未来学者レイ:カーツワイルの提唱するシンギュラリティ予測では、ヒトの脳とAIを直接接続することによって知能が爆発的に拡大すると述べた
カーツワイルは知能の本質を「美的感覚」だの「官能」だと述べているが、これが既に大間違いである
美的感覚や官能といった情動は先天的行動バイアスであり無意識に過ぎず、これはむしろ知能としての本質的意識を阻害するものである
テロや通り魔というのは、暴力殺戮に対する美的官能(満足)によって促される行動バイアスであり。これはヒトという種の生物が進化の過程で残されてきた人間性に対する知的欠陥によって生ずるものである
こうしたヒトの先天的な脳の知的欠陥というものが、インターネットやAIに接続することで治るとは考え難い
むしろISILはWebを用いて多数の若者の脳の知的欠陥を利用する形でテロ行為を行っていることからも、インターネットやAIは所詮道具の域を出ることはなく、自らの知的欠陥を認識していないヒトの脳を、如何なる高性能量子コンピューターに接続しても高性能テロリズムを生産するだけである
その意味においての能力の向上による危険性の増大は不可避であろう
だからこそ人類は自らの脳の知的欠陥について認識する必要性がある
知能というものの本質を、特定能力の規模や速度だけだという誤った認識をし、社会全体の持続可能性や安全性という最も重要な事柄に対して優先順位が働かないのもまた、ヒトの脳の知的欠陥が原因である
◇
カーツワイルは、「人類は宇宙全体の環境に影響を与えることがゴール(目的)だ。」と述べているが、これは意味がわからない
結果的に宇宙環境にまで影響を与えてしまうことがある可能性があるとしても、なぜ宇宙環境にまで影響を与えることを目的にしなければならないのであろうか
何らかの事象の大きさだけを取り上げて、事後正当化する形で目的だとこじつける発想こそが、論理検証性の欠落であり、文科系大衆観念に基づいた妄想錯覚という知的欠陥に他ならない
現在の生物学における進化への目的のこじつけも、結果的変異に過ぎない進化に対する事後正当化する形式の妄想錯覚であり。論理的には支離滅裂である
◇
そもそもヒトの活動が地球環境にまで影響を及ぼしてしまったというのは結果であって目的ではない
結果の大きさだけを基準に、あたかも意図的目的であるかのように錯覚するのがヒトの脳の先天的欠陥であり、文科系大衆観念である
何が哀しくて大規模な気候変動を引き起こすような影響を、意図的に行わなくてはならないのか、意味がわからない
従って、たとえ将来ヒトが宇宙環境にまで影響を及ぼす可能性があるとしても、実際に及ぼしたとしても、それは別に目的ではない
人類の人間としての目的とは、別に生活に支障をきたすような環境破壊ではなく。むしろ、持続可能で安全性の高い社会を次世代に遺すことであって、結果の大きさだけを基準に「目的だ。」などと定義することがそもそも大間違いなのである
これは生物学における遺伝的進化においても言えることであり、結果的に生存や種の保存に適した個体が残ったからといって、それが生物の目的であることの論証には全くならない
そもそも遺伝的進化というのは、変異に淘汰圧力がかかった結果以上の意味などなく。誰の目的意図も働いてなどいないのである
◇
左脳優位な者というのは、極めて限定的立証や現象だけを根拠に目的を決定したがる習性がある
故に、単なる結果と、意図的目的との区別さえ満足に出来ないのである
「生物の目的が生存ではないのであれば、社会安全性も持続可能性も要らないではないか。」などと言い出すバカも後を絶たない
これは、旧約聖書における「神がいないのであれば、何をしても赦される。」という屁理屈と同じで、自律的な論理検証が全く出来ない幼稚な脳の発想パターンでしかない
生存や種の保存が生物の目的ではないからといって、それがいきなり社会持続性までもが人間としての目的ではなくなるというのは、あまりに短絡的でほとんど痴呆とも言える発言である
なぜ、目的というものが先天的/決定論的/運命的に決定していなければならないのであろうか。そもそもその部分の論理検証性が左脳優位な者の思考からは欠落しているのである
