書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

順位。

2011年04月03日 14時19分08秒 | 日記
 ブログの機能としては、単に総アクセス数しかわからないんだけど、ブログタイトルでググってみると、具体的記事の上位3位までは表示されるので、どの記事が良く読まれているのかは一応わかる。

 やっぱりあんまり意識論関連の記事には興味がないらしく、「日記。」が上位を占めている。たまに分類が間違っていることもあったりするかも知れないので、読者が「どひゃー。」とか「うひゃー。」とか「あべしっ。」とか「ひでぶっ。」とか思っているかも知れない。

 ソネットブログと異なり、gooブログだと単一ブログしか許されないので、ややこしい話とバカ話が混在していて、雰囲気的に信憑性が欠けて、余計意識論関連の話は周知されないのかも知れない。雰囲気に流されている時点で理解できていないので、どうでもいいことではある。

 何だかYouTubeWidgetの記事にアクセスが集中している。東芝アンドロイドの機能について知りたがっている人が多いのかも知れない。

 東芝アンドロイドは、新型の3G以降でなくても、ネット上からアップデートすることでYouTubeも観賞に耐えられるようになる。アップデート自体は有料とは書いていなかったので、もしかすると新型が出る度に高性能化するのかも知れない。根本的に違うマシンになってしまうとダメかもしれないので、はっきりとは言えないが。

 他のマシンと比較したことはないので、果たして東芝アンドロイドの動画再生機能が高いのかどうかはわからないのだが、一応観賞には耐えられる。昔のキヤノンのノートパソコンとは異なり、音声にデジタル系ノイズも入らず、音楽も充分楽しめる。画面がそれなりに大きいのでスマートフォンよりは動画を楽しむには悪い選択ではないかも知れない。デジタルテレビへの出力はあるのだが、ブロックノイズとかは多少入るので、大画面テレビにつないでも、あまりきれいではないかも知れない。

 YouTubeWidgetという名前の「Widgit。」が何なのかがわからなくて見られているのかも知れない。私もよくわからないのだが、YouTube専用の再生アプリみたいのが初めから入っているような感じである。

 そうか、今流行りのアンドロイドアプリか何かと思って興味を引いているのかも知れない。YouTubeWidgetが東芝以外のスマートフォンで使えるのかどうかは全くわからない。でもスマートフォンはデフォルトで動画再生機能がついていないのかな。どうなんだろう。

 マシンも書いている奴もかなり特殊なので、あんまり多くの人が求める情報は書けないかも知れない。まあ、ネットなんてそんなもんだ。

 監獄実験とかアイヒマン実験はググると出てくるが、バーナル効果実験とかフィニアス:ゲイジに関する記事は出てこない。ネットというのは結構流行り廃りが激しいらしい。英語サイトにまで手を出せば出てくるのかも知れないが、英文は読めないので諦めている。そもそも綴りがわからないので、探すことすらできない。

 結構Wikipediaもスカスカで、欲しい情報は出てこないものである。私も記事を書いてみたいのだが、何せ一般的には認知されていない異端なので、あんまり公共性の高いページに書くのも気が引ける。一般認知が進んでからでも遅くはないと思うので、とりあえずはブログだけにしておこうとも思う。

 論理的判断ができないことに関しては結構気が小さくて、あまり踏み切れない。自分の感情など信用していないので、そういう結果になる。それが果たして「謙虚。」かと言われると、自分ではよくわからない。単なる臆病なのではないか。

 権威性に散々反論しておいて、臆病というのも不思議に見えるかも知れないが、理論というのは権威もすったくれもないので、気分的な臆病とかとは関係がない。

 そういうことです。でわまた。




哲学。

2011年04月03日 11時08分28秒 | 意識論関連
 哲学というと、学生の場合はカリキュラムに組まれているから仕方なしに教わるだけで、いろいろな哲学者と言われる人間の言っている内容を、ただ漫然と理解し、覚えるだけのものになってしまっている。

 基本的にバカ学生というのは、成績という抽象化された「エサ。」に対する機械手続き的条件反射として、無意識に、大して自発的意欲もなく、ただ与えられた課題として、試験で成績を獲得することにしか意識が働いていないまま、大量の情報を鵜呑みにするだけである。

 ある有名な哲学者と言われる人物の言葉があるとする。それが本当に理論的根拠を伴う結論としての言葉であるのか。それとも、単に実証不能の観念であるのか。まず、それが判別できていない。

 これに関しては、学生だけでなく、教師の方まで判別できていないことが非常に多いので、学問というよりは、現在の哲学は単なるオカルトと化している。

 こうしたオカルト化の要因として、一つは教育システムにおける学力偏重に起因する本質的自発性の欠如と。もう一つは哲学と分類されている内容の多くが気分的な満足を促すことによって思考停止に陥れる傾向がある。

 実証不能の観念を鵜呑みにする原因とは、読んだ者が気分的に「楽になる。」とか、「前向きになれる。」とか、「元気、勇気が出る。」といった。大脳辺縁系の条件反射に起因する思考停止、思考の過剰な「整理。」によるものである。

 思考の「整理。」というものは、行動や思考における目的意識の違いによって整理の方向が決定される。チンパンジーの瞬間記憶能力などに見られるように、最終的に「エサ。」が得られることだけを目的としている場合、その意識、意思、動機は極めて短絡的であるため、異常なまでの執着心によって、異常なまでの高速高機能を獲得することができる。

