書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

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2012年03月25日 16時36分54秒 | 意識論関連


○競争。

 大人は子供に対して、将来の生活についての責任を負うことは出来ない。

 「これさえやっておけば、将来の生活は保障される。」かのように、あたかも子供達の為を思って学力競争を勧める学力ビジネス関係者達がいるが。実際には彼らは子供達の学力の向上による自分達の評価報酬を目的としているだけであり、何ら子供達の将来になど全く責任を負うつもりなどない。

 そもそも大人は子供達が大人になった後の生活について何ら保障や責任を負うことなど原理的に不可能なのである。

 自分の将来を自分で切り開くという自発性を育てるためには、原理的に不可能な「嘘。」に基づく利己的詐欺行為をやめさせる必要がある。

 嘘を前提にしておいて真理など追求されることはなく、これはすなはち科学的普遍性も確立できず。結果的に安全性というものに対する貢献も得られない。


 固定観念に基づく無意識な競争意識(無意識)である以上、与えられた固定観念に基づいた競争しかすることはなく。そもそも目的自体が他者からの評価報酬であって、報酬に結び付きそうにないことには誰も挑戦しなくなる。

 このように純粋で自発的な競争ではない場合、純粋に競争に没頭することができず、どうしても他者との順位に意識が働いてしまうため。自分よりも優れた者に対する嫉妬によって妨害を行ったり業績を捏造したり、或は簡単に諦めてしまう。

 社会安全性についても、本質的な自発性がない者には自律的な社会的責任判断も行われることはない。


 学力ビジネスによる無責任で過度な競争というのは、子供の本質的自発性を奪い。あらゆる本質的な人間としての知能を奪うことになる。

 しかし、多くの親達は既に存在する学力ビジネスに対する検証性もなければ、既に存在する学力至上主義に迎合する形で社会的成功や競争での勝ち負けにしか意識が働いておらず。社会全体の安全性や公平性や幸福といったものへの意識を失っており。本質的な人間としての存在価値を忘れ目先の脅迫観念的な競争に積極的に迎合服従するだけである。

 こうした無意識で体制迎合による目先の気分的安心ばかりを追求しておいて、長期的持続可能性など構築される訳がないのである。


 競争は激化すれば単なる奪い合いにしかならない。その暴走は無意識では抑制することはできないのである。無意識的に強迫観念を植え付けてしまえば暴走しか導かない。

 世間的貧富比較による勝ち負け論という、いうなれば「犬の勝利。」が絶対的価値観であるかのように論ずるのは、論じている者の頭には長期的持続可能性の重要性が欠落しているからであり。それ自体が人間として出来損ないであることには意識が働かないのである。

 無意識な者というのは自律的には何も気付くことが出来ないものなのである。

 犬の価値観に基づいた物質的勝利をどんなに追求しても、社会安全性も長期的持続可能性も確立されることはない。これはすなはち人間としての本質的知能自体が働いていないということでもある。

 社会安全性や長期的持続可能性がないというこは、これは本質的な精神的安らぎも得ることは出来ないということでもある。ブータンには「ストレス。」などというものは言葉すらないという、他者との比較競争というものを強迫観念的な刷り込み「学習。」されている日本人というのは、日本の文化と称して虐待を連鎖しているようなものである。

 犬の勝利に執着してしまうのは、それが無意識下に強迫観念として刷り込まれているからであり。無意識的強迫観念という感情の強度だけで行動が選択されていれば自律的には自分の行動を選択することはできない。

 本質的自発性が伴わない場合、手抜きが行われる。他者からの評価に結び付かない、「誰も見ていない。」場所では自発性がなければ手抜きという無責任行動が不可避なのである。本質的に自発性がある行為であれば、行為自体に自分自身の満足がゆくまで徹底して行われるものである。「趣味に手抜きなし。」とはそういうことである。



 過度な競争が悪いからといって、競争自体から強制的に隔離するのは間違いである。あくまで自発的な行為における他者との競争は悪い影響にはならない。あくまで「過度な。」強制的で均一的な個性を重んじない競争が悪影響をもらたすのであり。重要なのは個性を重視した選択可能性であって、競争そのものではない。

 学力自体を目的とするのではなく、子供個人における本質的な自発性「動機。」を養うのが教育において最も重要なものであり。動機が明確になれば学力というのは結果的に伸びるものなのである。

 そもそも学力が高さと社会安全性は比例するわけでもなければ、幸福とも比例しない。一体何が最も人間において重要であるのかという極めて根源的価値観への意識が喪失しているから、社会に無責任や精神的ストレスが蔓延することになるのである。

