○感情強度。
ヒトの多くは、気分感情の強度のことを意識の強度であると「思って」いるが。これは大きな間違いである。
気分感情という大脳辺縁系が促す動物的な行動バイアスというのは無意識条件反射であり、これは医学的な意味においては「意識がある。」と言うが、これは生物的/動物的な意識機能を指しているに過ぎず。人間としての本質的意識のことを指してはいない。
医学や生物学においては、生存こそが絶対的目的行動であるが、生存だけを絶対的目的とする限り犯罪であっても正当化されることは不可避となる。
東京電力で原発の安全管理に携わっていた幹部社員が、保身のために社会的危険性を放置したことも、「生きるためには。」と言い逃れするであろう。
医学というのは生物的な健康を追求しているだけであって、生物種としての「ヒト」の健全性しか論じることはない。だからこそ犯罪者の多くは「健康」なのである。
通り魔には医学的意識があり、且つ健康だと見なされるが。これを人間として正常であると言い張ればただのキチガイである。
時折「心身喪失」などと称して無罪になったりする判例があるが、それなら通り魔は自分自身の行動を自律的に制御出来ているとでも言うのであろうか。臨床心理学上の正常性というものは決して科学的根拠を伴うものではなく、臨床心理学上での規定、「見なし」に過ぎない。
そもそも司法裁判が下す懲役罰というものが、再発再犯防止のための合理的根拠を伴わず。単なる被害者感情を根拠に報復感情を満たすことで満足しているだけに過ぎない。
○新自由主義。
現在の新自由主義というものは、何を競争するのかを選択する自由が失われている。
「自由主義」と標榜しながら、実際には競争対象自体には何の自由度もなく。既存の価値観に基づいた過当競争を強制されているだけなのである。
個人が本当に主体的に望んでいる競争であれば、これは社会の多様性を拡げ社会全体を豊かにする可能性を持っていると言えるが。現状は既存の固定化された価値観に基づいて少ないパイの奪い合いをしているに過ぎず、こうした価値観の剛直化こそが殺伐とした貧しい社会を作り出すのである。
価値観の剛直化の原因は、個人の主体的意志選択の欠如にあり。ただ漫然と多数他人の価値観に迎合服従することしかしなくなっているからである。
多数大衆が作り出した価値観に迎合しておけば社会が豊かになるという根拠は全くない。多数大衆が作り出した価値観というものは個人が主体的/意識的に選択したものではなく、あくまで多数派迎合という気分的安心感に無意識に「流されて」いるに過ぎず。何ら社会持続可能性や安全性の根拠はない。
本当の自由とはヒトという種の生物が持つ本能欲望からの解放であり、他者との比較による優位性の妄想からの決別である。しかし現在の「新自由主義」体制というのは欲望経済主導になっており、何ら本質的には「自由」にはなっていないのである。
本質的な自由とは何かを分別認識出来ないまま、新自由主義を標榜するというのはとんでもない勘違いに他ならない。
○人格否定。
「人格否定が一番辛い。」という意見があるが、「人格」と「固定観念」は別である。既存の自己に刷り込み学習された価値観は「人格」ではなく、本質的な人間としての「人格」は否定不可能な厳然としたものである。
例えば原発の危険性を放置することを拒絶する場合、「辛い」などという気分感情の問題にすり替えること自体無意味であり。「辛い」だの「嫌」だの言っている時点で、それは本質的な「人格」について論じてはいないのである。
無意識に刷り込み学習された価値観を、あたかも自分自身で選択した価値観であるかのように錯覚していることが根源的な間違いの源である。なんとなく無意識に多数派迎合する形で気分的安心に流され続けることで刷り込み学習された価値観を、事後正当化する形で取り繕うからこそ、本当の意味での主体的価値観も人格も認識出来なくなるのである。
否定不能な本質的「人格」と、単なる個人的好き嫌いの区別も出来ないからこそ、ヒトの多くは本質的な目的をも簡単に見失うのであり。こうした無意識性こそが社会持続可能性や安全性からの意識をも喪失させるのである。
