○物質欲から精神欲へ。
精神欲とは言っても、カルト宗教にハマって精神的に満足されても迷惑なだけである。
本当の精神的充足というのは、本質的自発性による純粋行為によってもたらされるものでなくてはならない。
カルト宗教や占い/スピリチュアルの類による満足というのは、自発的で純粋な興味によって満たされるものではなく。あくまで環境依存的に他人から提供される強迫観念的な満足である。
結局クソゲーと同じで、ヒトの行動習性として気分的に満足「安心。」するように誘導されたものに過ぎない。
原発の研究者が宗教だのスピリチュアルに心酔していれば安全性が確保出来るのかといえば、そんな論証は成立しない。
教化的(洗脳的)状態というのは、「これさえやっておけば、社会のあらゆる問題の全ては解決する。」という思考停止性が働いているかどうかであり。本質的な自発的思考による論理検証性が働いていれば、こうした盲目的思考停止状態には陥らないのである。論理検証性というのは本質的自発性がなければ行われることはない。
つまり、物質欲から精神欲へのシフトだけでは充分ではなく。純粋な自発的欲求とは何かが認識できていないとカルト集団が増えるだけに陥りかねない。
本当に純粋であるならば原子力の研究を行っても構わない。原子力を経済上でのエネルギー問題にすりかえることによる利権が目的で原子力を推進するから、これには本質的自発性がないから利己や保身が優先され安全性が損なわれることになるのである。
純粋に本質的自発性に基づいて行われるものかどうか、これは外見上見分けはつかない。同じことを行っていても人それぞれ本当に主観的に楽しいかどうかは個人差があり、分別自体は当人の意識次第である。
ノーベル賞受賞者の田中耕一氏は、研究室で機械に囲まれて研究をするのが楽しいのだそうである。こういういわば「研究バカ。」というのは、研究の成果や評価に関わらず研究自体が好きなので、業績を捏造したり付帯する利権を求めたりはしない。
いわばバカには2種類あり、純粋に研究に没頭して世間的評価や報酬を求めない外見上禁欲的なバカと。世間的な評価報酬欲しさにウケ狙いで業績を捏造したり過剰な報酬を求めて横領したり、社会安全性を蔑ろにするバカである。
外見上だけであっても、実質社会的には禁欲的であるなら。これは自律的な社会的責任判断を行うことができるが。世間的なウケ狙いが目的の場合には自律的には社会的責任など一切負うことはない。社会心理学実験的に衆人環視下において社会的行動を採るとしても、「他者による監視。」環境に依存した他律に過ぎず。これは本質的には自律ではなく、判断が直接評価にならない条件では自律的判断が行われる論証にはならず。また、多数への同調や体制への迎合に流され自律が行われる保障もない。
本質的に自発的な純粋行為による、本質的な精神の充足がなければ自律的な社会的責任判断というのは行われないものなのである。自律とは自発の中にあり、他にはない。行動に純粋な自発性がなければ社会的責任というのは自律的には行われることはないのである。
世間的な評価や報酬こそが人間の価値であると勝手に思い込んでいる者にとっては、世間的な評価や報酬を求めず純粋に自己自身の精神の満足を充足することは不毛で意味がないと「思う。」ものである。世間という多数他者からの評価報酬だけが人生の意味であると錯覚している者にとっては、社会安全性のために自己を犠牲にするという選択は存在しないのである。
ヒトは必ず死ぬものである。「どうせ死ぬなら、長期的持続可能性など知ったことではない。」として目先の利己的行動を採ることはとても簡単である。しかし、逆に「どうせ死ぬのであれば、他者や未来を犠牲にしてまで自己の生存に執着する必要性などない。」と自律的に社会的責任判断を行うという選択も、理論的には存在する。
どちらを選択するかは本質的合理性を追及するか否かによって決定する。「人間としての心。」というのは、目先の欲望に由来する感情に左右されず、一貫した統一的価値観に基づいた合理性の追求によって下される判断のことである。
「心。」というのは短絡的に感情のことを指すのではなく。自己の内部に存在するあらゆる価値観の中から最も大切な尊厳に基づく統一的選択によって導き出される、本質的合理性追求を人間の「心。」と言うのである。
倫理や心の問題というのは、従来科学的に追求されるような範疇ではなかった。それは理性というものが文系観念的には悪であると「思われ。」ていたからであり、固定観念によって思考が拘束されていたからである。カントによる「純粋理性批判。」が促す、文系観念的な「理性というものへの拒絶反応。」を助長し、そもそも論理的思考が嫌いな文系者にとってそれは気分的に「都合が良かった。」ため、とても長い間本質的理性の重要性が放置されてきたのである。
ヒトは動物であるため、機械条件反射的に気分が楽な方へと流されるように出来上がっている。権威者には服従し、多数に迎合し、論理的検証というものを忌み嫌うように遺伝的に出来ているからである。
既に存在するだけの自己は、自己自身による本質的選択を経ておらず。感情や固定観念といった無意識的条件反射による選択判断だけでは、本質的な自己の論証にはならない。
独裁というものが成立しうるのは、独裁者一人によって作り出されるものではなく。あくまで独裁者に服従し、体制に迎合する圧倒的多数である「服従者。」によって成立するのである。
「服従者。」達には自律的に社会的責任判断というものは存在せず。ただ自分が既におかれている体制に迎合しておくことによる責任逃れと、体制や目先の多数者からの評価報酬の追求しか意識の上にはない。
こうした圧倒的多数の服従迎合者達の無意識性によって社会は崩壊へと向かうことになるのである。
ヒトという種の生物は、集団社会を形成していることが気分的/本能的に安心なのである。それが自然淘汰による選択によって生存に適したかどうかと、個人の自律判断とは無関係である。事実、正直者はバカしか見ないのが「現状。」である。
現状に迎合し、理想を忘れて権威に盲目的に服従しておけば。ヒトという種の生物は気分的に「安心。」していることが可能である。
権威者が促すままに東大大学院で博士号を取得しても、何ら社会的には評価されず。就職も出来なければ起業もできないのである。
学力ビジネスに関わる者達というのは、生徒の学力成績が上がりさえすれば良いのであって。卒業後の生活の保障も、生活の術すらも教えるつもりはないのである。彼らにとっては、「生徒の成績。」=「自分達の評価。」という短絡的方程式に基づく利己的判断以上の何も興味などない。ましてや生徒自身の本質的自発性に伴う社会的貢献意欲も、社会的責任への自律も養われることはない。
