書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○トロッコ問題。

2016年01月05日 14時17分47秒 | 意識論関連
トロッコ問題というのは、要するに気分的バイアスの問題しか扱っていない。

そもそも「太った男を跨線橋から突き落とす。」というのは殺人であり、単にポイント切り換えを操作するのとは話が違いますし、素人が勝手に鉄道設備を操作することが正しいとも言えません。

Wiredというサイトにはこんな一文が載っていました。

「行動のなんらかのレベルにおいては、進化論的に理にかなったことなのだろうか?」


何ですか? 「進化論的に理にかなったこと。」って。進化というのは「結果」ですから、進化の全てが理にかなった行動だとでも言うんですかね。これこそが文科系大衆観念的錯誤というものなんですよ。

進化(変化)というのは結果ですから、そこに目的も意思も意識もないんですよ。そこ理解していないバカが多過ぎて話にならない。

進化というのは目的がありません。死ななければ生存しているだけですから、そこにあるのは「結果」しかないのです。ある条件下では生存に適した行動であるとしても、その行動が常に正しい結果をもたらす保証があるわけではありません。

ヒトが権威者に服従する性質が個体の生存にとって有利であるとしても、その性質こそが大量虐殺の原因になることもあるわけであり。「進化論的な理。」なんてものが存在すると思っていること自体がエセ科学なんですよ。

そもそもトロッコ問題というのは解決策がありません。話を単純化すれば「一人殺すか、5人殺すかを選べ。」と言っているだけであって、事故そのものを回避することが出来ない問題ですから、解決策自体が存在しないんですよ。ですからポイント切り換えをするしないかで何かの問題が解決するわけでもなく、問題を解決するためにはそういった状況自体を作らないよう対策することが重要なのであって。一人殺しても5人殺しても、どちらかを見殺しにしなければならないので何の解決にもならない問題なのです。

ところが文科系大衆観念者というのは、こうした気分的に「悩ましい」問題が何かの役に立つかのような錯覚に陥り。あたかも気分的に「悩んだ」ことを、論理的に「考えた」と錯覚しているに過ぎないのです。

こういった、クソの役にも立たない話で満足しているのがマイケル:サンデルのような人文科学系研究者です。



倫理というのは、その場限りの気分で決定するようなものではありません。「一人殺すか、5人殺すか。」を選ぶことは倫理性とは無関係な話であり、5人いれば誰かが先に気付いて全員避ける可能性もあるわけですから、必ずしもポイント切り換えをすることが「正しい判断」であるとも言えないのです。

倫理の問題というのは、自分のリスクと社会的リスクを秤にかけるような選択を指すのであって、回避不可能なアクシデントでは倫理については何も論じることが出来ないということに、誰も気付かないことの方が異常なのです。

Ende;
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