書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

文武両道。

2012年03月13日 15時18分13秒 | 意識論関連
 一般的に言われる「体育会系。」への文系観念においては、厳しい規律に従う厳格な人格形成が養われるものであると思い込まれている。

 しかし、実際には体育会系集団というのは本能的な社会形成習性を用いて特定の統率者に従順性を強要する手法であり。これは特定の統率者以外にとっては従順で扱い易いために、統率側にとって都合が良いために、これを人格性であると勝手に思い込んでいるだけの洗脳錯覚状態に過ぎない。

 少年野球の集団は、統率者のいる練習場においては従順に服従するが。練習場の行き帰りにおいては自転車を並走させ仲間同士のお喋りに夢中になっており、全く他者への配慮がなく、自律的に社会的責任判断を誰も行うことはない。

 犯罪率の低い国において、特に文武両道が必須科目になっているわけではなく。文武両道が人格形成に結び付く論理的根拠など全くなく。あくまで「日本の文化。」として固定観念的妄想として文系の論理的に思考できないバカげた因習に過ぎない。

 人格形成にとって最も必要なのは自律であり。これは個人の自発的行動選択の結果であり、外見上の従順性を植え付けるだけの権威や力を用いた強制性こそがこれを不具にするのである。

 オランダの小学校において必須とされるのは、決して統率者に対する従順性ではなく。あくまで集団における個人の自律的問題解決能力の育成が最も重要視されているのである。

 オリンパスや養老孟司のように「日本の文化。」を持ち出すのは、そこに論理的根拠や自律的責任判断というものを無視するための言い逃れに用いられる場合がほとんどである。指導者自身が自律的に論理的判断を放棄していれば、生徒に自律が育たないのは必然的結果というものである。

 文武両道を必須と決定した者というのは、論理的に何も考えることの出来ない文系観念に染まった単なるバカに過ぎず、こうしたバカを集団内部に温存する非合理性というものも「日本の文化。」というものである。

 文系観念と生物学の親和性の原因として、「強さ。」への異常な執着というものがある。生物的に強く、生存価に適していることこそが人間の価値であるという、論理的根拠のない身勝手な観念を優先するあまり。権威に疑問を抱く批判精神を持った自律的な責任判断能力を不具にし、目先の扱い易さを人格と勘違いする頭の悪いバカを大量生産する手法だけが優先されてしまうのである。

 戸塚ヨットスクール的な権威による強制性というものが個人の自律というものを失わせ、自律的に社会的責任判断を行う批判精神を不具にしてしまうのである。

 これは短絡的従順さを強制するだけの手抜き教育の典型である。こうした短絡的手抜き教育をしておけば、多数の大衆マスコミは気分的に安心し、あたかも社会安全性が向上するものであると勝手に勘違いすることは簡単である。これこそが思考の怠慢であり、教育者の手抜きに他ならない。

 文武両道を必須科目にしておけば、マスコミ大衆のご機嫌を取ることは簡単である。しかし、これこそが大衆迎合でありとんでもないペテンなのである。

 権威性や力を用いて統率服従させておけば、ヒトの子供は簡単に服従するようになり。また、簡単に服従するような子供というのは本能的で無意識な子供でもある。

 ヒトという種の生物には、本能的な社会形成習性というものがあり。統率ヒエラルキーを観念的に規定しておけば、服従によって順位欲を満たし、自律的な責任判断を放棄して「言われた通りにさえ行動しておけば評価される。」という「エサ。」に対する機械条件反射的行動として、その場限りの統率行動/従順さを発揮するのである。これを短絡的に人間としての社会性/人格性であると「思う。」のは大間違いである。そこには何ら「考え。」が成立していないからである。

 子供達だけで学習内容すらも自発的に選択させた状態においても、「人はそれぞれ違う。」ことを許容することによって。初めて他者の選択を尊重するようになる。日本ではこうした「人はそれぞれ違う。」という根本的な他者の許容を拒絶し、「心を一つに。」統率的な服従性によって気分的安心を得ることばかりが優先されてしまうことを「日本の文化。」などと形容しているのである。

 確かにオリンパスの経営陣は統率的に粉飾決算を隠蔽し、責任逃れをすることによって「生存。」価に適した行動を採ることが出来ていた。これもまた非常に生物的な「強さ。」であると言えるであろう。

 早稲田大学の集団強姦を「元気。」と形容した政治家がいたが、こうした生物的な「強さ。」というものを発揮しておけば満足してしまうのが文系マスコミ大衆観念というものである。

 文系マスコミというのは統一的な思想、思考というものは存在せず。ただ目先の多数大衆に迎合してさえおけば金になるという、極めて短絡的で利己的な動機でしか報道を行わない。マスコミがかけるバイアスに無意識に流され、その場限りの気分的安心によって思考を停止してしまえば、どんなに制度上民主主義システムを導入していても「バカ主義。」にしかならないのである。