クソゲーが流行するのは、クソゲーだのパチンコのように快楽を環境依存的に提供されなければ自発的には自分自身の精神を充足させる術を持たない者が非常に多いからである。
クソゲーにハマっていなければいられない程、彼らの脳は餓えているのである。しかし、クソゲーやパチンコにどんなに陶酔しても、本質的な自己の精神的充足は構造原理的に得ることができないので、最終的には破滅に至るまで続ける以外に選択の余地はない。
そもそも無意識であるということは、本質的な自己選択が存在していないのである。それなら機械的に何らかの破綻に至るまで自律的には抑制は働くことはない。
生物史における大量絶滅というのは、大量絶滅という破綻に至るまで意識的に抑制を働かせる自律的行動選択というものが存在しなかったからである。これを「ヒト。」にそのまま当てはめるというのは、当てはめている者の脳には自律的抑制というものが存在しないからである。
自分に存在しないものであれば、あらゆる他者にも存在しないものであると「思う。」のは必然的帰結というものである。NHK解説委員の室山哲也の危険性とは、室山に自律的抑制が存在しないことの論証でもある。
人類が絶滅するかどうか、それは私の知るところではない。絶滅するかも知れないし、しないかも知れない。理論的にはこれは「わからない。」ものであって、決して「絶対に絶滅する。」ことは論証不能である。
「ゴルフのパター=人間としての価値。」という短絡的観念を利用してまで無意識機能の正当性を論証しようとするのは。「世間的な成功=人間としての価値。」という無意識的で本能欲望による無意識的判断を利用した論理検証の撹乱である。「社会的に成功していない者=社会的には無能。」という観念に基づいた、文系特有の身勝手な価値基準を持ち出しておけば、「自律的な社会的責任判断こそが本質的な人間の価値。」であることを意識から遠ざけることが可能である。
社会というものは自律的に社会的責任を負う者によって安定維持されている。しかし、それは必ずしも世間的評価報酬には結び付かず、場合によっては地位や権益を失うことも少なくはない。
内部告発者の秘密が守秘されなかったり、排除の対象になったりするのは。多くの大衆マスコミによる無意識的/本能的欲望にはそぐわないからである。
本能的な社会形成習性に基づく集団主義やナショナリズムというものは、それが本能習性であることの論証である。既に帰属している集団に無条件に迎合し、忠誠忠実であることへの美的観念そのものが。本能習性による「仕組み。」構造原理が促すものであることの論証である。
本能習性というものは自己自身の本質的選択に依るものではない。本能習性に無意識に流されておいて自由も意思も存在しないのである。
意識というものは、単にゴルフのパターを失敗させるためにあるのではなく。無意識的な無責任性への抑制として必要不可欠なものである。そもそもゴルフというのは賞金金額の大きさと、それに伴う世間的注目によって緊張を強いられることが失敗の原因であり。これはむしろ無意識的な緊張によって能力が抑制されているだけである。世間的に注目されているからといって脳腫瘍の摘出に失敗していたのでは話にならない。世間的注目だの成功報酬の金額に関わらず安定して能力を発揮できなければ、無意識能力の価値などないのである。
世間的注目や成功報酬に左右されない能力の発揮というのは、恐らく自発性であり純粋に患者を助けたいという意欲であろう。
以前、航空機での蘇生を行った医師が、「乗客の視線が怖かった。」などと怯えていた話を聞いたことがある。これは純粋に患者を救おうという強い意思/意欲というものが欠けていたからである。「覚悟。」というのは多数他人の評価に左右されず、自己自身の本質的意欲によって導き出されるものであり。環境や状況によって左右される意思の弱さというものは本質的な意欲がそもそも欠けているからである。
世間的評価の有無に関わらず続ける覚悟というものは、世間的な評価報酬を目的にしていては発揮されることは原理的にない。遺伝子の研究で有名なメンデルが生前評価されなくとも研究を全うしたのも、地動説を立証したガリレオが命の危険を賭けてまで地動説を説いたのも。ナチズムに命懸けで反対したベンヤミンも。これらは彼らの本質的自発性による「覚悟。」があったからである。
多くの研究者が挫折し「絶対不可能。」とまで言われた質量分析計を田中耕一氏が実用化にまで導いたのも、やはり田中氏の研究に対する「覚悟。」があったからである。
「できるかどうかわからない。」ことというのは、短絡的には世間的評価報酬には結び付かないものである。しかし、「絶対に不可能である。」ことの論証ではない限り続ける覚悟/意思というものがなければ世間的評価報酬が「得られるかどうかわからない。」ことを続けることはない。
世間的評価報酬が「得られそう。」なことしか誰もやらないとすれば、これは世間の風潮や流れという流行に流されているだけであり。こうした浮動的価値観を追求している時点で普遍的真理にはそもそも興味がないということでもある。
普遍的真理に興味がなければ科学的業績に結び付かないのは当然である。本質的自発性がなければ本質的な知能も発揮されることは原理的にもないのである。
たとえ偶然科学的大発見に結び付くような結果を目の前にしていても、それが科学的大発見であることを認識できなければ呆然と見逃すだけである。学力が高いだけの世間的評価にしか興味のないバカというのは、平気でこれをやらかすのである。
○本質的意識の意義。
「原発さえなければ。」そう書き残して自殺した福島の酪農家がいた。自殺というものを根源的に減らすためには、社会安全性というものを可能な限り高める必要性がある。
目先の自殺者の数を減らすことだけを考えていたのではダメなのである。
正直者がバカを見るような社会において自殺者が減っても意味などないからである。オカルト宗教にすがっていないと生きていけないだとか、実証不能の観念を振り回す生物/脳科学界にすがっていないと生存不能などというバカげた正義など要らないのである。原発を維持しないと生活が成り立たないなどという言い訳も聞きたくもない。
心が折れた人に向かって、そうでない人が単に「死ぬな。」と強制する権利などない。生き続ける権利があるというのであるならば、死ぬ権利と等価でなくては論理的におかしい。ましてや「自殺は卑怯。」などという論理的根拠のない実証不能の観念を振り回すのは論外である。
