遺伝的な進化というものは、様々な突然変異による多様化した種が、淘汰圧力によって「結果的に死ななかった。」という結果でしかない。
そもそも遺伝子というものは個体自ら選択的に変異させられるようなものではなく。「結果的に死ななかった。」個体のものであっても、生存や種の保存などの目的に合わせて選んだものではなく。あくまで偶発的に「結果的に死ななかった。」だけの結果に過ぎない。
進化の素となる突然変異というものは、生存や種の保存などといった目的のために起こるものではなく、あくまで偶発的な結果でしかなく。その変異のほとんどは先天的疾患を引き起こすか、若しくは何も影響を及ぼさない。
例えば耐性菌の発生過程では、突然変異のほとんどは生存にすら適さないのだが、たまたま偶発的に殺菌剤環境下でも死なない変異をした個体が発生することがあるわけだが。偶発的に耐性を持った個体が出るまで駆逐されないという適度な淘汰圧力が働くような発生環境がなければ発生することはほとんどない。
特定生物種に対する淘汰圧力が、絶滅させる程強ければ結果的に駆逐されてしまい、進化も何も起こらないのであって。進化が促されるような適度な淘汰圧力環境そのものもまた偶発的結果でしかなく。たとえどんなに様々な能力の高い優秀な生物であっても淘汰圧力が強すぎれば絶滅してしまって種として遺らないのである。
逆に言えば、淘汰圧力があまり働かないようなぬるま湯環境下であれば、特に特徴もない生物種であっても遺る場合もある。ウーパールーパーのようにエラ(急所)が体外に露出している脆弱な生物であっても種として遺ることもある。
フランシス:ゴルトンの提唱した優生学のように、「より強く、繁殖能力の高い種へと進化する。」ことが常に生存や種の存続に適するわけではなく。極端に強く、異常繁殖するような生物種が発生してしまえば、逆に環境自体を喰い潰してしまい、自らの生存条件すらも潰して絶滅してしまうのである。エボラ出血熱ウイルスが「ヒト」という寄生環境を喰い潰してしまえば自らの生存条件すらも喪失するのと同じで。ひたすら強くて繁殖能力が高い生物種が生き残れるわけではなく、むしろ食物連鎖のピラミッドの頂点に該当する肉食動物はネズミやイワシのような増殖能力は持たずに、環境を喰い潰さないよう個体数が増え過ぎない生物種でなければ環境に適応出来ずに、環境もろとも共倒れになってしまうのである。
おそらくは、生物進化の過程においては、異常繁殖による自らの生存環境破壊によって絶滅を繰り返した結果。たまたま環境調和に適した食物連鎖のピラミッドにあてはまる生物種への淘汰の結果として、現状の生物相が形成されたのである。
食物連鎖のピラミッドであっても、ごく僅かな環境条件の変化にすら対応することは出来ずに崩壊してしまうことはよくあることであり。急激な環境変化に対応出来ないこと自体、変異や進化を自ら選択することが出来ない故の結果である
つまり、進化というものは特定の目的に基づいて戦略的、合理的に行われるようなものではなく。あくまで偶発的に「結果的に死なずに済んだ」という結果以上の意味は存在しないのである。
ヒトという種の生物が、先天的に人間性を持つためには。人間性を持った個体への淘汰圧力環境が必要であるが。実際にヒトが作り出す社会環境というのは、階級差別や排除、暴力的威圧が横行するものであり。人間性を持った行動を行うことで淘汰から免れるような環境下などほとんど存在しない。
むしろ、階級差別や排除に協調的に同調することによって、差別から免れるような個体への淘汰圧力ばかりが働いているのが現状である。
これは京都大学霊長類研究所などの生物学の嘘が一向に訂正されない大きな要因でもある。
ヒトという種の生物は、権威と認めた相手の言うことを盲目的に信頼し、権威を批判する少数意見はどんなに合理的で科学的に正しい意見であっても黙殺排除する習性がある。
ヒトという種の生物が、なぜ戦争などという暴力に加担するのかと言えば。権威と認めた相手に服従する集団に逆らわず、迎合して多数派に同調し協調的行動を採る習性があるからだ。
その方が気分的に「安心」という行動バイアスがあるからこそ、ヒトはヘイトスピーチなどの差別排除に迎合し、国家や民族という分類だけを根拠に殺し合いまで行えるのである。