「人格」というのは自律的に社会的責任を負うという人間性を指すのであって、これを否定すれば、むしろ否定した者自身の人格を放棄することになるのであり。本質的な「人格」は否定不可能なものなのである。
体罰を繰り返すことを正当化する体育会系顧問なども、彼らは自分達が体罰を無為に受け入れて来たことを事後正当化するために、ヒステリックに「体罰は必要である。」と言い張るのであり。彼らは自分が無為に体罰を受け入れて来たことの否定を、あたかも「人格否定。」であるかのように錯覚しているからこそ、それを受け入れるのが「辛い」が故に拒絶するのである。
自分の頭の悪さ、本質的には自己自身で選択していない成育環境から刷り込み学習された固定観念的価値観というものを、あたかも個人の人格であるかのように錯覚する習性がヒトにはあるため。むしろこうした固定観念こそが本質的な人間としての「人格」を喪失させる原因となるのである。
オウム真理教幹部達が、教祖の命令を絶対であると勘違いし、自分達が命懸けで毒ガスを製造の「努力」を事後正当化する形でテロは実行されたのである。こうした「努力」というものは、言い換えれば「脳が鍛えられた。」ことの結果であり、努力辛抱根性的精神論によって脳に固定観念を植え付けることを「鍛える」と称して、むしろバカになっているからこそ自律的制動が全く効かず、暴走という結果を招くことになるのである。
固定観念を事後正当化する話の方が大衆人気を得やすい。だからこそ養老孟司だのオカルトペテン占い師は人気がある。
今までずっと続けてきたことを漫然と続け、あたかも論理的合理性に基づいた意識的選択による安全性であると勘違いする性質によって、安全と安心の履き違えをしておいた方が、自分の頭の悪さを認識せずにいられるために気分が良いのである。
個人の内部における価値観というもの、好き嫌いというものには。成育環境から刷り込み学習された「文化」的強迫観念と、主体的に選択された本質的価値観というものの2種類があり。ヒトの多くは本能習性的に多数派によって刷り込み学習された「文化」の方を「社会性」であると錯覚する習性がある。
自分が多数派迎合を優先している場合、多数派迎合こそが同質性均質性による気分的安心をもたらし、主体的な好き嫌いといったものの価値観を忌避するようになるのである。
皆で仲良く自律がなければ安心であろう。バカ同士でバカを正当化しておけば本能的「社会性」を満足させることも簡単であろう。
こうした簡単な行動バイアスに無為に流されているから、人類はいつまでもバカが治らないのである。
人間としての「人格」というものは、「自律的に社会的責任を負うこと。」であって。「皆で仲良くバカになることで安心すること。」ではない。
ヒトの多くは集団内部の外見的な均質性を、あたかも規範意識による抑圧的制御であると錯覚する。しかし、これは多数派による他律抑圧でこそあれ、自律には全くつながらない大衆観念的妄想に過ぎない。
自律とは、本質的な自発的「選択」によって初めて促されるものであって。成育環境によって無意識に刷り込み学習されたあらゆる価値観好き嫌いといったものの全てを常に自己検証しておかなければ、本質的な自発性とは何かすらも認識分別することは出来ないのである。
ひつこく述べるが、自分の遺伝子を自己選択していない以上、その遺伝子から作り出された脳も、その脳に社会や時代から刷り込み学習されたあらゆる価値観も、これは本質的には自己選択を介していない。
本能的な強迫観念的多数派迎合による価値観というものを、「人格」であると勘違いして事後正当化しておいた方が気分感情的には楽であろう。
自分自身が自律的な社会的責任判断が出来ないことを根拠に、他人にも規範意識的な強迫観念的抑圧を強制しておいた方が気分的には安心で満足であろう。
しかし自律でない以上、多数派からの強迫観念的抑圧というものは、衆人環視下以外では全く無意味なのである。
だから原発の危険性は放置されたのである。
