書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

一括投稿。3

2012年03月03日 13時43分49秒 | 意識論関連

○ Xシステム。(フジテレビ アンビリバボー)

 意識機能が習熟した無意識高機能を阻害することがあってもおかしくはない。ゴルフで短いパットが入らなくなるなどが典型であろう。

 しかし、こうした意識による無意識機能の阻害の話というのは、ほとんどがスポーツや将棋といった個人的な特殊能力の習熟に関する話であり。社会安全性に関わる公益性を持った話ではない。

 人間としての社会性として、自律的に社会的責任判断を行う場合。これは常に意識によって判断されるものである。決して無意識によって論理判断が促されるようなものではない。

 ゴルフが上手くできなくても、社会安全性には何の影響もなく。あくまで個人の利益の問題でしかない。しかし、無意識に権威や多数同調によって他人に危害を無意識に加えてしまうことは社会安全性に直結しており、人間としての価値そのものを意味するのである。

 ここにも社会的成功という「エサ。」によって論理的思考の撹乱が促され、本質的な価値を見失うような仕組みが存在する。

 ゴルフが上手くできなくなると、多額の賞金を取り損ねたりするため。その金額の大きさに意識を奪われ、社会的責任というものの重要性を見失わせることになるのである。

 言葉の表面だけを取り上げれば、バカな大衆は「意識が無意識を阻害して損をすることもあるじゃないか。」などと、どうにも下らない判断を下す場合も多いのかも知れない。それなら原発の危険性を指摘したことで排除された原子力技術者の立場はどうであろう。

 社会安全性というのは個人の利権よりも優先されなければならないものであり、ゴルフのパターと同列に扱うようなバカげた話ではないのである。

 文系観念に基づく、極めて断片的で一面的な価値観だけに意識を奪われ。統合的な判断を簡単に失うのが大衆マスコミの特徴である。

 社会的成功云々を絶対価値観とするのであれば、時代の空気を読んで反射的にナチス政権に同調し、600万人のユダヤ人の殺害計画を立案して出世することが「正しい。」とでも言うのであろうか。

 スポーツだの芸術における社会的評価というのは、社会安全性とは無関係な「お遊び。」に過ぎない。アニメ映画監督の宮崎駿監督が自身の作品を「気晴らし。」と形容するのも、直接的には社会の安全性や公益性には関与しないからであり。スポーツや芸術での順位や評価というのは、結局気分の問題でしかないのである。

 フジテレビが意図的に無意識の優位性を論じているのか、背後に生物/脳科学界による誘導があるのかは判らないが。あたかも無意識こそが人間の価値であるかのようなプロパガンダは悪質極まりない。

 ゴルフがどんなに器用に出来て、どんなに大金を稼ぐことができたとしても。自律的に社会的責任判断ができないのであれば人間としては出来損ないに過ぎない。無意識機能による特殊な能力による個人的評価報酬というものは、人間の価値自体とは全く無関係であることを、大衆凡民マスコミは簡単に忘れ。あたかも社会的成功こそが人間の価値であると観念的に錯覚することによって、本質的な人間としての価値である自律的な社会的責任判断に重要性から意識を引き剥がすことが簡単にできるのである。

 これが脳科学者によるペテンの手口である。


 自律的に社会的責任判断を行ったからといって、社会的評価や報酬に結びつくようなものではなく。むしろ人間としては当然の行為に過ぎない。社会的評価や報酬が優先するから業績のねつ造や隠蔽といったことが行われるのであり、生物/脳科学界は旧来の間違った観念に基づく論理整合性のない理論を温存することによって、既に獲得した権威性を維持しようとして本論に対する無意味な隠蔽/撹乱ばかりに邁進するのである。

 ヒトは目先の利益の大きさに意識を奪われ、「社会的成功=人間としての価値。」という論理根拠のない短絡的方程式に基づいて物事を判断しがちである。その方が短絡的に大脳辺縁系が気分的な快楽を感じるからである。

 こうした無思考で短絡的な大衆観念に寄り添っておけば、社会安全性の価値は安く見積もられることになり。結果的に社会安全性が損なわれることに陥ることにまでは、大衆の多くは意識が回らないのである。


 気分的な快楽を与えるような短絡的な話であれば、大衆マスコミは喜んで飛びつくものである。社会的成功という「エサ。」を目の前にぶら下げることによって、それ以外に意識が働かないように誘導するのは簡単なのである。多くのヒトは社会的成功を本能的に求めるものであるからだ。

