところで、それが科学的、論理的な証明になどならない。
もちろん、現在の生物学や哲学のようなオカルト状態の内部における観念の多数抽出でも同様である。
「だって、皆が。」というのは論理的根拠、「理由。」にはならない。
従来の教育システムにおいては、とにかく「学力成績さえ高ければ知能。」という論理性の欠落した観念に基づいて、成績ビジネスとして体制が出来上がってしまっており。成績さえ上がれば評価報酬となるように構築されてしまっているのである。
さらに、大衆一般においては、とにかく自分さえ社会的評価が得られれば良しとする利己的な観念と結び付き。まるでオカルトのごとく学力成績を追求することばかりに執着するのである。これを「アスペクト盲。」とは呼ばないのは、単に多数の人が信じ込んでいるために気分的に安心であるためである。
もちろん、建築設計を行うのに国家試験などは必要である。問題なのは単に国家試験さえ合格すれば、どんなに自律判断の欠落した人間であっても建築設計が行えるということである。
ある特定の人物が、行動責任を全うする自律判断を持った人間であるかどうかを測定する基準などは存在し得ない。もしそれを規定したとしても、その規定に則って嘘をつけば良いだけのことであり。規定は意味を成さない。
自律とは個人の意識に依存するものであり、外的には測定不可能なものである。アイヒマン実験の内容を既に知っている場合と、知らない場合では、被験者の行動が全く異なるのは予想するまでもなかろう。
たとえアイヒマン実験を知っていて、実験に「引っ掛かる。」ことがなかったとしても。それが本当に個人の自律的な行動判断力を証明するわけではない。
大衆観念からすると、個人の意識に依存する自律などというものは無益であると「思う。」らしいが。それこそそう「思って。」いる当人の意識の欠落を証明するものなのである。
社会全体の信頼性というものは、あくまで個人の自律によって形成されるものであり。当然学力成績とは無関係であることは既に鬱陶しい程述べたはずである。どこまで鬱陶しく言わなければ理解できないのか、書いているこっちの方がよっぽど鬱陶しいのだが。そんなことにまでは大衆凡民の意識は働かないであろう。
とかく自律のないヒトというのは、自分が今まで行ってきた行動に対して、何が何でも事後正当化するための屁理屈を取り繕う。だから自律的な脱構築可能性が失われるのである。
年功序列体質などの、生物学上の「社会形成習性。」に由来する体制維持体質というのは、それが動物的な本能、情動行動によって結果的に形成されてしまったものであるために。その体制維持には感情論が先行するため、異常なまでの固執が生ずるのである。
生物学や哲学といった、思考構造が文系の観念に由来する学者達にとって、従来のパラダイムを信じ込んでいた自分の愚かさを認識することを気分的に忌避するため。一向に改善することがないのである。
それはカルト宗教の信者に対して「お前さんの信じているものは科学的根拠などないよ。」と諭しても、全く聞く耳を持たないのと同じ心理構造なのである。
「養老訓。」とは、「嫌な話を意識から外す、無視する。」ための屁理屈の羅列である。従って、それを読んだ「ヒト。」の多くは気分的に満足し、自分勝手な観念の拠り所として異常なまでの執着をするのである。
ドーパミンが作り出す気分的な「安心。」は、同時にそれ以外の事に対する気分的な「不安。」や「恐怖。」も形成してしまっていることを忘れてはならない。
「社会の信頼性を高めるためには、先ず自分自身が行動責任をとること。」というあまりに自明な倫理を、大衆は意識から外そうとする。他人には責任を負えと言いつつ、自分は責任を取りたくないのである。こうした意識の低さこそが社会全体の信頼性を失う最も大きな原因なのである。