 大量に酒を呑んでバカ騒ぎをしなくてはストレスが発散できない日本人というのは、そもそも相互信頼関係を築くことが出来ていないからである。相互信頼関係というのは社会安全性なくして有り得ない。

 日本人全体に「文化的。」に虐待の連鎖というカルト性が染み付いていることを、多くの日本人は自律的には認識することができないのである。オウム真理教だのヤクザだの振り込め詐欺、通り魔といった異常行動が発生するのは。そもそも「日本人の文化。」的に相互信頼という本質的精神の安らぎを喪失しているカルト性によるものである。

 自分の周囲、多数他人が異常な場合。異常であることが「普通。」になってしまい、安心して異常集団に迎合服従してしまう習性というものがある。

 ブータンにおいても、北欧諸国においても、無意識的な「普通。」というものは存在はする。ヒトという種の生物には多数他人との価値観の共有が気分的に安心な性質というものが普遍的に存在する。ところが集団が異常であればあるほど、その集団には意識の狭窄性が存在するため、本質的意識による抑制制御が働かず、破綻に至るまで暴走することに陥るのである。

 ヒトは既に存在している自己を事後正当化する習性がある。既に無意識的に刷り込まれた価値観に基づいて感情や気分による無意識な行動に邁進しておけば安心なのである。

 無意識的な価値観というものが本質的には自己自身によって選択されたものではないという、理論的根拠を多くのヒトは感情的に受け入れることが困難である。





 東京大学の卒業式では、「あらゆるものを根源的な部分から疑え。」といった趣旨のことを卒業生に論じていたが。学校における「教えたことを鵜呑みにすることで成績評価と見なす。」構造原理に基づいて促された学力である以上、論理検証性も批判精神も働くようには育てられてはいない。

 言い換えれば、「俺の言っていることは無批判に鵜呑みにしておけ、だが他人の言っていることは疑え。」と言っているようなものであり。これは洗脳以外の何物でもなかろう。

 東京大学を卒業できるということは、すなはち過度な競争における最も先鋭化された者達である。マイケル:サンデルが促す思考誘導にも気付くことが出来ずに鵜呑みにしているバカがどんなに既存の学力基準において高い成績を得ることができたとしても、所詮は高学力なバカであることに変わりはない。


○くれ文。

 「○○して下さい。」というの言い分を「くれ文。」というそうである。

 要するに命令或は要望のことである。これが心の折れた人にとって心理的負担になるという。

 心理的に生きる気力を失った人にとって、目先の生存を要望されるよりも。むしろ希望となる将来性や持続可能性を持てるようにならなければ気力を取り戻すことはできない。

 人が絶望するのは、あくまで予測における将来への望みが失われているからであり。この将来への望みを無視して目先の生存だけ望まれても、反って鬱陶しいだけであろう。

 末期癌などにおける延命処置によって、苦しみ以外を得ることが原理的に不可能である場合。尊厳死という選択が存在する。死ぬことというのは決して悪いことでもなければ卑怯なことでもない。

 しかし隣人が絶望して自ら命を絶つ社会は、果たして幸福であると言えるであろうか。

 たとえ物質的な富を得たとしても、人間にとって最も幸福なのは自分の生きる社会の平穏なのである。

 人は必ず死ぬ。物質的富をどんなに追求しても本当の心の平穏は得ることができず。むしろ富に執着してしまった自己の行動を事後正当化しておかなければならない無意識的反射行動として富に執着し続けていなければならなくなってしまうのである。

 それは、むしろ無限の地獄である。

 富に執着した者の多くは、最終的に破綻に至るまで自律的には自分の行動を抑制することが出来ない。元西武グループの会長や、元大王製紙会長、元オリンパス会長らに見られる自制心の欠如というのは。結局北朝鮮の国家元首やカルト宗教の教祖と同じである。

 服従するに値しない統率者の命令に、無為無策に多数で迎合してしまうから異常者を頂点とした社会体制というものが放置され。結果的に社会安全性や持続可能性、公平性といったものが失われてしまい。なを且つこれらを是正する「意識。」さえも失われてしまうのである。

 無意識に機械条件反射的に行動していれば、たとえ破綻が生じても是正や修正といった脱構築はされることはない。


 都市は「意識の産物。」ではない。断片的に計画性があったとしても、それは場当たり的に取り繕っているだけの計画性であって。単なるコミュニティーの無意識的巨大化高機能化にすぎず、都市とは欲望の産物であり無意識の産物である。