我々は心が折れた人に対して「今すぐに結論を出さないで欲しい。」という要望以上のことは言えないのである。それなら「今すぐ。」ではない対策として社会安全性や信頼性の確立を地道に構築するしかあるまい。
感情に由来する短絡的「結論。」であれば、これは臨床心理の範疇である。臨床以外の一般人ができる対策としては社会安全性を高めることしかないはずである。
そのための意識論でもある。「安全第一。」ではあっても「安心第一。」というわけにはいかない。気分や固定観念でしか物事が判断できないこと自体が無意識的であり、これが最も危険なのである。社会の危険性を棚上げにしておいて自殺云々を論じてしまうのは社会の一員として無責任と言えるのではないか。弱者を淘汰するような殺伐とした社会を放置迎合しておいて自殺者数だけ減らしても、これは「人間の社会。」とは言えないであろう。
シエラレオネの少年ゲリラの内部や振り込め詐欺集団に内部において、果たして自殺者がどれだけいるであろう。暴力や詐欺による生物学術上の生存価だけを追及していれば自殺は少ないのは必然であろう。
極論すれば、ナチス政権に反対してスイス山中で自決することというのは人間として尊い行動でもある。しかし、ウ゛ァルター:ベンヤミンを自決に追いやったのは、ナチスに迎合した多くのヒトの無意識性による無責任が原因である。正直者、或は正しいことを言う人を死に追いやるのは多数大衆に迎合する論理検証性の欠落であり。これは同時に固定観念による感情的暴力性が働く「ヒトの習性。」からである。地動説を火炙りにしたのも、それが論理的根拠に基づくものではなく、あくまで感情による判断が下されたからに他ならない。
農家が自殺し、クソゲー社員の年俸が1500万円を受け取る現在の社会に、長期的持続可能性などあるわけがない。こうした不公平性を放置しているのは、政治家や公務員のみの責任ではなく。制度上民主主義を導入している日本においては民衆自身の行動選択自体にも責任がある。政治家や公務員がクソゲーを推進しているわけではないからだ。
クソゲーは実質的に何の生産性も持ってはいない。クソゲーで金儲けをしても社会は潤わないのである。むしろ若者から生産性につながるべき時間をむしり取り社会を崩壊に導くだけである。これこそミヒャエル:エンデの論じた「時間泥棒。」そのものではないか。
クソゲーというのはヒトの行動習性を利用した環境依存的な目先の競争意識(無意識)を煽ることによって利益を貪るビジネスモデルである。パチンコだのクソゲーだの酒だの煙草というのは全て大脳を麻痺させることによる現実逃避であり、麻薬である。
目先の麻薬による快楽に溺れ脳を麻痺させているから統一的な理想を忘れ、本当に大切なものが何かを簡単に意識から失うことになるのである。大脳が麻痺していれば人間性が発揮されないのは当たり前のことである。
クソゲーが多くのヒトの脳を麻痺させられるのは、MobileSocialGameという名前にもあるソーシャル(社会性)という本能的社会形成習性が促す競争原理構造を利用しているからである。他者との比較競争をさせることによって、現実には糞の役にも立たないポイント成績欲しさに無意識に金を払わせるのである。
クソゲーでランク競争をしたところで何の生産性も存在しないことを、多くのヒトは忘れてクソゲーに熱中する。そもそも教育ビジネスにおける競争原理を用いた学力強要の構造自体が、本能的社会形成習性の促す競争本能を利用した洗脳であり。多くのヒトはこうした他者との比較競争に意識を奪われるように洗脳されているからこそクソゲーなんぞが流行することになるのである。
カルト宗教のテロを、多くのヒトは自分達の構造原理的原因に因るものではなく。特殊な異常集団だけの特異な結果であると分類「整理。」することで、自分達には何の問題も存在せず、自分達は絶対に健全で安全な存在であると錯覚して安心する。
分類「整理。」というものは、ドーパミンが促す一種の正常性バイアスに過ぎず。必ずしも論理的根拠に基づく科学的分類である保障などない。
ヒトという種の生物は、環境によっては残虐なゲリラにも虐殺にも加担してしまう性質というものがあることを意識から外して気分的に安心する。民間人による暴力団への関与がなくならないのも、こうした無意識習性に流され、観念的恐怖心によって迎合してしまうからである。
そこには本質的意識による本質的合理性の追及は存在しない。
警察自体も事件にならないこと、書類送検できないことには全く関与しない癖に民間にだけ暴力団への関与防止をさせるのは無責任である。法手続き上の責任逃れや制度上での評価報酬ばかりを機械条件反射的無意識に追及しているから、社会の問題が全く解決しないのである。検察が書類を受け取らないことを理由にするのは既存制度への迎合である。制度自体に間違いがあるのならば、そこに言及すれば良いのである。
無意識なヒトというのは、自分の過ちは「些細なこと。」として分類し、過小評価する傾向がある。同時に多数他人が指摘する他人の過ちには便乗するが、自律的には何が問題であるかは全く認識できない。こうした「バカ。」相手に何を論じても、意識が働いていなければ記憶にも残らないし行動にも影響はない。取締さえ強化しておけば事故や事件が減るわけではないことは統計的にも明らかであり。懲役刑が再犯抑止にもならないのと同じことである。司法制度自体の問題であるなら裁判員制度云々の議論以前の問題であることを認識しなければならない。
それは誰も言及しないのである。これを「バカ。」と形容することを、一体誰が否定できるであろうか。
検察の糞役人にとっては、法律こそが「具体。」性なのだそうである。現実に起こっている事象は抽象で、法律上における違法性などが論証されなければ「具体。」性ではないと言い張るらしい。検察などの行政役所を監督する政府や代議員が無能で無意識だからこんなバカみたいな話が放置されることになるのである。役に立たない奴を役人と呼ぶこと自体が根本的に間違いであることを認識すべきである。
農作物に放射性セシウムが混入したことは、たとえ国の安全基準に満たないとしても汚損であることに間違いはない。どんなに微量であろうと放射性セシウムで混入したことは「具体。」的事実であり、これが法律上汚損と認められないとすれば間違っているのは法律か、或は法律を解釈する糞役人の脳である。頭がおかしいのであれば司法試験免許を取り消すべきであろう。
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原子力保安院は「直ちに避難。」という文言を用いると、社会的不安を煽るとしてIAEAの国際基準の導入に反対したのだという。