「先天的な本能習性には逆らうことが出来ない。」などという発想も、実際には「逆らいたくない。」という主観的観念感情を論理証明であるかのように言い張っているだけであって。自律的な社会的責任判断選択が不可能であることの論理証明には全くならないのである
意識的な目的決定というものは、知識の全体像の中から論理的且つ自律的に算出されるものであり。神や先天的習性という「結果」以上の価値を持たないものから自動的に導き出されるようなものではない
NHKの解説委員が以前このようなことを述べたことがある、「人類は絶対に絶滅する。」と。
人類の活動の結果を見てゆくと、確かに運命論的発想からは絶滅する可能性は充分にあるが。だからといって、絶滅への道以外が選択不可能であることの論理的証明になど一切ならない
結果的に危険な行為をしていたことを認識したのであれば、その危険性を回避するための新たな措置をこうじるのは当たり前の話であり。「今までずっと危険なことをしてきたから、これからも危険は回避することは不可能だ。」などと言い張るのは、もはやバカを超えたキチガイであろう
航空機の運用において、アクシデントなどをキッカケにある危険性を認識した場合。その危険性を回避するための措置をこうじて安全性を高めるのは当たり前である
新幹線の台車に亀裂が入ったからといって、大事故で多数の死者が出るまで何の措置もこうじないというのはキチガイでしかない
新幹線や航空機に対しては安全性を求めるのに、どうして人類全体の行動や思考については何の措置もこうじないのであろうか
なぜ、通り魔やテロリズム、紛争といった重大な暴力に対しては、その原因究明と再発防止対策が行われないのであろうか
旧約聖書における「神がいないのであれば、何をしてもゆるされる。」という話は、自分達がどのような社会を望むのかを自律的に選択する意思がなく、何でもかんでも神だけに責任をなすりつけるための幼稚な発想である
破壊や暴力と略奪とレイプが横行するような社会は、多くの人は求めていないはずであるが。実際には社会環境が悪いと簡単に起きるものでもある
これはひとえに社会を形成している個人の自律が欠落していることによる、先天的欲望の暴走が引き起こすものであり。個人に自律的な社会的責任判断選択がないのが原因である
社会の持続可能性や安全性を求めているのは神ではない 人間である
ところが人間ではないヒトが存在するために、環境に流され先天的習性のままに行動してしまう結果、社会の崩壊を招いてしまうのである
ヒトという種の生物は、先天的には人間性を発揮する習性はない。あくまで自律的な論理検証性によって人間性を発揮するのである
懲罰で全てが解決したと錯覚するのも、ヒトの脳の先天的欠陥のひとつである
通り魔事件が発生したからといって、犯人を死刑にすれば通り魔が一切なくなるわけではなく。なぜ通り魔行為を行うような無責任で身勝手な行動をするようになったのか、その原因究明と再発防止対策を立て、通り魔予備軍に対する予防策としての「治療」を行わなければ、論理的には再発防止にはならない
危険学や失敗学においては、刑法懲罰を一時停止することによって、理論的原因究明を行うのが常識である
それは刑法懲罰というものが、再発防止において障害、邪魔にしかならないからである
犯罪者の成育環境というものに間違いがある場合、社会的制裁などの罰ではなく、徹底した調査研究によって具体的に何が悪かったのかを明確にし、国民に周知することで再発防止にすることで「教訓」という財産に変えることができるのである
なぜなら子育て教育というのは誰もが素人であり、たとえ教育研究者の尾木ママでも自分の長女を「いい子症候群」に陥らせてしまうこともあるのだから、誰もが初めての体験である子育てで失敗があるのは当たり前だという考え方をすべきなのである
これは、単なる気分的寛容さではなく。論理的に社会安全性を追求するのに最も近道で合理的だからだ
犯罪者だけに自律を求め、その他である自分は一切自律的な社会的判断選択を行わないというのは、結局無責任であることに違いなどない
刑罰といった国家権力を用いた恐怖による抑圧をしなければ犯罪が減らない状況そのものが、そもそも間違っているのであり。個人が自律的に社会的責任を全うしていれば刑法など要らないのである
まあ、これは理想論ではあるのだが、理想そのものを認識しない状態で、その場限りの現実だけに対処しているからこそ、いつまで経ってもバカげた犯罪が繰り返すのである