 断片的には高度医療や科学技術の発展が可能ではあるが。これらが必ずしも個人の幸福に結び付くわけではなく。医療費の高騰や原発の暴走という巨大な不幸を招くこともある。

 科学や医療における暴走というものも、そこに統一的目的意識が存在せず。ただ漫然と業績や報酬を無意識的に追求してしまった結果である。

 ヒトが引き起こす「暴走。」の全ては、そこに本能的欲望による無意識が働いているからである。


 ヒトという種の生物は、地球上においてもっと心安らかに生きることが可能なのである。しかし心の平穏安らかさというのは、目先の他者との競争や物質的富の前において非常に小さく質素に見える。

 悪魔の声は大きく、天使の声は小さいものなのである。

 自分の中にある天使の囁きに耳を傾けるためには、目先の欲望や感情に流されない「意思。」が必要である。

 虐待を連鎖する親のように、無意識的に刷り込まれた既存の価値観に基づいて自分の子供に暴力を振るっていれば、何も考えずにいられるので気分的には安心である。無意識的に刷り込まれた既存のあらゆる価値観というのは、なにがしかの連鎖であり、本質的な自己自身による選択を介さない「業。」というものである。

 多くのヒトは、感情の強さに由来する行動選択のことを「意識。」であると錯覚する。感情そのものが無意識的条件反射であることを、多くのヒトは理論的に理解できていないからである。

 目先の感情に左右されず、冷静に合理性を追求する「考え。」こそが本質的「意識。」である。




 自由主義経済における「個人の富を追求することこそが社会の発展を促す。」というのは嘘である。富の追求という欲望は暴走を促しているだけであり、これは本質的な知能による業績の横取りや搾取しか促さない。

 バブルという金融暴走で儲けても長期的持続可能性社会には貢献することはなく、むしろ破綻を招くだけである。暴走は発展ではない。一時的短期的に富を得ることは人生全体においての本質的幸福などではないのである。

 暴走へと洗脳されるのは簡単である。気分感情のおもむくままに無意識に流されることは、とても簡単で楽なのである。気分的な満足によって大脳辺縁系を満足させておけば、意識狭窄に陥ることによって「考え。」なくても安心することができるからである。




○経済学者:飯田泰之

 「市場機構とは極めて良く出来ている。」これは程度問題である。決して絶対的保障などない。自然界が「とても良く出来ている。」からといって絶対的に安定していることの論証にはならないのと同じである。三陸の沿岸が漁場として豊かである「良く出来ている。」ことが、絶対的に住民にとって恒久的に富をもたらすわけではない。

 「型/定石に基づいた選択をすると世間的にはうまくゆく。」個人が世間的にうまくゆくことは、必ずしも社会全体にとって公共益に適するわけではなく。個人が個人の利益ばかりを追求した結果、社会の崩壊を招いたとすれば。これは個人にとっても決して幸福とは言うことができない。


 どうも飯田泰之に限らず、経済学における固定観念というのは統合的理想を無視したがる習性があり。とかく目先の快楽だの利益だのといった主観的欲望ばかりを絶対的基準にしたがる。

 飯田がやたらと主張するのは、「人間ってバカだから、統合的理想なんてわからない。」という話である。これは逆に言えば、統合的理想を認識するという面倒臭いことを意識から遠ざけるための言い逃れとして「自分はバカだから。」或は「皆バカだから。」という共通認識の刷り込み洗脳である。これは養老孟司が「ヒトとはそういうものである。」と定義して実証と観念を観念的に「丸め。」たのと同じ手口であり、何ら論理的根拠/論証にはなっていない。

 経済学者というのは、なまじ大量の情報を「知って。」おり。いわば学力成績が高いために、自分の知能で理解出来ない、或はしたくないことであるならば誰にも理解はできないものであるという。自分を基準にした知能制限性を絶対であると勝手に規定しているのである。こうした卑屈さを、多くのヒトは謙虚と錯覚する。

 学力が高く、役所の勉強会で講師を勤めていれば。「自分こそが頭が良いから、自分がわからないことは。他人が認識することなど不可能である。」という傲慢さが働いているのである。

 同時に多くのバカ役人達も、勉強会の講師が教えることを鵜呑みにしており。こうした論理検証性の欠落による批判精神の欠如が生じているのである。

 こういう学力が高いだけのバカの講義を鵜呑みにしておいて、世の中良くなるわけがないのである。

 「今まで誰もわからなかった。」からといって、「永遠に誰もわかることが不可能である。」ことの論証にはならない。

 大切なのは「解ろう。」とする意思であり、探究心である。多数の事例を挙げて「解ろうとすること。」自体を放棄するのは、本質的自発性による純粋な探究心が欠如しているからである。