気分的に恐いことを言わないことによって気分的「安心。」を重視したということである。
その結果、速やかな避難誘導が行われず住民の「安全。」性が犠牲にされたということでもある。
嫌な話に耳を塞ぎ、気分が良くなる観念を信頼しておけば「安心。」だという判断である。
逆に気分的に嫌な話を持ち出しても、多くのヒトは恐怖心から悩み感情的になるばかりで、結局は何も論理的検証判断には結び付かないのである。
嫌な話を持ち出した時に、理性的に受け入れる冷静さが多くの日本人には欠落しているから隠蔽/統制の理由にされてしまうのである。安心と安全を混同していることから根本的に間違っていることを認識すべきである。
最近の流行で安心と安全はセット扱いされるが、こうしたセット扱い自体がマスコミの大衆迎合なのである。
「NOと言えない日本人。」と言われるが、そもそも論理的思考ができなければ何にNOを言うべきなのか自体が認識判断出来ない。
どんなに学力学歴が高くても、現在の脳科学/認知科学における「論理的思考能力。」の成績が高くても、その論理的思考能力を何に発揮すべきかにおいて本質的な自発性が伴わなければクソの役にも立たないのである。
現在の学力ビジネスというのは、学力成績を高めることだけが目的であって。社会的役割や責任を担う人格や知能を高めるためには機能していない。塾や学校の講師は大学に合格させることだけが目的で、社会的役割や責任を持った人格者を育成することには利益とは無関係なので興味がない。
だから生物/脳科学、認知科学、社会心理学、哲学というのは何ら真理探求/事実認識としての論理検証性が全く働いていないのである。彼らは教えられたことを鵜呑みにしてさえおけば何の不自由もないため、何ら自律的に認識の進歩も真理の追及も行う意欲がないのである。
エサに対する機械条件反射的応答以外、彼らの脳には働かないということである。従って、どんなに強い学力への欲求が働いているとしても、それはあくまで環境依存的結果でしかなく。本質的には自発性とは言うことができないのである。
どんなに高度な特定能力を発揮しても、それが自律的な社会的責任判断を下すことの保障にはならなず。チンパンジーの瞬間記憶能力同様「エサ。」が得られなければ何もしないし、またエサが得られる体制維持の為なら社会全体の安全性も持続可能性も無視するのである。
松沢哲郎らによるチンパンジーの利他行動研究においても、断片的に他者に利益となる行動を採っても自分自身に利益が得られなければ利他行動は採らなくなることが観測されており。これもまた「エサ。」に対する利己的行動の顕れである。
ヒトにおいても権威性などの順位バイアスが働くことによって公平分配は崩壊する。一面的に公平分配を制度化する行動を断片的に抽出してきても、権威への服従性による公平性の崩壊もヒトの行動習性であることに変わりはなく。反証にもならない。
状況や環境に依っては公平だったり不公平だったりする習性論の枚挙は不毛であり。常に公平性を担保しようとするのは人間の意識による「選択。」が働かなくてはならないことは反論の余地など存在しないのである。それを断片的な行動習性の抽出によって反証したつもりになっていること自体、バカげた言い逃れ/取り繕いでしかない。このことにマスコミは全く誰も気付かないのは、従来の生物学の理論的根拠を持たない文系観念との親和性という「習性。」が働いているからである。
彼らは気分的「安心。」によって論理検証性を失っているのである。
固定観念やら多数大衆迎合による「常識。」に基づいたバイアスによる断片的事実の垂れ流しを報道とは言わない。それを単なるプロパガンダと言うのである。
○自主性。
環境依存的な結果としての行動は自主性/自発性ではない。環境に左右されていること自体が自主性/自発性の欠落を証明しているからである。
チンパンジーだのオウムにエサを与えて特定能力を獲得させたとしても、これは「エサを与える。」という環境に依存した行動結果に過ぎない。それがたとえヒトの大学生よりも高度であったとしてもである。
他者との学力比較による強迫観念的な競争を強いて学力向上を行うというのは、たとえ平均学力が向上したとしても生徒個人の本質的自発性によるものではないため、成績試験が終われば簡単に内容を忘れ去ることになる。単に数値上平均学力が高くても、本質的に自発的ではない知識や能力というものは「エサ。」に相当する学力比較対象が存在しない場面に」おいては自発的には発揮されることはない。
頭の悪いバカであれば、こう言い逃れするであろう、「しないよりはマシ。」だと。だが、本当は「マシ。」どころか害ですらある。
他者との学力比較競争を強いられることによって、生徒は他者との比較競争による評価報酬(エサ。)の獲得にしか意識が働かなくなる。無論この「意識。」とは意識狭窄性を伴った無意識であり、且つ強迫観念である。
競争という他者との比較でしか自分の価値を見いだせなくなった生徒は、本質的な自発性を失い多数他人世間からの評価報酬を得ることにしか意識が働かなくなるのである。
その結果、業績の捏造といった「嘘。」や搾取横領といった、他者を蹴落とす行動に手を染めることに陥る。
人間としての自律的な社会的責任行動判断というものの喪失とは、そこに本質的自発性が欠落していることによる、いわば必然的結果なのである。
そこにいるのは、エサに飢えた「ヒト。」ではあっても。純粋に何かを追及する探究心を持った「人間。」ではない。
社会的責任判断を自律的に行う「人間。」であるためには、自律の根源となるべき自発性が不可欠である。自律とは自発の中にあり、他にはない。
従って他者との学力成績の比較競争によって得られる、本質的には自発性を伴わない平均学力の数値上での向上というものを追及する限り。自律の欠落した学力が高いだけのバカを大量生産することにしかならない。
頭の悪いバカであれば、「学力が低いよりはマシ。」と述べるであろう。バカの主張というのは常に「○○よりはマシ。」という観念的程度問題である。
学生時代学力が高くても、通り魔だのテロリストになったり。或は天下りに血道を上げる役人では社会にとって価値を持たない。一級建築士の国家資格を持っていても、建築強度を偽装してしまったのでは迷惑にしかならないのである。従って「学力が低いよりはマシ。」などという短絡的その場限りの取り繕いというのは、単なる論理的思考放棄に過ぎず。全くもってバカの主張に他ならない。
実際には今まで何ら論理検証を行わずに鵜呑みにしていた自己の無思考性を事後正当化するための言い訳に過ぎず。こうした個人的な気分的観念こそが論理検証性に対する最大の敵なのである。