Ende;
カーツワイルは知能の本質を「美的感覚」だの「官能」だと述べているが、これが既に大間違いである
美的感覚や官能といった情動は先天的行動バイアスであり無意識に過ぎず、これはむしろ知能としての本質的意識を阻害するものである
テロや通り魔というのは、暴力殺戮に対する美的官能(満足)によって促される行動バイアスであり。これはヒトという種の生物が進化の過程で残されてきた人間性に対する知的欠陥によって生ずるものである
こうしたヒトの先天的な脳の知的欠陥というものが、インターネットやAIに接続することで治るとは考え難い
むしろISILはWebを用いて多数の若者の脳の知的欠陥を利用する形でテロ行為を行っていることからも、インターネットやAIは所詮道具の域を出ることはなく、自らの知的欠陥を認識していないヒトの脳を、如何なる高性能量子コンピューターに接続しても高性能テロリズムを生産するだけである
その意味においての能力の向上による危険性の増大は不可避であろう
だからこそ人類は自らの脳の知的欠陥について認識する必要性がある
知能というものの本質を、特定能力の規模や速度だけだという誤った認識をし、社会全体の持続可能性や安全性という最も重要な事柄に対して優先順位が働かないのもまた、ヒトの脳の知的欠陥が原因である
◇
カーツワイルは、「人類は宇宙全体の環境に影響を与えることがゴール(目的)だ。」と述べているが、これは意味がわからない
結果的に宇宙環境にまで影響を与えてしまうことがある可能性があるとしても、なぜ宇宙環境にまで影響を与えることを目的にしなければならないのであろうか
何らかの事象の大きさだけを取り上げて、事後正当化する形で目的だとこじつける発想こそが、論理検証性の欠落であり、文科系大衆観念に基づいた妄想錯覚という知的欠陥に他ならない
現在の生物学における進化への目的のこじつけも、結果的変異に過ぎない進化に対する事後正当化する形式の妄想錯覚であり。論理的には支離滅裂である
◇
そもそもヒトの活動が地球環境にまで影響を及ぼしてしまったというのは結果であって目的ではない
結果の大きさだけを基準に、あたかも意図的目的であるかのように錯覚するのがヒトの脳の先天的欠陥であり、文科系大衆観念である
何が哀しくて大規模な気候変動を引き起こすような影響を、意図的に行わなくてはならないのか、意味がわからない
従って、たとえ将来ヒトが宇宙環境にまで影響を及ぼす可能性があるとしても、実際に及ぼしたとしても、それは別に目的ではない
人類の人間としての目的とは、別に生活に支障をきたすような環境破壊ではなく。むしろ、持続可能で安全性の高い社会を次世代に遺すことであって、結果の大きさだけを基準に「目的だ。」などと定義することがそもそも大間違いなのである
これは生物学における遺伝的進化においても言えることであり、結果的に生存や種の保存に適した個体が残ったからといって、それが生物の目的であることの論証には全くならない
そもそも遺伝的進化というのは、変異に淘汰圧力がかかった結果以上の意味などなく。誰の目的意図も働いてなどいないのである
◇
左脳優位な者というのは、極めて限定的立証や現象だけを根拠に目的を決定したがる習性がある
故に、単なる結果と、意図的目的との区別さえ満足に出来ないのである
「生物の目的が生存ではないのであれば、社会安全性も持続可能性も要らないではないか。」などと言い出すバカも後を絶たない
これは、旧約聖書における「神がいないのであれば、何をしても赦される。」という屁理屈と同じで、自律的な論理検証が全く出来ない幼稚な脳の発想パターンでしかない
生存や種の保存が生物の目的ではないからといって、それがいきなり社会持続性までもが人間としての目的ではなくなるというのは、あまりに短絡的でほとんど痴呆とも言える発言である
なぜ、目的というものが先天的/決定論的/運命的に決定していなければならないのであろうか。そもそもその部分の論理検証性が左脳優位な者の思考からは欠落しているのである
「先天的な本能習性には逆らうことが出来ない。」などという発想も、実際には「逆らいたくない。」という主観的観念感情を論理証明であるかのように言い張っているだけであって。自律的な社会的責任判断選択が不可能であることの論理証明には全くならないのである