 今までわからなかったとしても、もしかしたらわかるかも知れないし、わからないままかも知れない。自発性がなければ業績にも評価報酬にも結び付きそうにもないので、簡単に「わからない。」と分類して思考自体を放棄することで満足しているだけである。

 しかし、純粋にわかりたいという意思があれば、わからない可能の方が高いとしても、わかろうとはするものであり。より深い思考探索が行われるものなのである。


 経済学者などというのは、経済産業省のバカ役人に講義でもしていれば生活が成り立つので。教わったこと以上のことには何ら思考が成立しないのである。

 型や形式がなければ、多くの凡人は無能ではあろう。だが、型だの形式の源を作ったのは一体誰であろう。教えられたことしか出来ないことを正当化するためには、バカにとっては多くのヒトはバカでなくてはならないのである。

 天才というのは天性の能力である。自発的に純粋に課題に取り組む姿勢という、天性の問題意識なくして天才は生まれることはない。バカ同士でバカの共通観念を共有しているから天性の才能が失われるのである。個性なくして天才など有り得ない。

 多数の無能者を陳列枚挙することによって、あたかも「永遠にヒトとは無能な存在である。と勝手に規定するというのは自発性の欠落した世間ウケ目当ての大衆迎合が目的であり。何ら社会の問題自体には興味はないのである。

 それなら何の問題解決策も創出できないのは必然というものである。


 世の中の事象全体像をいきなり捉えることは確かに困難ではある。しかし、根源的認識の間違いを論理的に検証することによって、従来よりは確実に全体像は鮮明になる。

 論理検証というのは各論でしか明確にできないが、そもそも与えられた課題の中でしか論理検証することが出来ないというのは、自発的に純粋に問題点を追求する意思がないからである。

 勉強会だの講義というのは、一面的で断片的な問題や事柄についてのみ限定して思考を求める。勿論これも大切ではあるが、与えられた限定性を超えて、例えば議論の題材そのものの根源的間違いに言及するということは誰もやらないのである。

 それは、そもそも自発的興味「意思。」に基づく考えではないからである。題材を与えられて反射的にあれこれ論ずるのは実は簡単である。ハーバード大学や東京大学のバカ学生にでも可能なとても簡単で短絡的なものである。

 講師が提起した問題についてのみ思考するというのは、これは環境依存的なものでしかなく。チンパンジーの瞬間記憶芸と同じ構造に過ぎない。講師が提起した問題自体の問題点に誰も言及しないのは、バカ学生達には自発的問題解決の意欲/意思がそもそも欠如しているからである。

 マイケル:サンデルは、何ら画期的問題解決策も出て来ないにも関わらず、「今日はとても有意義な議論が出来ました。」などとはぐらかし、バカ学生達はこれを鵜呑みにして気分的満足という短期的効用を得るのである。ハーバードの講義というのは、こうしたペテンによって学生のご機嫌人気をとっているだけであって、むしろ学生達の頭は気分的満足によって益々バカになるのである。

 こうした短期的効用ばかりを追求しているから、何ら統合的で画期的解決策に到達することができないのである。

 ヒトの行動というのは複雑系でChaosである。だが、人間の行動というのはその限りではない。それなら「人間とは何か。」についての根源的認識の誤りを正さないことには話は全く進まない。

 チンパンジーの記憶芸程度の能力で、あたかも自分の頭が良くなったような錯覚に陥って満足している学生達には、何ら根源的認識の誤りに気付く論理検証性は働かない。だから生物/脳科学界の腐敗が放置されるのである。




○意識してしまう。

 一般的に「意識してしまう。」という言葉が良く使われるのだが。「してしまって。」いる時点で本質的意識ではなく、無意識的な緊張感のことを「意識してしまう。」という用い方をしているのである。

 一般的/文系観念的に用いられる「意識。」というのは、実際にはほとんど全ての場合において無意識のことを「意識。」と呼んでいる。

 本論以外における「意識。」に関する考察のほとんど全ては無意識的価値観バイアスについてのものである。

 なんとなく、うっかり、いつのまにか、してしまっている。こうした無意識的価値観バイアスを、ヒトの多くは「意識。」と呼んで「しまっている。」のである。

 養老孟司の意識誘導にも、しばしばこうした文系固定観念を用いた文面上での錯覚が利用されている。

 脳科学が主張する、「緊張によってゴルフのパターが失敗する。」という話も、本当は本質的意識が邪魔をしているのではなく。「ついうっかり無意識に緊張してしまっている。」だけのことであり。本質的意識が邪魔をしている訳ではない。これもまた文面上における錯覚を利用したペテンの手法である。