税金の無駄遣いも、振り込め詐欺も、無差別テロも、これらは集団内部に自律が全く働いていない故の結果であり。あらゆる「人災」の全ての根源には自律の欠如が潜んでいるのである。
ヒトという種の生物がバカなのは天災であると言えるであろうか。克服可能性があるにも関わらず、単なる気分感情的怠慢が原因であるからこそ「人災。」なのであり。論理的合理性に対する本能気分的拒絶反応こそがあらゆる「人災」の根源なのである。
ヒトの多くは気分感情の強度こそが意識強度であると勘違いする傾向がある。傾向というよりもほとんど全員が自分の気分感情こそを意識の本質であると思い込んでいる。
自分の気分感情の根源が、一体何に由来しているのか。単なる自分の多数派迎合性を事後正当化するための強迫観念的拒絶反応に過ぎないのか、それとも論理的合理性に基づいた自律的判断であるのか。それを多くのヒトは自己検証することなく、漫然と無意識に、条件反射的に他者にも強制するのである。
何せ気分感情に由来する行動バイアスであるために、その強制性は極めてヒステリックとなり。冷静さは伴わない。
それに対して本質的な合理性に基づいて意識的に選択された行動というものには、感情がほとんど伴わないため、意見としての強制性も伴わない。そもそも自律判断というものは他者に強制されたものではないため、他者に強制することも構造的にないのである。
つまり、感情的でヒステリックな強制を求めている時点で、そいつには自律というものが全くないことの顕れであると言えるのである。
しかし、ヒトの多くは本能的な社会形成習性を先天的に持っているために、感情的でヒステリックな強迫観念的強制性ほど無為に受け入れてしまう性質がある。
平たく言えば、「相手がヒステリックなモンスターである程服従迎合してしまう。」のである。
ヒステリックなモンスター相手に論理的指摘はほとんど役に立たないため、気分感情的には服従迎合しておいた方が楽なのである。
なにせ、「俺が謝ったのは、あんたが怒るからだ。」などと言い出すキチガイも少なくない。とりあえず謝っておけば相手のご機嫌取りが出来るから謝っただけであって、自分が悪いとは一切思ってもいないから、何度でも同じ過ちを繰り返すのがモンスターというものである。
「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、多くのヒトは勘違いして満足する。気分的に満足さえしておけば安心だからであり、こうした気分感情による思考バイアスこそが論理的自己検証性を喪失させ、結果的に社会安全性が喪失することに陥るのである。
原発技術者の多くは、未だに「失敗を教訓として活用する。」などと言い張るが。経験した工学的失敗以外は教訓として活用することは出来ない。原発だけは「絶対に100%安全でなければならないもの。」であって、失敗を繰り返して安全性を高めるなどという行動学習的教訓というのは、言い換えれば「殺人を何度か繰り返すことで、殺人の可能性を低くする。」と言っているようなものである。
現実には、殺人犯を何度懲役刑に処しても再犯率は極めて高い。
航空機事故の場合、乗る方の自己責任に委ねる部分も少なからずあるが。原発事故に関しては地球規模での汚染を引き起こすものであって、自己責任の範疇には収まらない。
「原発の危険性を経済効率と秤にかけて多数決で決定する。」などと自律判断放棄するようなキチガイを。ヒトの多くは「理性的」などと勘違いするであろう。自律判断しない多数に決定を委ねることは、単なる責任放棄であって、無責任に過ぎないのである。
形式上は民主主義制度を導入している日本においては、最終決定が多数決になるのはやむを得ないものであって。経済効率と秤にかけている時点で、「社会安全性を優先していない。」という意味である。
ヒトの多くは、こと金の話になると絶対に優先されるべきものであると錯覚しがちであるが。現在の経済構造や金融システムというものの構造的問題点すら指摘出来ない経済学者の言っていることなど信用するに値しない。