Ende;
精神欲とは言っても、カルト宗教にハマって精神的に満足されても迷惑なだけである。
本当の精神的充足というのは、本質的自発性による純粋行為によってもたらされるものでなくてはならない。
カルト宗教や占い/スピリチュアルの類による満足というのは、自発的で純粋な興味によって満たされるものではなく。あくまで環境依存的に他人から提供される強迫観念的な満足である。
結局クソゲーと同じで、ヒトの行動習性として気分的に満足「安心。」するように誘導されたものに過ぎない。
原発の研究者が宗教だのスピリチュアルに心酔していれば安全性が確保出来るのかといえば、そんな論証は成立しない。
教化的(洗脳的)状態というのは、「これさえやっておけば、社会のあらゆる問題の全ては解決する。」という思考停止性が働いているかどうかであり。本質的な自発的思考による論理検証性が働いていれば、こうした盲目的思考停止状態には陥らないのである。論理検証性というのは本質的自発性がなければ行われることはない。
つまり、物質欲から精神欲へのシフトだけでは充分ではなく。純粋な自発的欲求とは何かが認識できていないとカルト集団が増えるだけに陥りかねない。
本当に純粋であるならば原子力の研究を行っても構わない。原子力を経済上でのエネルギー問題にすりかえることによる利権が目的で原子力を推進するから、これには本質的自発性がないから利己や保身が優先され安全性が損なわれることになるのである。
純粋に本質的自発性に基づいて行われるものかどうか、これは外見上見分けはつかない。同じことを行っていても人それぞれ本当に主観的に楽しいかどうかは個人差があり、分別自体は当人の意識次第である。
ノーベル賞受賞者の田中耕一氏は、研究室で機械に囲まれて研究をするのが楽しいのだそうである。こういういわば「研究バカ。」というのは、研究の成果や評価に関わらず研究自体が好きなので、業績を捏造したり付帯する利権を求めたりはしない。
いわばバカには2種類あり、純粋に研究に没頭して世間的評価や報酬を求めない外見上禁欲的なバカと。世間的な評価報酬欲しさにウケ狙いで業績を捏造したり過剰な報酬を求めて横領したり、社会安全性を蔑ろにするバカである。
外見上だけであっても、実質社会的には禁欲的であるなら。これは自律的な社会的責任判断を行うことができるが。世間的なウケ狙いが目的の場合には自律的には社会的責任など一切負うことはない。社会心理学実験的に衆人環視下において社会的行動を採るとしても、「他者による監視。」環境に依存した他律に過ぎず。これは本質的には自律ではなく、判断が直接評価にならない条件では自律的判断が行われる論証にはならず。また、多数への同調や体制への迎合に流され自律が行われる保障もない。
本質的に自発的な純粋行為による、本質的な精神の充足がなければ自律的な社会的責任判断というのは行われないものなのである。自律とは自発の中にあり、他にはない。行動に純粋な自発性がなければ社会的責任というのは自律的には行われることはないのである。
世間的な評価や報酬こそが人間の価値であると勝手に思い込んでいる者にとっては、世間的な評価や報酬を求めず純粋に自己自身の精神の満足を充足することは不毛で意味がないと「思う。」ものである。世間という多数他者からの評価報酬だけが人生の意味であると錯覚している者にとっては、社会安全性のために自己を犠牲にするという選択は存在しないのである。
ヒトは必ず死ぬものである。「どうせ死ぬなら、長期的持続可能性など知ったことではない。」として目先の利己的行動を採ることはとても簡単である。しかし、逆に「どうせ死ぬのであれば、他者や未来を犠牲にしてまで自己の生存に執着する必要性などない。」と自律的に社会的責任判断を行うという選択も、理論的には存在する。
どちらを選択するかは本質的合理性を追及するか否かによって決定する。「人間としての心。」というのは、目先の欲望に由来する感情に左右されず、一貫した統一的価値観に基づいた合理性の追求によって下される判断のことである。
「心。」というのは短絡的に感情のことを指すのではなく。自己の内部に存在するあらゆる価値観の中から最も大切な尊厳に基づく統一的選択によって導き出される、本質的合理性追求を人間の「心。」と言うのである。
倫理や心の問題というのは、従来科学的に追求されるような範疇ではなかった。それは理性というものが文系観念的には悪であると「思われ。」ていたからであり、固定観念によって思考が拘束されていたからである。カントによる「純粋理性批判。」が促す、文系観念的な「理性というものへの拒絶反応。」を助長し、そもそも論理的思考が嫌いな文系者にとってそれは気分的に「都合が良かった。」ため、とても長い間本質的理性の重要性が放置されてきたのである。
ヒトは動物であるため、機械条件反射的に気分が楽な方へと流されるように出来上がっている。権威者には服従し、多数に迎合し、論理的検証というものを忌み嫌うように遺伝的に出来ているからである。
既に存在するだけの自己は、自己自身による本質的選択を経ておらず。感情や固定観念といった無意識的条件反射による選択判断だけでは、本質的な自己の論証にはならない。
独裁というものが成立しうるのは、独裁者一人によって作り出されるものではなく。あくまで独裁者に服従し、体制に迎合する圧倒的多数である「服従者。」によって成立するのである。
「服従者。」達には自律的に社会的責任判断というものは存在せず。ただ自分が既におかれている体制に迎合しておくことによる責任逃れと、体制や目先の多数者からの評価報酬の追求しか意識の上にはない。
こうした圧倒的多数の服従迎合者達の無意識性によって社会は崩壊へと向かうことになるのである。
ヒトという種の生物は、集団社会を形成していることが気分的/本能的に安心なのである。それが自然淘汰による選択によって生存に適したかどうかと、個人の自律判断とは無関係である。事実、正直者はバカしか見ないのが「現状。」である。
現状に迎合し、理想を忘れて権威に盲目的に服従しておけば。ヒトという種の生物は気分的に「安心。」していることが可能である。
権威者が促すままに東大大学院で博士号を取得しても、何ら社会的には評価されず。就職も出来なければ起業もできないのである。
学力ビジネスに関わる者達というのは、生徒の学力成績が上がりさえすれば良いのであって。卒業後の生活の保障も、生活の術すらも教えるつもりはないのである。彼らにとっては、「生徒の成績。」=「自分達の評価。」という短絡的方程式に基づく利己的判断以上の何も興味などない。ましてや生徒自身の本質的自発性に伴う社会的貢献意欲も、社会的責任への自律も養われることはない。