 チンパンジーの瞬間記憶テストをヒトの学生が行っても、チンパンジー程の短絡的な思考整理が働かないために、チンパンジーよりも低い能力しか獲得できない。

 「エサが欲しい。」というのも、ある種の自発性ではある。だが、ヒトが持つような、見返りの必要としない純粋な好奇心とは全く異なる自発性であり。これは予め組み込まれた本能的な自発性であって、本質的には自発性ではなく、単なる条件反射に過ぎない。

 純粋な好奇心というものは、本能的な条件反射とは全く異なる、いわば脳の余剰としての自発性であり。極めて主観的な個人的好みに由来する、個体としての生物生存には無駄な行動である。

 個体生存としては無駄な行動なのだが、個人的好奇心による科学知見の発展というのは、人類全体にとっては非常に有意義なものに発展する可能性を持っており。社会において重要なものである。

 しかし、こうした本質的自発性に由来する研究への意欲というものは、あくまで個人の主観的な好みに由来するものであって、特定の学力が高いだけの生徒に押し付けてどうにかなるようなものではない。

 「リベラルアーツ。」という言葉は、日本語に翻訳されると「一般教養大学。」となる。日本語の表記には「リベラル。」の意味が消えてしまっている。

 「リベラル。」という言葉には、「自由。」とか、「自発的好奇心。」といった意味があるはずなのだが。日本人の民族性として個人的な好みに由来する自発性を蔑ろにする傾向があるため、ただ「広く知ること。」という意味で「一般教養。」と訳されるのであろう。

 「広く知る。」ことの本来の意義とは、それによって拡がる認識によって促される、本質的な自発行為の自律的発見にあるのだが。日本においては漫然と広く薄く覚えるだけの雑学類に成り下がっている。

 どんなにテレビのクイズ番組で高得点を得られても、そこから従来とは異なる新しい発見や発明が導き出されることはない。むしろ、教わったことを漫然と覚えただけの「クイズ脳。」に「特化。」、すなはち過剰な「整理。」がされるだけであり。むしろ汎用性を失ってしまうことにもなるのである。

 広く薄く知っていることの方が汎用的であると、一般的には思うのかも知れないが。それは汎用性というよりは凡庸性でしかないのである。

 自発的な思考による、凡庸ではない考えにまで達するには、特定の凡庸な観念に由来する凡庸性に特化されてはならないのである。

 専門化による、知識上での汎用性とは異なり。思考上における汎用性がなければ、本質的知能発揮としての意味がないのである。

 学力成績という基準からは、こうした思考上の汎用性、思考の深度を測ることは原理的にできない。誰も思いつかなかった新しい発見であっても、その意味を測定者が理解できなければならず。予め測定者が新しい発見についての知見を持てるはずもなく。本質的な知能というものは原理的に測定することが出来ないものなのである。

 平たく言えば、バカの基準で天才を測ることはできないということである。「バカ。」が言い過ぎなら「凡人。」に置き換えても構わない。

 専門性による知識の偏りに由来する、他の分野に対する、或は一般的知識の欠如による「バカ。」さと、凡庸性に由来する「バカ。」さとは厳格に区別しなければならない。

 小柴昌俊が量子力学バカであることや、田中耕一が実験バカであることというのは。凡庸性に由来するバカとは全く異なるものなのである。別にノーベル賞受賞者に限ったことではなく、近所のパン屋が他の店とは異なる美味いパンを焼くということであっても、大変重要な知能なのである。あくまで「社会的な成功。」というのは「現社会における結果。」であり、それもまた本質的知能を測るための基準ではないのである。

 ヒトは理性だけでは息苦しくなる。そのために科学理論とは無関係な芸術に関わる「気晴らし。」も必要である。だが、これを混同しては絶対にならない。

 金子みすずの詩のUAによる朗読や、あーちゃんの動画配信で精神的に癒されるのは悪くはない。しかし、ニーチェのゾロアスター教を哲学であると勘違いするのは大間違いである。イスラム教典のような厳格な戒律とは異なり、ゾロアスター教などのオカルト新興宗教というのは読み手が勝手な解釈をこじつけることが可能であるため、宗教としてすら出来損ないなのである。

 私は宗教者ではないので、宗教を最終的な結論とすることはできない。だが、人間としての在り方として、マトモな宗教にはオカルト哲学には存在しない自律的な公益倫理性に言及していることに異論はなかろう。キリストの代用で超人だとか持ち出すとか、資本家が気に入らないからと労働者の代表に服従するなどというのは、その場しのぎの戯言でしかない。

 北朝鮮労働党総書記金正日は、学生時代に「マルクスは、なぜ民衆が封建社会に陥るのかを説明していない。」ことに気付いている。気付いていながらなぜ自分が封建制度の穴の底に陥っているのかは説明するつもりはないらない。

 「宗教は阿片である。」と論じた社会主義自体が、現実にはオカルト新興宗教に陥っている現実をみれば、安物の新興宗教をでっちあげることがどんなに危険であるかは、経験的にも我々は知っているはずである。

 ましてやゾロアスター教など論外である。一方的にゾロアスター教を正当化するような番組だけを放送しておいて、反論は無視するNHKの体制には呆れ返るばかりだ。NHKの編成や解説委員はバカの集団なのか。

 何か、腹立ってくると説明から離れて抗議にしか意識が働かん。頭を冷やして出直してくる。でわまた。