 目の前にエサをぶら下げられても、本質的価値というものを見失わないためには。論理的検証性の深さが必要不可欠である。エサにつられるというのは短絡的であるからこその結果であり、単刀直入に言って「バカ。」だからに他ならない。

 畑村洋太郎が論ずるように、安全性というものは「自律的な社会的責任判断。」によって担保されるものであり。これは無意識によって確保されるようなものではない。

 社会安全性を蔑ろにしておいて、社会的成功もすったくれもあったものではないのである。何百億もの資産を手に入れても原発が暴走して地球環境自体が破壊されてしまったのでは全く無意味である。従って「状況に依る。」ようなものでも、「バランス問題。」でもなく。あくまで社会安全性が絶対的に優先されなくてはならないことに異議を差し挟む余地など存在しないのである。

 また、意識が無意識能力を阻害するというものも、その阻害自体は無意識的に阻害されているからこそ制御出来ないのであり。例えば旅客航空機のパイロットの操縦技術も無意識的能力の一つではあるが、これは常日頃からのアクシデントに対する訓練を行うことによって、安定して操縦技術を発揮できるようにもすることも可能なのである。

 すなはち、意識が無意識能力を阻害しているのではなく。むしろ無意識的な心理的抑圧などが無意識能力を無意識に阻害しているのであって、それは単なる経験不足からくる無能に過ぎず。意識自体とは無関係でもある。

 そもそも「意識してしまっている。」というのは論理的思考ではなく、無意識的に「してしまっている。」という心理的な感情による無意識能力の阻害である。

 どちらにせよ無意識機能の価値というのは、社会的公益性とは無関係な、世間的成功という利己的価値しか存在しないことに変わりはない。

 制御不能な無意識能力であるならば、航空機の運行にも医療にも使えるものではない。ましてや個人の特殊能力で原発を運転されても危険極まりないだけである。

 環境や状況に左右されるような不安定な無意識能力であるならば、そんなものは社会安全性に関わることに応用することなどできないのである。

 航空機の操縦や医療技術に関しては、論理的に安全性が確保できるのであれば将来的に機械に置き換えても構わないものであり。安定的に動作可能であるならばむしろ機械に置き換えた方が安全性を高めることも不可能ではない。しかし機械の信頼性というものは設計製造を行うヒトの責任であり。これは機械に置き換えることは原理的に不可能である。

 本質的意識が機械に置き換え不可能である以上、これこそが「人間。」でなければ出来ないものであり。「人間。」としての存在価値であることの論証でもある。

 これを今更ゴルフのパターだの将棋の成績程度の話で撹乱されている大衆マスコミの頭の悪さにも呆れるばかりだ。


 一般大衆的な文系観念からすれば、説明が論理的で文字数が多いと言い訳がましく聞こえるらしく。「簡潔さに欠け説得力がない。」などと言い出す傾向がある。これは単に読み手の論理検証性が欠落しているだけの観念的「説得力。」なのであるが、大抵のヒトというのは言葉によるコミュニケーションを行っていながら、実際には無意識的に感情を満足させるために漠然と話しているだけであり、何ら論理的理解など全くしておらず。極めて観念的、雰囲気的な判断しかしていないのである。

 そんなんだから振り込め詐欺に騙されるんでしょうが、アホくさ。


 脳科学者達の多く、いや、ほとんど全員も。以上のような論理的検証を全く出来ておらず、私以外の誰も反論をできていないというのは。余程脳科学/認知科学者というのは論理検証性の欠落した、大衆迎合しか興味のないデクノボウしかいないのであろう。

 断片的「取り繕い。」や「言い逃れ。」、「言い訳。」を繰り返すほど、論理根拠のない観念というのは論理整合性の崩壊を露呈するだけである。社会的に役に立たないデクノボウであることが認識できたのであれば、早々に転職先を確保しておくべきであり。論理的基礎の脆弱な砂上の楼閣をいくら維持しようとしても無駄である。

 既に生物/脳科学者達のほとんど全員が、論理的思考の出来ない文系観念に染まった、科学者としてポンコツであることは隠蔽のしようがないのである。今更大衆マスコミを観念的に丸め込んでも科学としての役割が立証できるわけではない。これ以上税金の無駄遣いに加担しても誰の得にもならないことを認識すべきである。

end;





○腹側線状体。(NHKスペシャル)