ヒトという種の生物は、先天的には人間ではない。子供達だけで集団を形成させると自動的にイジメなどの差別や暴力行為を行うようになるのも、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた社会形成習性が促す先天的欠陥に起因するものである。それがたとえ環境要因によって異なるとしても、特定環境においては普遍的に起こる生物としての先天的習性であることの反証には全くならない。
むしろ、イジメが自然に起こらない環境の方が圧倒的に少ないのであり。大概の環境下ではイジメ差別が発生する以上、差別排除をもたらす社会形成習性というものは、ヒトの人間性を著しく阻害する原因でこそあれ、人間としての社会性の論証になど一切ならないのである。
生物学者の多くは、長い間生物学におけるSocialty(社会形成習性)を、短絡的に人間性を伴った個人の社会性と混同してきたのだが。松沢哲郎はこの理論に対抗して「先天的な行動習性によって、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという理論的に不可能なはぐらかしを仕掛けてきた。
もし、私の理論を知らないのであれば、わざわざ先天的な行動習性で人間性を立証する必要性はないのであり。明らかに従来の生物学におけるSocialty(社会形成習性)というものが人間性を伴った個人の社会性とは全く異なるものであることを知っていながら、そのことに自ら気づくことの出来なかった無能さを隠蔽するために、理解力の欠落した多数大衆やマスコミを欺く形ではぐらかしを仕掛けてきたのである。
これは、いわば、イジメや差別、振り込め詐欺集団の協調性や役割分担や統率であっても「人間性のひとつである。」と言っているのと同義である。
東京電力福島第一原発事故における国会事故調査委員会報告書によれば、「組織の利益を優先し、個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと。」が最も根源的な原因であると結論づけているが。個人が自律的な社会的責任判断を行わなくなる大きな要因こそが、ヒトの先天的な社会形成習性に起因する迎合的同調性なのである。
イジメであれ、紛争や戦争も含めた様々な「人災」のほとんど全てには。ヒトの先天的な社会形成習性に起因する合理性を欠いた迎合的同調性や盲目的服従性が働いている。
これは実験室で実証する必要すらない程に多数の現象として現れているものであり、今更イジメや差別がヒトの先天的習性ではないことを立証することの方が無謀なのである。
ヒトの歴史は「集団的な協調的統率による差別暴力」という戦争の歴史である。これが先天的習性ではないことの証明を一体どのようにして立証するつもりであろうか。
例えばである。残虐なISILのメンバーを鋼鉄とポリカーボネートのケージの中に閉じ込め、食事と引き換えにタッチパネルでどのような芸を行ったらヒトという種の生物の先天的人間性の立証になると言うのであろうか。京都大学霊長類研究所が行っている実験というのは、こうした理論的に立証不可能な寝言の上塗りにしかなっていない。
人間性というものはそもそも先天的習性によって発揮されるものではなく。むしろ先天的習性という無意識性の行動バイアスに流されることなく、自律的に論理検証する個人の本質的意識によって発揮されるものであり。「先天的習性によって人間性を立証できるかも知れない。」などという松沢の話は理解力の乏しい大衆マスコミを糠喜びさせるだけの嘘でしかない。
もし、先天的習性として人間性が組み込まれているのであれば、「何も自分では考えなくとも自動的に常に人間性が発揮される先天的に優秀で崇高な存在である。」とでも錯覚することで、気分的に安心満足することによって、何かの解決にでもなったと錯覚するのが多数大衆やマスコミである。
だからこそ松沢らの嘘を認識できないのである。
生存であれ、種の保存であれ。これらは「生物の目的」ではない。
結果的に生存していたものを生物と分類しているだけであって、結果と目的を区別出来ないのは論理検証性の欠如であり。科学者としての基本的素養が欠如している。
これは、現状の生物学者のほとんどは、科学者として無能であることを意味する。
こうした生物学界の無能を誰も指摘出来ない哲学者も同様に無能である。
脂汗をかきながらドスト:エフスキーの読書感想文を開陳している亀山郁夫が哲学者として扱われているのも、現状の哲学者が全員無能であることの証明である。
亀山は「ドスト:エフスキーが現代の社会を予言した。」だとか言っているが、理論的根拠に基づいた予言ではなく、ノストラダムス的に後からこじつけただけの妄想でしかない。