クソゲーが流行するのは、クソゲーだのパチンコのように快楽を環境依存的に提供されなければ自発的には自分自身の精神を充足させる術を持たない者が非常に多いからである。
クソゲーにハマっていなければいられない程、彼らの脳は餓えているのである。しかし、クソゲーやパチンコにどんなに陶酔しても、本質的な自己の精神的充足は構造原理的に得ることができないので、最終的には破滅に至るまで続ける以外に選択の余地はない。
そもそも無意識であるということは、本質的な自己選択が存在していないのである。それなら機械的に何らかの破綻に至るまで自律的には抑制は働くことはない。
生物史における大量絶滅というのは、大量絶滅という破綻に至るまで意識的に抑制を働かせる自律的行動選択というものが存在しなかったからである。これを「ヒト。」にそのまま当てはめるというのは、当てはめている者の脳には自律的抑制というものが存在しないからである。
自分に存在しないものであれば、あらゆる他者にも存在しないものであると「思う。」のは必然的帰結というものである。NHK解説委員の室山哲也の危険性とは、室山に自律的抑制が存在しないことの論証でもある。
人類が絶滅するかどうか、それは私の知るところではない。絶滅するかも知れないし、しないかも知れない。理論的にはこれは「わからない。」ものであって、決して「絶対に絶滅する。」ことは論証不能である。
「ゴルフのパター=人間としての価値。」という短絡的観念を利用してまで無意識機能の正当性を論証しようとするのは。「世間的な成功=人間としての価値。」という無意識的で本能欲望による無意識的判断を利用した論理検証の撹乱である。「社会的に成功していない者=社会的には無能。」という観念に基づいた、文系特有の身勝手な価値基準を持ち出しておけば、「自律的な社会的責任判断こそが本質的な人間の価値。」であることを意識から遠ざけることが可能である。
社会というものは自律的に社会的責任を負う者によって安定維持されている。しかし、それは必ずしも世間的評価報酬には結び付かず、場合によっては地位や権益を失うことも少なくはない。
内部告発者の秘密が守秘されなかったり、排除の対象になったりするのは。多くの大衆マスコミによる無意識的/本能的欲望にはそぐわないからである。
本能的な社会形成習性に基づく集団主義やナショナリズムというものは、それが本能習性であることの論証である。既に帰属している集団に無条件に迎合し、忠誠忠実であることへの美的観念そのものが。本能習性による「仕組み。」構造原理が促すものであることの論証である。
本能習性というものは自己自身の本質的選択に依るものではない。本能習性に無意識に流されておいて自由も意思も存在しないのである。
意識というものは、単にゴルフのパターを失敗させるためにあるのではなく。無意識的な無責任性への抑制として必要不可欠なものである。そもそもゴルフというのは賞金金額の大きさと、それに伴う世間的注目によって緊張を強いられることが失敗の原因であり。これはむしろ無意識的な緊張によって能力が抑制されているだけである。世間的に注目されているからといって脳腫瘍の摘出に失敗していたのでは話にならない。世間的注目だの成功報酬の金額に関わらず安定して能力を発揮できなければ、無意識能力の価値などないのである。
世間的注目や成功報酬に左右されない能力の発揮というのは、恐らく自発性であり純粋に患者を助けたいという意欲であろう。
以前、航空機での蘇生を行った医師が、「乗客の視線が怖かった。」などと怯えていた話を聞いたことがある。これは純粋に患者を救おうという強い意思/意欲というものが欠けていたからである。「覚悟。」というのは多数他人の評価に左右されず、自己自身の本質的意欲によって導き出されるものであり。環境や状況によって左右される意思の弱さというものは本質的な意欲がそもそも欠けているからである。
世間的評価の有無に関わらず続ける覚悟というものは、世間的な評価報酬を目的にしていては発揮されることは原理的にない。遺伝子の研究で有名なメンデルが生前評価されなくとも研究を全うしたのも、地動説を立証したガリレオが命の危険を賭けてまで地動説を説いたのも。ナチズムに命懸けで反対したベンヤミンも。これらは彼らの本質的自発性による「覚悟。」があったからである。
多くの研究者が挫折し「絶対不可能。」とまで言われた質量分析計を田中耕一氏が実用化にまで導いたのも、やはり田中氏の研究に対する「覚悟。」があったからである。
「できるかどうかわからない。」ことというのは、短絡的には世間的評価報酬には結び付かないものである。しかし、「絶対に不可能である。」ことの論証ではない限り続ける覚悟/意思というものがなければ世間的評価報酬が「得られるかどうかわからない。」ことを続けることはない。
世間的評価報酬が「得られそう。」なことしか誰もやらないとすれば、これは世間の風潮や流れという流行に流されているだけであり。こうした浮動的価値観を追求している時点で普遍的真理にはそもそも興味がないということでもある。
普遍的真理に興味がなければ科学的業績に結び付かないのは当然である。本質的自発性がなければ本質的な知能も発揮されることは原理的にもないのである。
たとえ偶然科学的大発見に結び付くような結果を目の前にしていても、それが科学的大発見であることを認識できなければ呆然と見逃すだけである。学力が高いだけの世間的評価にしか興味のないバカというのは、平気でこれをやらかすのである。
○本質的意識の意義。
「原発さえなければ。」そう書き残して自殺した福島の酪農家がいた。自殺というものを根源的に減らすためには、社会安全性というものを可能な限り高める必要性がある。
目先の自殺者の数を減らすことだけを考えていたのではダメなのである。
正直者がバカを見るような社会において自殺者が減っても意味などないからである。オカルト宗教にすがっていないと生きていけないだとか、実証不能の観念を振り回す生物/脳科学界にすがっていないと生存不能などというバカげた正義など要らないのである。原発を維持しないと生活が成り立たないなどという言い訳も聞きたくもない。
心が折れた人に向かって、そうでない人が単に「死ぬな。」と強制する権利などない。生き続ける権利があるというのであるならば、死ぬ権利と等価でなくては論理的におかしい。ましてや「自殺は卑怯。」などという論理的根拠のない実証不能の観念を振り回すのは論外である。