 ヒト以外が他者との信頼関係によって物品や金の交換が可能であるからといって、ヒトが人間であることの論証にはならない。シエラレオネの少年ゲリラ内部においても信頼関係というのは存在するからである。

 コミュニティーの規模の巨大化(都市化/文明)というのは必ずしも「人間。」としての論証にはならない。

 文明は様々なものが大規模化したが、犯罪や戦争も大規模化しており。これは何ら「人間。」としての社会性の論証にはなっていないのである。文明の大規模化によって科学的認識も爆発的に加速しているが、その科学の使い方自体については全く進歩がなく、むしろ科学を用いた欲望の暴走を招くばかりである。どんなに技術的に高度化しても、その使い方自体が進歩しないのは、人間の存在としての価値自体が全く進歩していないからであり、何ら「人間。」としての社会性の論証にはならないのである。


 貨幣というのは長期的安定性に貢献するという長所もあるが、あくまで「道具。」である限り使う者の意識次第である。

 都市や文明というのは意識の産物ではない。あくまで欲望という無意識の集積であり、意識的な産物ですらないのである。


 ラトガース大学での実験で。初対面の相手にクジを引かせ、一方には80ドル、一方には30ドルを予め渡しておき。どちらか一方に追加で50ドルを提供した場合。公平分配になった時にも快楽が生ずる。これは平等への欲求が本能的に存在することを意味する。

 しかし、この快楽というのは相手が目の前で見えているという条件があり。条件が存在する以上、これは機械条件反射的無意識でしかなく、意識的な行動選択のように、意識的に担保されるわけではない。


 目の前に見えていない相手のことにまで思慮が働くようには、生物学的進化は原理的に生ずることはない。進化生物学的な進化というのは結果的な競争や淘汰による遺伝的要因の「整理。」を必要とするからである。

 自然界においては競争や自然淘汰による過酷な「結果。」的選択以外働くことはなく、そこには何ら誰の「目的。」意識も介在することはない。故に野生生物というのは凶暴なのである。従って生物学的進化というものは、人間にとって都合の良いように進化が進むことはない。

 目の前に見えていない相手のことにまで思慮が働くかどうかは、意識の広さに基づく想像力が不可欠である。ヒトというのは目先の事柄が最も意識を支配する傾向があるからだ。もし目先の事柄にしか意識が働かない個体を淘汰(殺害絶滅)させるというのであれば、それ自体が非人間的行為に他ならず。論外である。

 進化生物学的に人間性を本能的に獲得することは原理的に不可能である。それなら意識的に社会全体に対する公益性や責任判断の重要性を認識すること以外に「ヒトが人間。」としての進歩を獲得することは出来ない。これを無視して如何なる学力や能力を身につけても、社会公益には寄与できないのである。

 自然界における生物学的淘汰を人間社会に持ち込むこと自体がそもそもケダモノの正義なのである。優生学の異常性というのは、生物学のケダモノの正義を人間社会に持ち込もうとする異常性であり。生物学はこの異常性について何ら言及しないばかりか、むしろ無理矢理正当化しようとしており。完全にオカルト状態なのである。


 環境条件に依存する本能的行動習性をいくらたくさん枚挙しても、環境に依存している限り自律判断については言及できず、これはすなはち「人間としての社会性。」については言及不能ということである。

 現在の生物学/脳科学界というのは自律的判断という個人の本質的意識の重要性を無視し、漫然と従来の観念を振り回すことで体制維持を謀ることだけが目的であり、科学的論理的検証を撹乱することしかしていない。

 自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性。」というものは、環境条件に左右されない「自律。」が絶対に必要なものである。従って従来の生物学における一面的習性論の枚挙からは原理的に「人間としての社会性。」「人間とは何か。」には言及不可能なのである。

 自律的な個人の判断、本質的意識という本能習性に左右されない論理的思考に基づく判断というものは。動物的な行動習性によって説明されるようなものでは最初からないのである。


 養老孟司は科学的真理の追及に「日本の文化。」を持ち込み撹乱した。これはオリンパスの旧経営陣と同様の手口であり、合理性のない自分達の観念に基づく正義を温存維持するための「言い逃れ/取り繕い。」である。

 文系の研究者、及び文系観念に基づいて論理的自律判断のできない生物/脳科学者達が、誰も養老の支離滅裂さについては言及していないのは。彼らの誰にも科学的論理検証が全く働いていないことの証明である。その典型が澤口俊之である。