Ende;
ヒトの多くは、気分感情の強度のことを意識の強度であると「思って」いるが。これは大きな間違いである。
気分感情という大脳辺縁系が促す動物的な行動バイアスというのは無意識条件反射であり、これは医学的な意味においては「意識がある。」と言うが、これは生物的/動物的な意識機能を指しているに過ぎず。人間としての本質的意識のことを指してはいない。
医学や生物学においては、生存こそが絶対的目的行動であるが、生存だけを絶対的目的とする限り犯罪であっても正当化されることは不可避となる。
東京電力で原発の安全管理に携わっていた幹部社員が、保身のために社会的危険性を放置したことも、「生きるためには。」と言い逃れするであろう。
医学というのは生物的な健康を追求しているだけであって、生物種としての「ヒト」の健全性しか論じることはない。だからこそ犯罪者の多くは「健康」なのである。
通り魔には医学的意識があり、且つ健康だと見なされるが。これを人間として正常であると言い張ればただのキチガイである。
時折「心身喪失」などと称して無罪になったりする判例があるが、それなら通り魔は自分自身の行動を自律的に制御出来ているとでも言うのであろうか。臨床心理学上の正常性というものは決して科学的根拠を伴うものではなく、臨床心理学上での規定、「見なし」に過ぎない。
そもそも司法裁判が下す懲役罰というものが、再発再犯防止のための合理的根拠を伴わず。単なる被害者感情を根拠に報復感情を満たすことで満足しているだけに過ぎない。
○新自由主義。
現在の新自由主義というものは、何を競争するのかを選択する自由が失われている。
「自由主義」と標榜しながら、実際には競争対象自体には何の自由度もなく。既存の価値観に基づいた過当競争を強制されているだけなのである。
個人が本当に主体的に望んでいる競争であれば、これは社会の多様性を拡げ社会全体を豊かにする可能性を持っていると言えるが。現状は既存の固定化された価値観に基づいて少ないパイの奪い合いをしているに過ぎず、こうした価値観の剛直化こそが殺伐とした貧しい社会を作り出すのである。
価値観の剛直化の原因は、個人の主体的意志選択の欠如にあり。ただ漫然と多数他人の価値観に迎合服従することしかしなくなっているからである。
多数大衆が作り出した価値観に迎合しておけば社会が豊かになるという根拠は全くない。多数大衆が作り出した価値観というものは個人が主体的/意識的に選択したものではなく、あくまで多数派迎合という気分的安心感に無意識に「流されて」いるに過ぎず。何ら社会持続可能性や安全性の根拠はない。
本当の自由とはヒトという種の生物が持つ本能欲望からの解放であり、他者との比較による優位性の妄想からの決別である。しかし現在の「新自由主義」体制というのは欲望経済主導になっており、何ら本質的には「自由」にはなっていないのである。
本質的な自由とは何かを分別認識出来ないまま、新自由主義を標榜するというのはとんでもない勘違いに他ならない。
○人格否定。
「人格否定が一番辛い。」という意見があるが、「人格」と「固定観念」は別である。既存の自己に刷り込み学習された価値観は「人格」ではなく、本質的な人間としての「人格」は否定不可能な厳然としたものである。
例えば原発の危険性を放置することを拒絶する場合、「辛い」などという気分感情の問題にすり替えること自体無意味であり。「辛い」だの「嫌」だの言っている時点で、それは本質的な「人格」について論じてはいないのである。
無意識に刷り込み学習された価値観を、あたかも自分自身で選択した価値観であるかのように錯覚していることが根源的な間違いの源である。なんとなく無意識に多数派迎合する形で気分的安心に流され続けることで刷り込み学習された価値観を、事後正当化する形で取り繕うからこそ、本当の意味での主体的価値観も人格も認識出来なくなるのである。
否定不能な本質的「人格」と、単なる個人的好き嫌いの区別も出来ないからこそ、ヒトの多くは本質的な目的をも簡単に見失うのであり。こうした無意識性こそが社会持続可能性や安全性からの意識をも喪失させるのである。