 文武両道という体育会系観念が個人の人格を養う論理的根拠など存在せず、社会的責任判断を行うべき自律を不具にするものでしかないことを多くのマスコミ大衆は認識したがらない。

 「したい。」とか「したくない。」というのは気分の問題であり、大脳辺縁系の反射に過ぎない。こうした「自然の流れ。」に無意識的に無為無策に流されるだけなら、どんな重大事故や事件が発生しても誰も責任を負わないということでもある。

 気分的に安心であっても危険なことを放置してしまうのは、それが錯覚だからであり。錯覚を作り出すのは無意識的な思考の整理/ドーパミンが作り出した気分的安心に対する機械条件反射的判断によるものである。

 論理的に「するべき。」か「やめるべき。」かどうかを判断することが「安全。」性に寄与するのであって、気分で物事を判断しているからヒトが引き起こすあらゆる諸問題というのは一向に解決しないのである。

 武道という、いわば暴力の手法を義務教育において強制する必要性などない。それこそ自発性/意欲が伴わずに武道を行うことは非常に危険なものである。武道というのは科学や哲学といった普遍性を持ったものではなく、あくまでスポーツであり美術芸術と同じで普遍性とは無関係の分野である。

 養老孟司が述べた「身体の扱い方。」などという論理整合性のないバカげた観念を共有しているから子供が無駄死にするのである。「禁煙と書かれた看板の前で煙草を吸う。ほら、私は脳化していない。」などというバカげた話を鵜呑みにし、東京大学名誉教授に祭上げておく無意識性こそが、社会安全性を崩壊させるのである。

 犯罪率と「身体の扱い方。」の統計的相関など存在しない。あくまで養老が日本における大衆観念に迎合するためにでっち上げた論理撹乱に過ぎないことを、多くの大衆マスコミは自律的には認識できないのである。こうした無意識性こそがヒトの持つ最も重大な問題点であることを認識しなければならない。

 バラエティ番組で人気を得ている脳科学者澤口俊之は、養老の言っていることに論理整合性がないことを全く指摘せず、漫然と「養老先生は素晴らしい。」などと形容している。フジテレビは澤口の人気による権益を保持するために生物/脳科学の観念のプロパガンダに加担しているのかも知れない。

 あくまでマスコミは視聴率や販売部数といった直接的利益につながる判断しか行わないことを、市民は認識するべきである。それができないから大衆凡民でしかないのである。

 生物/脳科学界はヒトの社会形成習性の存在について検証しているかのように言い張るかも知れないが、彼らは習性から人間としての社会性を立証しようなどという、論理的に不可能な観念の立証しか求めておらず。何ら論理検証など行ってはい。ゴルフのパターの成功率を根拠に無意識機能こそが人間の存在価値であるかのごとく言い張る脳科学者達というのは、要するに生物学的社会形成習性が及ぼす社会性危険性を隠蔽し、従来の観念を温存するための「取り繕い/言い逃れ。」に過ぎない。

 彼らもまた生物的には「強く。」、「生存。」価に適しているとも言えるであろうが。人間としては利己的な欲望に基づいた体制維持に加担しているだけである。

 どんなに組織的に高度な役割分担を行っていようとも、それだけなら振り込め詐欺にでも可能な本能的習性に過ぎない。生物/脳科学界というのは権威性を傘に詐欺行為を温存することしか考えてはいないのである。

 何せ生物学者というのは生物の行動習性が大好きなので、行動習性の全てに正当性をこじつけることこそが彼らの快楽であり。正当性に反する行動結果を隠蔽撹乱することしか考えてはいない。分野としては科学に分類されているが、彼らは論理的思考による検証というものには興味がないのである。故に養老は科学的な真理追及に「日本の文化。」を持ち込んだのである。「日本の文化。」を持ち込んでしまえば日本人の正当性が立証できるという大衆観念によるナショナリズムによって安心感を与え、思考を停止させられることが可能であるからだ。

 真理を追及しないということは、すなはち過ちや嘘を放置するということである。それなら原発が暴走しようとも詐欺が横行しようとも文句を言えた義理ではない。

 日本人の理科離れというものも、個人の自律的な論理検証性が育まれていないことが原因である可能性は高い。自分自身で自発的に理解するということが「文化。」として根付いていなければ、純粋に科学的知識を楽しむことはできないからである。科学というのは答がない、あくまで「今のところ、ここまでわかっている。」ことしか教えようがないのが科学である。従って、そこから先は自分自身で自発的に探究してゆくべきものであり、そこには予め社会的評価報酬という「エサ。」が与えられる構造が存在しないため。純粋に自発的探究心がなければ苦痛にしかならないのである。

 他人を投げ飛ばす技術を必須科目にする「日本の文化。」を振り回しても、個人が自律的に社会的責任判断を行うようにはならない。大学の体育会系集団が麻薬だの強姦を行うのも、彼らは権威者に服従することを行動「学習。」しただけであって、何ら自律的行動責任判断というものが育っていないからである。


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