 漫然と他人の論文を論理検証もせずにひけらかし、その場限りに注目を集めることしか澤口には興味がない。澤口は養老孟司のことを「素晴らしい。」などと盲目的に崇拝しており、後から「科学的。」云々の話を枚挙しても「言い逃れ/取り繕い。」にしかならないのである。

 「ヒト。」という種の生物が「人間。」足りうるためには、本質的意識である論理検証による欲望(快楽)の選択が必要不可欠である。

 従って従来の生物/脳科学における、習性だの本能といった無意識的傾向性の枚挙によって。短絡的に「ヒト=人間。」という方程式を立証しようとすること自体が根本的に間違っているのである。

 「ヒト。」は漫然と無意識に生きているだけでは「人間。」ではない。SQで高得点を取って気分的に公益的役割を果たしているような錯覚に陥って満足してしまえば論理検証は失われ、その場限りの気分的満足/目先の大脳辺縁系の快楽によって何も考えなくなってしまうのである。


 脳科学が知能について言及する時は、必ず「試験合格。」だの「スポーツ順位。」といった極めて一面的で、「社会的成功。」につながるようなウケ狙いによって、論理的な知能論から意識を引き剥がすという手口を用いる。

 ヒトという種の生物は目先の「エサ。」として社会的成功をぶら下げられると、知能そのものに対する論理的検証性を追及しなくなってしまう傾向性/習性があり、これによって本質的知能についての科学的追及からの逃避/撹乱に陥っているのである。

 そもそもが学力の高さというものの根拠が、科学的真理を純粋に追及するためのものではなく。あくまで権威や多数からの評価/報酬を目的とした、極めて不純な動機によって促されている者の場合。どんなに「論理的思考能力試験。」で高い得点を得ることが可能であるとしても、得点/成績につながらない事柄については全く興味/意識が働くことはない。

 学力が高いだけで自律的に何も判断できないバカというのは、権威や多数からの評価だけが目的であり。むしろ自律判断に伴う責任を回避するためには自律判断など一切せず、責任は全て他人任せにしておくという姑息で機械的な判断しかすることはない。

 天下り役人の言い逃れや、原発開発者の取り繕いというのは、全て自律的な社会的責任判断の放棄のための言い訳である。こうした論理的根拠のない無責任を「言い逃れ。」に出来ること自体、それを鵜呑みにしている大衆凡民マスコミの無意識性を意味するのである。

 養老が論ずるような心情的訴えに対し、観念的に観念してしまうことによって意識を撹乱され。自分の無責任性と同調することによって「普通のこと。」であると勝手に認識し、自分自身の無責任性については完全に意識から外すことによって満足し、思考を停止させることが可能なのである。

 ヒトというのは平均的で普通の事柄に気分的「安心。」を抱き、それが問題であるかどうかすら論理的には検証しなくなるものであるからだ。



 多数派同調バイアスというのは本能的社会形成習性が促す気分的「安心。」である。気分的に嫌な話を無視する習性こそが正常性バイアスとして働くのである。

 気分的に嫌な話を無視しておけば、気分的には「安心。」であろう。それこそが危険性に対する認識を撹乱し、自律的判断を失う、ヒトの構造原理であり「習性。」なのである。こうした本能習性という「仕組み。」に無為無策に流されるだけで「自由意思。」など存在しない。

 目先の環境条件に左右されることなく自律的に社会的責任判断ができなければ「人間。」としての価値は存在しない。故に環境条件に左右される本能習性論からは人間としての社会性を論証することは不可能なのである。

 本質的意識の重要性について言及したからといって、いきなり人間としての社会性を論証できるわけではない。人間としての社会性というのは論証するようなものではなく、自分の行動を自律的に制御するという個人の本質的意識に依存するものであり。その重要性を認識することによって、その可能性を持つことが可能となる。

 論理的思考ができない文系観念に満足している大衆マスコミや生物/脳科学者達にとっては、本能的/気分的にできないことは誰にも不可能であるかのように認識しており、こうした論理性の欠落こそが本質的意識の重要性を意識から遠ざけ、無意識的な無為無策な本能習性論だけで全てを説明しようとさせるのである。


 ヒトの多くは、自分の意識の全てが論理思考に基づく「考え。」であると錯覚する。目先の気分的判断と、論理判断との違いは意識の強さによって区別可能であると錯覚しているのである。