 自発的発想の欠落した者というのは、個人的主観の多数抽出枚挙をあたかも普遍的絶対性であるかのごとく思考を誘導するのである。

 そして、こうした意識誘導に簡単に引っ掛かる多くのバカの習性こそが、あらゆる問題の根源に蔓延っているのである。

 経済学に限らず、目先の短期的効用の追求ばかりをしてきた結果が、現在における長期的持続可能性の喪失を招いたのであり。目先の短期的効用にだけ意識を狭窄化することを勧めるというのは人間の行動選択として異常であることを認識すべきである。


 これって、いちいち説明しないといけないことかね。



○個性の放棄

「皆の中で浮く。」

 本能的に他人との差異を嫌うからこそ、本来何の害もない差異によってイジメなどの排除が生ずるのである。

 こうした「浮く。」という感覚は、あくまで感覚であって、均一化への本能的働きである。こうした本能による感覚こそが観念的な「空気。」を作り出すのであり、こうした「空気。」を多数で共有したところで現実に大気組成に影響を及ぼすようなものではなく。あくまで多数の脳内における本能的反応の共有に過ぎない。

 本能というものが本質的には自己選択によるものではないことは、既に嫌という程論じてきた。今更説明し直すのも面倒臭いので古い記事を読め。

 シエラレオネの少年ゲリラ内部においても、こうした本能的「空気。」による「浮く。」感覚というのは。むしろゲリラのような本能的集団においてこそ強く働くものであり。僅かな個性であっても排除の対象となりうる。

 本能的に組み込まれた無意識的均一化というのも、生物学における社会形成習性の結果であり。これが他者との差異を忌み嫌い差別や排除といった人間としての社会性の欠如を引き起こす原因となる。

 「みんな違っていて構わない。」というのは、先天的に組み込まれた無意識本能による認識ではなく。後天的に意識的に認識しなければならない意識的公平性の源である。しかし本能的無意識による機械条件反射的「感覚。」というのは、これを拒絶する性質がある。

 あなたの本能習性というものは、誰の意思も選択も関与してはおらず。誰の責任でもない。しかし、人間として社会の中で行動する上において個人が自己自身の行動に責任を持つためには自己の本能習性というものをどう扱うのかには責任を負う義務からは逃れられない。

 個人が自己の行動に責任を負わなければ迷惑を被るのは当たり前のことであり。他者に求めることを自己自身が担保するのも当然のことである。

 ところがヒトの多くは目先の感覚的な「安心。」こそが意識の全てであるという錯覚に基づいて、目先の集団に迎合服従し、感覚的均一性を追求してしまいがちである。

 イジメが行われている教室においては、こうした感覚的均一化だけが働いており。論理的思考による抑制というものは働いていないのである。

 子供達だけで漫然と集団を形成させておけば、自動的/機械条件反射的にイジメは発生するものである。ヒトという種の生物は、集団内部においてイジメを行うものなのである。

 こうしたシーケンスに抗うのが論理的合理性であり、本質的「意識。」である。これなくして本質的な「人間としての社会性。」は成立しえない。

 規則風習に迎合服従しておけば気分的には安心であろう。だがそれは本質的な「心の平穏。」ではなく、目先の気分的安心でしかない。言い換えればヒトとしての大脳辺縁系の反射的「安心。」と、人間としての広い視野/意識に基づいた本質的な「心の平穏。」の違いである。

 頭の悪いバカであれば、目先のバカ同士で気分的安心だけを共有しておけば満足であろう。こうした極めて短期的効用の追求という意識狭窄性こそが、普遍的人間性としての行動判断を阻害しているのである。



 固定観念に基づいた行動が短期的な効用/世間的成功に結び付きやすいからといって、短絡的に型や固定観念を正当化するというのは、短絡的な意識狭窄性の蔓延に導くだけである。

 ヒトの多くは知識の「量。」を知能/知性であると錯覚しがちなため、たくさんの知識のひけらかしによって、あたかも知能が高く、盲目的に信頼しておいても良いような気分に陥りがちな習性がある。

 私は過去の権威性からの引用というのをしない。そもそも多くのヒトは過去の権威性という固定観念に基づいてしか物事を考えていないから、何も肝心な事実に気付くことができないのである。

 過去の権威性が論じた内容には相互の論理整合性がない。それなら過去の権威性の論証に間違いがある証明でもある。そこに全く踏み込まずに、枝葉ばかりを整えようとしているから根源的間違いに誰も気付かないのである。

Ende;