意識的な目的決定というものは、知識の全体像の中から論理的且つ自律的に算出されるものであり。神や先天的習性という「結果」以上の価値を持たないものから自動的に導き出されるようなものではない
NHKの解説委員が以前このようなことを述べたことがある、「人類は絶対に絶滅する。」と。
人類の活動の結果を見てゆくと、確かに運命論的発想からは絶滅する可能性は充分にあるが。だからといって、絶滅への道以外が選択不可能であることの論理的証明になど一切ならない
結果的に危険な行為をしていたことを認識したのであれば、その危険性を回避するための新たな措置をこうじるのは当たり前の話であり。「今までずっと危険なことをしてきたから、これからも危険は回避することは不可能だ。」などと言い張るのは、もはやバカを超えたキチガイであろう
航空機の運用において、アクシデントなどをキッカケにある危険性を認識した場合。その危険性を回避するための措置をこうじて安全性を高めるのは当たり前である
新幹線の台車に亀裂が入ったからといって、大事故で多数の死者が出るまで何の措置もこうじないというのはキチガイでしかない
新幹線や航空機に対しては安全性を求めるのに、どうして人類全体の行動や思考については何の措置もこうじないのであろうか
なぜ、通り魔やテロリズム、紛争といった重大な暴力に対しては、その原因究明と再発防止対策が行われないのであろうか
旧約聖書における「神がいないのであれば、何をしてもゆるされる。」という話は、自分達がどのような社会を望むのかを自律的に選択する意思がなく、何でもかんでも神だけに責任をなすりつけるための幼稚な発想である
破壊や暴力と略奪とレイプが横行するような社会は、多くの人は求めていないはずであるが。実際には社会環境が悪いと簡単に起きるものでもある
これはひとえに社会を形成している個人の自律が欠落していることによる、先天的欲望の暴走が引き起こすものであり。個人に自律的な社会的責任判断選択がないのが原因である
社会の持続可能性や安全性を求めているのは神ではない 人間である
ところが人間ではないヒトが存在するために、環境に流され先天的習性のままに行動してしまう結果、社会の崩壊を招いてしまうのである
ヒトという種の生物は、先天的には人間性を発揮する習性はない。あくまで自律的な論理検証性によって人間性を発揮するのである
懲罰で全てが解決したと錯覚するのも、ヒトの脳の先天的欠陥のひとつである
通り魔事件が発生したからといって、犯人を死刑にすれば通り魔が一切なくなるわけではなく。なぜ通り魔行為を行うような無責任で身勝手な行動をするようになったのか、その原因究明と再発防止対策を立て、通り魔予備軍に対する予防策としての「治療」を行わなければ、論理的には再発防止にはならない
危険学や失敗学においては、刑法懲罰を一時停止することによって、理論的原因究明を行うのが常識である
それは刑法懲罰というものが、再発防止において障害、邪魔にしかならないからである
犯罪者の成育環境というものに間違いがある場合、社会的制裁などの罰ではなく、徹底した調査研究によって具体的に何が悪かったのかを明確にし、国民に周知することで再発防止にすることで「教訓」という財産に変えることができるのである
なぜなら子育て教育というのは誰もが素人であり、たとえ教育研究者の尾木ママでも自分の長女を「いい子症候群」に陥らせてしまうこともあるのだから、誰もが初めての体験である子育てで失敗があるのは当たり前だという考え方をすべきなのである
これは、単なる気分的寛容さではなく。論理的に社会安全性を追求するのに最も近道で合理的だからだ
犯罪者だけに自律を求め、その他である自分は一切自律的な社会的判断選択を行わないというのは、結局無責任であることに違いなどない
刑罰といった国家権力を用いた恐怖による抑圧をしなければ犯罪が減らない状況そのものが、そもそも間違っているのであり。個人が自律的に社会的責任を全うしていれば刑法など要らないのである
まあ、これは理想論ではあるのだが、理想そのものを認識しない状態で、その場限りの現実だけに対処しているからこそ、いつまで経ってもバカげた犯罪が繰り返すのである
Ende;