Ende;
そもそも遺伝子というものは個体自ら選択的に変異させられるようなものではなく。「結果的に死ななかった。」個体のものであっても、生存や種の保存などの目的に合わせて選んだものではなく。あくまで偶発的に「結果的に死ななかった。」だけの結果に過ぎない。
進化の素となる突然変異というものは、生存や種の保存などといった目的のために起こるものではなく、あくまで偶発的な結果でしかなく。その変異のほとんどは先天的疾患を引き起こすか、若しくは何も影響を及ぼさない。
例えば耐性菌の発生過程では、突然変異のほとんどは生存にすら適さないのだが、たまたま偶発的に殺菌剤環境下でも死なない変異をした個体が発生することがあるわけだが。偶発的に耐性を持った個体が出るまで駆逐されないという適度な淘汰圧力が働くような発生環境がなければ発生することはほとんどない。
特定生物種に対する淘汰圧力が、絶滅させる程強ければ結果的に駆逐されてしまい、進化も何も起こらないのであって。進化が促されるような適度な淘汰圧力環境そのものもまた偶発的結果でしかなく。たとえどんなに様々な能力の高い優秀な生物であっても淘汰圧力が強すぎれば絶滅してしまって種として遺らないのである。
逆に言えば、淘汰圧力があまり働かないようなぬるま湯環境下であれば、特に特徴もない生物種であっても遺る場合もある。ウーパールーパーのようにエラ(急所)が体外に露出している脆弱な生物であっても種として遺ることもある。
フランシス:ゴルトンの提唱した優生学のように、「より強く、繁殖能力の高い種へと進化する。」ことが常に生存や種の存続に適するわけではなく。極端に強く、異常繁殖するような生物種が発生してしまえば、逆に環境自体を喰い潰してしまい、自らの生存条件すらも潰して絶滅してしまうのである。エボラ出血熱ウイルスが「ヒト」という寄生環境を喰い潰してしまえば自らの生存条件すらも喪失するのと同じで。ひたすら強くて繁殖能力が高い生物種が生き残れるわけではなく、むしろ食物連鎖のピラミッドの頂点に該当する肉食動物はネズミやイワシのような増殖能力は持たずに、環境を喰い潰さないよう個体数が増え過ぎない生物種でなければ環境に適応出来ずに、環境もろとも共倒れになってしまうのである。
おそらくは、生物進化の過程においては、異常繁殖による自らの生存環境破壊によって絶滅を繰り返した結果。たまたま環境調和に適した食物連鎖のピラミッドにあてはまる生物種への淘汰の結果として、現状の生物相が形成されたのである。
食物連鎖のピラミッドであっても、ごく僅かな環境条件の変化にすら対応することは出来ずに崩壊してしまうことはよくあることであり。急激な環境変化に対応出来ないこと自体、変異や進化を自ら選択することが出来ない故の結果である
つまり、進化というものは特定の目的に基づいて戦略的、合理的に行われるようなものではなく。あくまで偶発的に「結果的に死なずに済んだ」という結果以上の意味は存在しないのである。
ヒトという種の生物が、先天的に人間性を持つためには。人間性を持った個体への淘汰圧力環境が必要であるが。実際にヒトが作り出す社会環境というのは、階級差別や排除、暴力的威圧が横行するものであり。人間性を持った行動を行うことで淘汰から免れるような環境下などほとんど存在しない。
むしろ、階級差別や排除に協調的に同調することによって、差別から免れるような個体への淘汰圧力ばかりが働いているのが現状である。
これは京都大学霊長類研究所などの生物学の嘘が一向に訂正されない大きな要因でもある。
ヒトという種の生物は、権威と認めた相手の言うことを盲目的に信頼し、権威を批判する少数意見はどんなに合理的で科学的に正しい意見であっても黙殺排除する習性がある。
ヒトという種の生物が、なぜ戦争などという暴力に加担するのかと言えば。権威と認めた相手に服従する集団に逆らわず、迎合して多数派に同調し協調的行動を採る習性があるからだ。
その方が気分的に「安心」という行動バイアスがあるからこそ、ヒトはヘイトスピーチなどの差別排除に迎合し、国家や民族という分類だけを根拠に殺し合いまで行えるのである。
ヒトという種の生物は、先天的には人間ではない。子供達だけで集団を形成させると自動的にイジメなどの差別や暴力行為を行うようになるのも、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた社会形成習性が促す先天的欠陥に起因するものである。それがたとえ環境要因によって異なるとしても、特定環境においては普遍的に起こる生物としての先天的習性であることの反証には全くならない。