我々は心が折れた人に対して「今すぐに結論を出さないで欲しい。」という要望以上のことは言えないのである。それなら「今すぐ。」ではない対策として社会安全性や信頼性の確立を地道に構築するしかあるまい。
感情に由来する短絡的「結論。」であれば、これは臨床心理の範疇である。臨床以外の一般人ができる対策としては社会安全性を高めることしかないはずである。
そのための意識論でもある。「安全第一。」ではあっても「安心第一。」というわけにはいかない。気分や固定観念でしか物事が判断できないこと自体が無意識的であり、これが最も危険なのである。社会の危険性を棚上げにしておいて自殺云々を論じてしまうのは社会の一員として無責任と言えるのではないか。弱者を淘汰するような殺伐とした社会を放置迎合しておいて自殺者数だけ減らしても、これは「人間の社会。」とは言えないであろう。
シエラレオネの少年ゲリラの内部や振り込め詐欺集団に内部において、果たして自殺者がどれだけいるであろう。暴力や詐欺による生物学術上の生存価だけを追及していれば自殺は少ないのは必然であろう。
極論すれば、ナチス政権に反対してスイス山中で自決することというのは人間として尊い行動でもある。しかし、ウ゛ァルター:ベンヤミンを自決に追いやったのは、ナチスに迎合した多くのヒトの無意識性による無責任が原因である。正直者、或は正しいことを言う人を死に追いやるのは多数大衆に迎合する論理検証性の欠落であり。これは同時に固定観念による感情的暴力性が働く「ヒトの習性。」からである。地動説を火炙りにしたのも、それが論理的根拠に基づくものではなく、あくまで感情による判断が下されたからに他ならない。
農家が自殺し、クソゲー社員の年俸が1500万円を受け取る現在の社会に、長期的持続可能性などあるわけがない。こうした不公平性を放置しているのは、政治家や公務員のみの責任ではなく。制度上民主主義を導入している日本においては民衆自身の行動選択自体にも責任がある。政治家や公務員がクソゲーを推進しているわけではないからだ。
クソゲーは実質的に何の生産性も持ってはいない。クソゲーで金儲けをしても社会は潤わないのである。むしろ若者から生産性につながるべき時間をむしり取り社会を崩壊に導くだけである。これこそミヒャエル:エンデの論じた「時間泥棒。」そのものではないか。
クソゲーというのはヒトの行動習性を利用した環境依存的な目先の競争意識(無意識)を煽ることによって利益を貪るビジネスモデルである。パチンコだのクソゲーだの酒だの煙草というのは全て大脳を麻痺させることによる現実逃避であり、麻薬である。
目先の麻薬による快楽に溺れ脳を麻痺させているから統一的な理想を忘れ、本当に大切なものが何かを簡単に意識から失うことになるのである。大脳が麻痺していれば人間性が発揮されないのは当たり前のことである。
クソゲーが多くのヒトの脳を麻痺させられるのは、MobileSocialGameという名前にもあるソーシャル(社会性)という本能的社会形成習性が促す競争原理構造を利用しているからである。他者との比較競争をさせることによって、現実には糞の役にも立たないポイント成績欲しさに無意識に金を払わせるのである。
クソゲーでランク競争をしたところで何の生産性も存在しないことを、多くのヒトは忘れてクソゲーに熱中する。そもそも教育ビジネスにおける競争原理を用いた学力強要の構造自体が、本能的社会形成習性の促す競争本能を利用した洗脳であり。多くのヒトはこうした他者との比較競争に意識を奪われるように洗脳されているからこそクソゲーなんぞが流行することになるのである。
カルト宗教のテロを、多くのヒトは自分達の構造原理的原因に因るものではなく。特殊な異常集団だけの特異な結果であると分類「整理。」することで、自分達には何の問題も存在せず、自分達は絶対に健全で安全な存在であると錯覚して安心する。
分類「整理。」というものは、ドーパミンが促す一種の正常性バイアスに過ぎず。必ずしも論理的根拠に基づく科学的分類である保障などない。
ヒトという種の生物は、環境によっては残虐なゲリラにも虐殺にも加担してしまう性質というものがあることを意識から外して気分的に安心する。民間人による暴力団への関与がなくならないのも、こうした無意識習性に流され、観念的恐怖心によって迎合してしまうからである。
そこには本質的意識による本質的合理性の追及は存在しない。
警察自体も事件にならないこと、書類送検できないことには全く関与しない癖に民間にだけ暴力団への関与防止をさせるのは無責任である。法手続き上の責任逃れや制度上での評価報酬ばかりを機械条件反射的無意識に追及しているから、社会の問題が全く解決しないのである。検察が書類を受け取らないことを理由にするのは既存制度への迎合である。制度自体に間違いがあるのならば、そこに言及すれば良いのである。
無意識なヒトというのは、自分の過ちは「些細なこと。」として分類し、過小評価する傾向がある。同時に多数他人が指摘する他人の過ちには便乗するが、自律的には何が問題であるかは全く認識できない。こうした「バカ。」相手に何を論じても、意識が働いていなければ記憶にも残らないし行動にも影響はない。取締さえ強化しておけば事故や事件が減るわけではないことは統計的にも明らかであり。懲役刑が再犯抑止にもならないのと同じことである。司法制度自体の問題であるなら裁判員制度云々の議論以前の問題であることを認識しなければならない。
それは誰も言及しないのである。これを「バカ。」と形容することを、一体誰が否定できるであろうか。
検察の糞役人にとっては、法律こそが「具体。」性なのだそうである。現実に起こっている事象は抽象で、法律上における違法性などが論証されなければ「具体。」性ではないと言い張るらしい。検察などの行政役所を監督する政府や代議員が無能で無意識だからこんなバカみたいな話が放置されることになるのである。役に立たない奴を役人と呼ぶこと自体が根本的に間違いであることを認識すべきである。
農作物に放射性セシウムが混入したことは、たとえ国の安全基準に満たないとしても汚損であることに間違いはない。どんなに微量であろうと放射性セシウムで混入したことは「具体。」的事実であり、これが法律上汚損と認められないとすれば間違っているのは法律か、或は法律を解釈する糞役人の脳である。頭がおかしいのであれば司法試験免許を取り消すべきであろう。
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原子力保安院は「直ちに避難。」という文言を用いると、社会的不安を煽るとしてIAEAの国際基準の導入に反対したのだという。