「人格」というのは自律的に社会的責任を負うという人間性を指すのであって、これを否定すれば、むしろ否定した者自身の人格を放棄することになるのであり。本質的な「人格」は否定不可能なものなのである。
体罰を繰り返すことを正当化する体育会系顧問なども、彼らは自分達が体罰を無為に受け入れて来たことを事後正当化するために、ヒステリックに「体罰は必要である。」と言い張るのであり。彼らは自分が無為に体罰を受け入れて来たことの否定を、あたかも「人格否定。」であるかのように錯覚しているからこそ、それを受け入れるのが「辛い」が故に拒絶するのである。
自分の頭の悪さ、本質的には自己自身で選択していない成育環境から刷り込み学習された固定観念的価値観というものを、あたかも個人の人格であるかのように錯覚する習性がヒトにはあるため。むしろこうした固定観念こそが本質的な人間としての「人格」を喪失させる原因となるのである。
オウム真理教幹部達が、教祖の命令を絶対であると勘違いし、自分達が命懸けで毒ガスを製造の「努力」を事後正当化する形でテロは実行されたのである。こうした「努力」というものは、言い換えれば「脳が鍛えられた。」ことの結果であり、努力辛抱根性的精神論によって脳に固定観念を植え付けることを「鍛える」と称して、むしろバカになっているからこそ自律的制動が全く効かず、暴走という結果を招くことになるのである。
固定観念を事後正当化する話の方が大衆人気を得やすい。だからこそ養老孟司だのオカルトペテン占い師は人気がある。
今までずっと続けてきたことを漫然と続け、あたかも論理的合理性に基づいた意識的選択による安全性であると勘違いする性質によって、安全と安心の履き違えをしておいた方が、自分の頭の悪さを認識せずにいられるために気分が良いのである。
個人の内部における価値観というもの、好き嫌いというものには。成育環境から刷り込み学習された「文化」的強迫観念と、主体的に選択された本質的価値観というものの2種類があり。ヒトの多くは本能習性的に多数派によって刷り込み学習された「文化」の方を「社会性」であると錯覚する習性がある。
自分が多数派迎合を優先している場合、多数派迎合こそが同質性均質性による気分的安心をもたらし、主体的な好き嫌いといったものの価値観を忌避するようになるのである。
皆で仲良く自律がなければ安心であろう。バカ同士でバカを正当化しておけば本能的「社会性」を満足させることも簡単であろう。
こうした簡単な行動バイアスに無為に流されているから、人類はいつまでもバカが治らないのである。
人間としての「人格」というものは、「自律的に社会的責任を負うこと。」であって。「皆で仲良くバカになることで安心すること。」ではない。
ヒトの多くは集団内部の外見的な均質性を、あたかも規範意識による抑圧的制御であると錯覚する。しかし、これは多数派による他律抑圧でこそあれ、自律には全くつながらない大衆観念的妄想に過ぎない。
自律とは、本質的な自発的「選択」によって初めて促されるものであって。成育環境によって無意識に刷り込み学習されたあらゆる価値観好き嫌いといったものの全てを常に自己検証しておかなければ、本質的な自発性とは何かすらも認識分別することは出来ないのである。
ひつこく述べるが、自分の遺伝子を自己選択していない以上、その遺伝子から作り出された脳も、その脳に社会や時代から刷り込み学習されたあらゆる価値観も、これは本質的には自己選択を介していない。
本能的な強迫観念的多数派迎合による価値観というものを、「人格」であると勘違いして事後正当化しておいた方が気分感情的には楽であろう。
自分自身が自律的な社会的責任判断が出来ないことを根拠に、他人にも規範意識的な強迫観念的抑圧を強制しておいた方が気分的には安心で満足であろう。
しかし自律でない以上、多数派からの強迫観念的抑圧というものは、衆人環視下以外では全く無意味なのである。
だから原発の危険性は放置されたのである。