むしろ、イジメが自然に起こらない環境の方が圧倒的に少ないのであり。大概の環境下ではイジメ差別が発生する以上、差別排除をもたらす社会形成習性というものは、ヒトの人間性を著しく阻害する原因でこそあれ、人間としての社会性の論証になど一切ならないのである。
生物学者の多くは、長い間生物学におけるSocialty(社会形成習性)を、短絡的に人間性を伴った個人の社会性と混同してきたのだが。松沢哲郎はこの理論に対抗して「先天的な行動習性によって、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという理論的に不可能なはぐらかしを仕掛けてきた。
もし、私の理論を知らないのであれば、わざわざ先天的な行動習性で人間性を立証する必要性はないのであり。明らかに従来の生物学におけるSocialty(社会形成習性)というものが人間性を伴った個人の社会性とは全く異なるものであることを知っていながら、そのことに自ら気づくことの出来なかった無能さを隠蔽するために、理解力の欠落した多数大衆やマスコミを欺く形ではぐらかしを仕掛けてきたのである。
これは、いわば、イジメや差別、振り込め詐欺集団の協調性や役割分担や統率であっても「人間性のひとつである。」と言っているのと同義である。
東京電力福島第一原発事故における国会事故調査委員会報告書によれば、「組織の利益を優先し、個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと。」が最も根源的な原因であると結論づけているが。個人が自律的な社会的責任判断を行わなくなる大きな要因こそが、ヒトの先天的な社会形成習性に起因する迎合的同調性なのである。
イジメであれ、紛争や戦争も含めた様々な「人災」のほとんど全てには。ヒトの先天的な社会形成習性に起因する合理性を欠いた迎合的同調性や盲目的服従性が働いている。
これは実験室で実証する必要すらない程に多数の現象として現れているものであり、今更イジメや差別がヒトの先天的習性ではないことを立証することの方が無謀なのである。
ヒトの歴史は「集団的な協調的統率による差別暴力」という戦争の歴史である。これが先天的習性ではないことの証明を一体どのようにして立証するつもりであろうか。
例えばである。残虐なISILのメンバーを鋼鉄とポリカーボネートのケージの中に閉じ込め、食事と引き換えにタッチパネルでどのような芸を行ったらヒトという種の生物の先天的人間性の立証になると言うのであろうか。京都大学霊長類研究所が行っている実験というのは、こうした理論的に立証不可能な寝言の上塗りにしかなっていない。
人間性というものはそもそも先天的習性によって発揮されるものではなく。むしろ先天的習性という無意識性の行動バイアスに流されることなく、自律的に論理検証する個人の本質的意識によって発揮されるものであり。「先天的習性によって人間性を立証できるかも知れない。」などという松沢の話は理解力の乏しい大衆マスコミを糠喜びさせるだけの嘘でしかない。
もし、先天的習性として人間性が組み込まれているのであれば、「何も自分では考えなくとも自動的に常に人間性が発揮される先天的に優秀で崇高な存在である。」とでも錯覚することで、気分的に安心満足することによって、何かの解決にでもなったと錯覚するのが多数大衆やマスコミである。
だからこそ松沢らの嘘を認識できないのである。
生存であれ、種の保存であれ。これらは「生物の目的」ではない。
結果的に生存していたものを生物と分類しているだけであって、結果と目的を区別出来ないのは論理検証性の欠如であり。科学者としての基本的素養が欠如している。
これは、現状の生物学者のほとんどは、科学者として無能であることを意味する。
こうした生物学界の無能を誰も指摘出来ない哲学者も同様に無能である。
脂汗をかきながらドスト:エフスキーの読書感想文を開陳している亀山郁夫が哲学者として扱われているのも、現状の哲学者が全員無能であることの証明である。
亀山は「ドスト:エフスキーが現代の社会を予言した。」だとか言っているが、理論的根拠に基づいた予言ではなく、ノストラダムス的に後からこじつけただけの妄想でしかない。
Ende;