 だが実際には、こうした意識の強さというのは感情の強度に依存するものであり。何ら論理判断によるものではない。

 「意識の9割は無意識。」である。従って本当の意識である論理的思考判断というものは、通常ほとんど働いてはおらず。論理的思考自体に全く「慣れて。」おらず、大抵の場合、何が論理的思考判断であるのかすら認識できていないのが実態である。

 本論の様な検証というものを、一体どれだけの者が自律的/自発的にできているであろうか。現実には私が論ずるまで誰も検証などできていないというのは、実際には「意識のほとんど全ては無意識。」といっても過言ではない。



 自律的に社会的責任判断をしたからといって社会的成功になる保証など一切ない。原発の危険性を訴えた研究者は排除されたのである。目先の社会的成功によって本質的知能論を撹乱されているというのは、無意識的で利己的で本能優先の非論理的な無思考性の証明である。

 社会的成功に意識を奪われていること自体が意識狭窄であることを、多くのヒトは認識していない。

 ショーペン:ハウアーが論ずるように、多数他者との幸福の比較に意味はない。幸福や安心/快楽といったものは、個人の脳の内部だけに成立するものであって。神経接続のない他人の脳との幸福の程度比較など原理的に不可能であり不毛なのである。

 ところがヒトというのは、目先の多数他人との比較に意識を奪われ、脳神経接続もない他人との幸福比較という無意識的価値観だけが全てであると錯覚する。こうした錯覚というのは本能的シーケンスに因る無意識的条件反射であり、本質的意識によって論理的に選択したものではない。

 社会的成功という多数他者との比較こそが、ヒトの欲望の暴走を促すのであり。錯覚によって無意識的であるからこそ暴走に陥るのである。

 感情的にどんなに「強い。」欲望であっても、その「強さ。」で選択判断が支配されている限り自由意思は働いていないのである。論理的思考というのは感情的な「強さ。」を伴うわけではないからだ。

 論理的思考/本質的意識というものは、感情的「強さ。」に左右されない冷静さと、感情による価値観の狭窄に陥らない自発的「意思。」なくしては機能することはない。


 文系観念に基づく大衆マスコミというのは、自分の気分に寄り添った都合の良い解釈だけを断片的に抽出して「元気が出る。」だの「勇気がわく。」といった観念論に帰結したがるためにニーチェの異常性が認識できず。また、生物学や脳科学が断片的結果の抽出だけで何かを普遍的に証明したかのように満足したがるのも、その場限りの気分を満足させるだけが目的であり。何ら普遍的真理の追及など初めから興味がないからである。

 こうした生物学の怠慢こそが優生学を放置する結果となったのである。これは重大な過失である。

 文系観念というのは結局利己的に気分を満足させることにしか意識が働いておらず、普遍性を持った真理など求めていないのである。従って彼らからは「人間とは何か。」についての普遍性見解など出て来る訳もなく、その場限りの取り繕いにしか意識は働かないのである。無論この「意識。」とは感情に左右された環境依存的な無意識である。

 たとえ、どんなに多数の観念を共有しても、観念であるという呪縛からは逃れることはできない。多数に同調しておけば気分的には安心であろう、その安心こそが思考を停止させ無為無策な観念のまどろみへと誘うのである。




 人間性にとって必要な本能があるのは当たり前である。様々な本能の中から最も大切な感情を選択するのは理性であり、本質的意識である。本能自体は環境に左右されるが、理性は揺るがないからこそ理性なのである。

 環境に左右されるような不安定性から脱するためには、理性という本質的意識以外には選択の余地などないのである。


 進化生物学的に人間性を本能的に獲得することは原理的に不可能である。しかし、後天的に自発的論理思考に習熟することは可能であり。これこそがヒトという種における本能以外の進歩の手段である。

 論理思考とは言っても、学力成績的に「論理的思考能力。」を獲得しただけでは意味がなく。あくまで自発的な論理検証性でなければ社会的な安全性も、また公益的知能としても役には立たない。

 自発性というのは生徒個人の自発性に委ねることであって。エサでつるような外見上の自発性の扇動では意味がないのである。

 どこぞの学習塾のCMではないが、「やる気スイッチ。」と称して暴走させても社会的には迷惑にしかならない。

 本当の自発性というものは環境を整えることによって、多くのヒトが陥るような「エサ。」に対する反射的動機ではなく。あくまで個人における個人的好き嫌いに依存するものであり、これを生徒が自発的に発見できるようにするためには成績に関わらず、より多くの知識に「触れられる。」学習環境を整えることが重要なのである。