気分的に恐いことを言わないことによって気分的「安心。」を重視したということである。
その結果、速やかな避難誘導が行われず住民の「安全。」性が犠牲にされたということでもある。
嫌な話に耳を塞ぎ、気分が良くなる観念を信頼しておけば「安心。」だという判断である。
逆に気分的に嫌な話を持ち出しても、多くのヒトは恐怖心から悩み感情的になるばかりで、結局は何も論理的検証判断には結び付かないのである。
嫌な話を持ち出した時に、理性的に受け入れる冷静さが多くの日本人には欠落しているから隠蔽/統制の理由にされてしまうのである。安心と安全を混同していることから根本的に間違っていることを認識すべきである。
最近の流行で安心と安全はセット扱いされるが、こうしたセット扱い自体がマスコミの大衆迎合なのである。
「NOと言えない日本人。」と言われるが、そもそも論理的思考ができなければ何にNOを言うべきなのか自体が認識判断出来ない。
どんなに学力学歴が高くても、現在の脳科学/認知科学における「論理的思考能力。」の成績が高くても、その論理的思考能力を何に発揮すべきかにおいて本質的な自発性が伴わなければクソの役にも立たないのである。
現在の学力ビジネスというのは、学力成績を高めることだけが目的であって。社会的役割や責任を担う人格や知能を高めるためには機能していない。塾や学校の講師は大学に合格させることだけが目的で、社会的役割や責任を持った人格者を育成することには利益とは無関係なので興味がない。
だから生物/脳科学、認知科学、社会心理学、哲学というのは何ら真理探求/事実認識としての論理検証性が全く働いていないのである。彼らは教えられたことを鵜呑みにしてさえおけば何の不自由もないため、何ら自律的に認識の進歩も真理の追及も行う意欲がないのである。
エサに対する機械条件反射的応答以外、彼らの脳には働かないということである。従って、どんなに強い学力への欲求が働いているとしても、それはあくまで環境依存的結果でしかなく。本質的には自発性とは言うことができないのである。
どんなに高度な特定能力を発揮しても、それが自律的な社会的責任判断を下すことの保障にはならなず。チンパンジーの瞬間記憶能力同様「エサ。」が得られなければ何もしないし、またエサが得られる体制維持の為なら社会全体の安全性も持続可能性も無視するのである。
松沢哲郎らによるチンパンジーの利他行動研究においても、断片的に他者に利益となる行動を採っても自分自身に利益が得られなければ利他行動は採らなくなることが観測されており。これもまた「エサ。」に対する利己的行動の顕れである。
ヒトにおいても権威性などの順位バイアスが働くことによって公平分配は崩壊する。一面的に公平分配を制度化する行動を断片的に抽出してきても、権威への服従性による公平性の崩壊もヒトの行動習性であることに変わりはなく。反証にもならない。
状況や環境に依っては公平だったり不公平だったりする習性論の枚挙は不毛であり。常に公平性を担保しようとするのは人間の意識による「選択。」が働かなくてはならないことは反論の余地など存在しないのである。それを断片的な行動習性の抽出によって反証したつもりになっていること自体、バカげた言い逃れ/取り繕いでしかない。このことにマスコミは全く誰も気付かないのは、従来の生物学の理論的根拠を持たない文系観念との親和性という「習性。」が働いているからである。
彼らは気分的「安心。」によって論理検証性を失っているのである。
固定観念やら多数大衆迎合による「常識。」に基づいたバイアスによる断片的事実の垂れ流しを報道とは言わない。それを単なるプロパガンダと言うのである。
○自主性。
環境依存的な結果としての行動は自主性/自発性ではない。環境に左右されていること自体が自主性/自発性の欠落を証明しているからである。
チンパンジーだのオウムにエサを与えて特定能力を獲得させたとしても、これは「エサを与える。」という環境に依存した行動結果に過ぎない。それがたとえヒトの大学生よりも高度であったとしてもである。
他者との学力比較による強迫観念的な競争を強いて学力向上を行うというのは、たとえ平均学力が向上したとしても生徒個人の本質的自発性によるものではないため、成績試験が終われば簡単に内容を忘れ去ることになる。単に数値上平均学力が高くても、本質的に自発的ではない知識や能力というものは「エサ。」に相当する学力比較対象が存在しない場面に」おいては自発的には発揮されることはない。
頭の悪いバカであれば、こう言い逃れするであろう、「しないよりはマシ。」だと。だが、本当は「マシ。」どころか害ですらある。
他者との学力比較競争を強いられることによって、生徒は他者との比較競争による評価報酬(エサ。)の獲得にしか意識が働かなくなる。無論この「意識。」とは意識狭窄性を伴った無意識であり、且つ強迫観念である。
競争という他者との比較でしか自分の価値を見いだせなくなった生徒は、本質的な自発性を失い多数他人世間からの評価報酬を得ることにしか意識が働かなくなるのである。
その結果、業績の捏造といった「嘘。」や搾取横領といった、他者を蹴落とす行動に手を染めることに陥る。
人間としての自律的な社会的責任行動判断というものの喪失とは、そこに本質的自発性が欠落していることによる、いわば必然的結果なのである。
そこにいるのは、エサに飢えた「ヒト。」ではあっても。純粋に何かを追及する探究心を持った「人間。」ではない。
社会的責任判断を自律的に行う「人間。」であるためには、自律の根源となるべき自発性が不可欠である。自律とは自発の中にあり、他にはない。
従って他者との学力成績の比較競争によって得られる、本質的には自発性を伴わない平均学力の数値上での向上というものを追及する限り。自律の欠落した学力が高いだけのバカを大量生産することにしかならない。
頭の悪いバカであれば、「学力が低いよりはマシ。」と述べるであろう。バカの主張というのは常に「○○よりはマシ。」という観念的程度問題である。
学生時代学力が高くても、通り魔だのテロリストになったり。或は天下りに血道を上げる役人では社会にとって価値を持たない。一級建築士の国家資格を持っていても、建築強度を偽装してしまったのでは迷惑にしかならないのである。従って「学力が低いよりはマシ。」などという短絡的その場限りの取り繕いというのは、単なる論理的思考放棄に過ぎず。全くもってバカの主張に他ならない。
実際には今まで何ら論理検証を行わずに鵜呑みにしていた自己の無思考性を事後正当化するための言い訳に過ぎず。こうした個人的な気分的観念こそが論理検証性に対する最大の敵なのである。
Ende;