書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

事故調査委員会。

2011年04月26日 19時54分28秒 | 意識論関連
 事故調査委員会と司法の間に交わされた覚書が問題なのではなく。司法そのものの根拠とされる刑法自体が全ての元凶なのである。

 刑罰を与えることそのものには、何ら原因究明や再発防止策の確立にならないばかりか。そもそも原因究明自体を阻害するのであり、百害あって一利ないのである。

 そもそも、罰に対する恐怖心によって法令遵守を行うというのは。そこには民衆自身の自律的な社会保全意識を無視した、強権的思想、観念に基づいた制度であり。全く民主主義とは相容れない独裁的な制度なのである。

 独裁がなぜ生ずるのか。それは民衆の多くが生物種としての「ヒト。」としての習性によって生ずる、権力者への服従への安心感や、或は責任放棄による責任回避意識によるものである。勿論こうした「意識。」とは無意識的な意識であり、慣習としての根拠なき安心感によって促される怠惰で感情的な行動である。

 いわば、ヒトという種の生物の習性として。民主主義というのは最初から相容れないものであるといっても過言ではない。ヒトという種の生物の習性としては、年功序列的な封建的社会制度が最も最適な「結果。」であるからだ。多くの「社会性。」を持つ生物がそうであるように、ヒトが作り出す社会性というもののほとんどは、実際には無意識的な本能に基づく習性としての行動結果であり。現在の生物学界や哲学界のような、極めて封建的で内部検証性を持たない年功序列的なバカの組織体制に、多くのヒトは安心して「信頼。」しているのである。

 現在の生物学のパラダイムに従えば、事故が起ころうが、何人死人が出ようが、それらは全て生物進化過程における「結果。」であると同時に、全ては「目的。」であるということになっているのである。だから長谷川眞理子は「将来犯罪が増えるかどうか、楽しみ。」などと他人事になってしまうのである。これは「客観性。」ではなく、単なる「他人事。」であって、科学的でもなければ当然糞の役にも立たない屁理屈でしかないのである。

 科学的でありさえすれば、何をしても許されると勘違いしてはいけない。少なくとも公費を用いて研究される機関において、全く無益な研究をして良い訳がないのである。

 生物学や脳科学、哲学が事故調査や事故原因究明に何かの役に立っているだろうか。否、全く役に立たないのである。それはこれらが全く論理的でもなければ科学的でもないからである。



 従来の事故調査委員会が、なぜ一つだけの原因への絞り込みをしようとするのか。それは本当に委員会の人間達が再発防止に対する「意識。」が足りないからであろう。逆にいえば、当事者である被害者遺族の提言に多重原因に言及できるのは、本当の再発防止への「意識。」が働いているからなのである。

 事故調査委員会というのは、いうなれば自主的に行っているものではなく。単に制度として作られた委員会に選出されただけの、雇われ委員でしかないからこそ、特定のバカでもわかるような単一原因への「絞り込み。」によって、「明確化。」した気分に陥っているのである。

 委員の一人はこう述べる、「仮定の話までしたら、キリがない。」と。事故調査や再発防止策の確立に、「キリ。」などというものは初めから存在しない。終わりなくどこまでも追求するための事故調査委員会でありながら、「キリがない。」つまり、「終りがない。」などと述べるというのは、最初から面倒臭い気分でやっているからなのである。こんなやる気のない委員など、北朝鮮にでも宅急便で送りたい気分である。税金の無駄遣いも甚だしい。

 「これさえ、やっておけば、頭が良くなる。」的な短絡的解答を大衆は喜んで鵜呑みにする。それと同じ無意識な感覚によって、「これさえやっておけば、事故防止になる。」的な短絡的解答を求めるのは、いかにも「お役所仕事。」の面目躍如といったところである。

 もはや特定のお役所仕事では、本当の原因究明など期待できないのである。本当に再発防止を追求するのであれば、根本的には刑法を廃止し、全てを公表することによって、あらゆる人が再発防止策に言及できるようにしなければ、構造的に無理がある。

 刑法という呪縛があるからこそ、責任追求を恐れて隠蔽が発生するのである。原発の情報隠蔽も、結局は責任追求を嫌って行われたものなのである。

 アンドロイドOSやそのカーネルとなるリナックスOSのように。オープンソースによって誰でも自由に言及できるような構造にするべきなのである。やる気のない特定の専門家だけを寄せ集めても、本当の再発防止など確立することはできない。やる気があれば無償でも行うものである。事故再発防止策というのは、全ての人にとって必要なものであるからだ。

 先程述べた、「キリがない。」とか言ってた委員が誰かも公表すべきである。もし危険学や失敗学の研究者であれば、こんな奴はとっととお払い箱にするべきであるからだ。別に責任は追求しない、単に社会的に考えて、研究者としての素養に欠けるからお払い箱にするのであって、研究以外のお仕事に就いて頂けばよろしいだけなのである。

 こうした研究者としての素養の欠けた人間が研究職に就いてしまっているのは、その基準として学力があまりに優先しすぎるからなのである。学力が高いだけのバカは、可及的速やかに研究機関から排除すべきなのである。それが社会的貢献というものであるからだ。


 そもそも「懲罰的指導。」などという、アナクロニズム丸出しの指導方法が未だに存在するというのは。指導を行っている人間自体が同じことをされたことを「連鎖。」しているのであり。これこそが無意識的な反射的行動結果に他ならない。

 優先されるべきは安全でなくてはならない。この安全を追求する時に邪魔なのが気分的な安心というものである。懲罰的指導を行っていた指導員は、それこそが安心だったからこそ行っていたのであり。無意識下に刷り込まれた情動行動であるが故に、それは異常なまでの執着を発揮することにもなるのである。


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