 ところが教育ビジネスにおいては、成績という「数値。」評価自体が目的になってしまっており。生徒の知見を拡めることが蔑ろにされているのである。これが生徒に対する大人の方の「情報統制。」になってしまっているのである。

 全ての生徒が平均的に何でも高い成績を取る必要性はなく、生徒個人が望む能力について徹底的に伸ばせる環境を整えてやれば良いのである。

 やたらとジェネラリズムだとか称して、何でも平均的に可能な成績バカを大量生産しておけば自動的にジェネラリズムを持った者になると勝手に妄想しているフシがあるが。こんなものは何の論理的根拠もない文系観念/大衆迎合でしかない。

 ジェネラリズムというのは、あくまでスペシャリストとしての経験を経た上で築かれるものであり。何ら得意な分野を持たない平均的に無能なバカを生産してもジェネラルとしては使い物にはならないのである。

 ジェネラリズムを発揮できるかどうかは、分野によっても、また個人の素養によっても異なるものである。別にジェネラルになりさえすれば「偉い。」訳でも何でもなく、どのような役割であろうとも、割り当てられた能力を充分に発揮できることこそが社会的役割を果たすということなのである。

 肩書だけ「社長。」だとか「東京大学名誉教授。」になりさえすれば偉いのではない。米国大統領になりさえすれば「偉い。」のではなく、あくまで役職においての役割を存分に果たしてこそ人間個人としての価値になるのである。

 結果的にオリンパスのマイケル:ウッドフォードは会社を辞めなければならなくなったが、彼の英断の価値が下がるわけではない。肩書などの「世間的成功。」と人間個人としての価値は無関係なのである。

 人間個人としての価値が、世間的に認められないのは。世間の多数がバカで占められているためである。バカの集団内部においてはバカげた人間しか認知されることはないのである。カルト宗教内部においてはキチガイでなくては幹部になることはできないのと同じことである。

 体制腐敗は放置されるが、社会的責任や公益性は蔑ろにされるのは。大多数のヒトが腐敗に迎合し利己的利益追及に終始し、責任逃れをしようとするからである。

 誰も社会的責任を負わず、利己的利益追及ばかりを求めているから体制は腐敗するのである。大王製紙の元会長がギャンブルで散財「出来た。」のは、元会長個人だけで成立する行為ではなく。それを支える多数の迎合者達によって作り出されたものである。カルト宗教同様に、トップの者だけで体制腐敗は作り出されるものではないのである。

 「自分一人の力ではどうにもならない。」と称して、ヒトの多くは自分自身で責任判断を行おうとはしない。こうした無責任の集積によって体制腐敗は温存されるのである。これは子供のイジメがなくならないのと同じ構造である。

 子供時代にイジメに反対しても、体制からの排除に遭うことによって。体制には迎合しておいた方が保身になることを行動「学習。」してしまえば、誰も自発的には体制腐敗への異議申し立ては行わなくなる。

 その方が気分的に「安心。」であり。これこそが本能的な社会形成習性として腐敗温存機能として働くことになってしまうのである。

 より多くの者が腐敗に異議を唱えれば、腐敗は進行する前に自浄作用が働き。社会的責任を負うことは世間的にも排除の対象にもならないのである。

 こうしたシンプルな機能が働かないのは、多くのヒトの無意識性による体制腐敗の放置という、精神的怠慢が根源にあるからだ。


 こうした話を繰り返しても、大抵のヒトは「自分だけは大丈夫。」だと勝手に錯覚して満足し、何も意識に残らない。そして、こう述べるであろう。「だって、大体みんな多少はやっているよ。」と。

 こうした多数派同調性による、気分的「安心。」こそがあらゆる体制腐敗の根源にはある。そして、こうも述べるであろう。「だって、生きるためには。」と。「生きて。」いさえすれば人間個人としての価値になるわけではないことは、既に何度も論じたつもりである。

 これらは全て、その場限りの「言い逃れ。」「取り繕い。」である。従ってマトモに議論しても不毛なことはわかっている。チンパンジー相手に自律的な社会的責任判断を求めているようなものであるから、不毛なのも必然というものであろう。しかしどんなに少数であろうとも不毛ではない者がいるのであれば、多少なりとも社会貢献につながるかも知れない。私がこの文章を書き続けているのは、こうした「希。」な「望み。」のためである。

 豚の欲望は「希望。」とは言わない。そんなものはちっとも「希。」ではないからである。

end;
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