税金の無駄遣いも、振り込め詐欺も、無差別テロも、これらは集団内部に自律が全く働いていない故の結果であり。あらゆる「人災」の全ての根源には自律の欠如が潜んでいるのである。
ヒトという種の生物がバカなのは天災であると言えるであろうか。克服可能性があるにも関わらず、単なる気分感情的怠慢が原因であるからこそ「人災。」なのであり。論理的合理性に対する本能気分的拒絶反応こそがあらゆる「人災」の根源なのである。
ヒトの多くは気分感情の強度こそが意識強度であると勘違いする傾向がある。傾向というよりもほとんど全員が自分の気分感情こそを意識の本質であると思い込んでいる。
自分の気分感情の根源が、一体何に由来しているのか。単なる自分の多数派迎合性を事後正当化するための強迫観念的拒絶反応に過ぎないのか、それとも論理的合理性に基づいた自律的判断であるのか。それを多くのヒトは自己検証することなく、漫然と無意識に、条件反射的に他者にも強制するのである。
何せ気分感情に由来する行動バイアスであるために、その強制性は極めてヒステリックとなり。冷静さは伴わない。
それに対して本質的な合理性に基づいて意識的に選択された行動というものには、感情がほとんど伴わないため、意見としての強制性も伴わない。そもそも自律判断というものは他者に強制されたものではないため、他者に強制することも構造的にないのである。
つまり、感情的でヒステリックな強制を求めている時点で、そいつには自律というものが全くないことの顕れであると言えるのである。
しかし、ヒトの多くは本能的な社会形成習性を先天的に持っているために、感情的でヒステリックな強迫観念的強制性ほど無為に受け入れてしまう性質がある。
平たく言えば、「相手がヒステリックなモンスターである程服従迎合してしまう。」のである。
ヒステリックなモンスター相手に論理的指摘はほとんど役に立たないため、気分感情的には服従迎合しておいた方が楽なのである。
なにせ、「俺が謝ったのは、あんたが怒るからだ。」などと言い出すキチガイも少なくない。とりあえず謝っておけば相手のご機嫌取りが出来るから謝っただけであって、自分が悪いとは一切思ってもいないから、何度でも同じ過ちを繰り返すのがモンスターというものである。
「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、多くのヒトは勘違いして満足する。気分的に満足さえしておけば安心だからであり、こうした気分感情による思考バイアスこそが論理的自己検証性を喪失させ、結果的に社会安全性が喪失することに陥るのである。
原発技術者の多くは、未だに「失敗を教訓として活用する。」などと言い張るが。経験した工学的失敗以外は教訓として活用することは出来ない。原発だけは「絶対に100%安全でなければならないもの。」であって、失敗を繰り返して安全性を高めるなどという行動学習的教訓というのは、言い換えれば「殺人を何度か繰り返すことで、殺人の可能性を低くする。」と言っているようなものである。
現実には、殺人犯を何度懲役刑に処しても再犯率は極めて高い。
航空機事故の場合、乗る方の自己責任に委ねる部分も少なからずあるが。原発事故に関しては地球規模での汚染を引き起こすものであって、自己責任の範疇には収まらない。
「原発の危険性を経済効率と秤にかけて多数決で決定する。」などと自律判断放棄するようなキチガイを。ヒトの多くは「理性的」などと勘違いするであろう。自律判断しない多数に決定を委ねることは、単なる責任放棄であって、無責任に過ぎないのである。
形式上は民主主義制度を導入している日本においては、最終決定が多数決になるのはやむを得ないものであって。経済効率と秤にかけている時点で、「社会安全性を優先していない。」という意味である。
ヒトの多くは、こと金の話になると絶対に優先されるべきものであると錯覚しがちであるが。現在の経済構造や金融システムというものの構造的問題点すら指摘出来ない経済学者の言っていることなど信用するに値しない。
Ende;