結局のところジャレド:ダイアモンドの話というのは科学的には意味がない
あれこれ知識のひけらかしを展開しているだけで その知識の中から一貫した理論とか発見のようなものは一切出てこない
ところが 論理検証の苦手な文科系大衆の多くは こうした知識の量だけで何か科学的意味があるんじゃないかと勝手に勘違いしてピュリッツア賞を受賞したりする
養老孟司の著作も徒に胡乱な大量の知識のひけらかしで読者の脳を混乱させているだけであって 具体的に何かの役に立つような理論や発見があるわけではない
事実 ジャレド:ダイアモンドや養老孟司の著作は具体的に何かの役に立つわけではない
そもそも である 自己の遺伝子を自分では制御出来ないという基本原理的構造がありながら 「なぜ、こうような進化を選んだのか?」などという問いかけをしてくる時点で 話に論理整合性がないのである
論理整合性がないということは 既に科学的理論にはなっていない
ヒトの多くはバカなので 話の内容に論理整合性があるのかどうかなどよりも 知識情報の「量」だけで圧倒されて意味のある話だと勝手に勘違いする習性がある
これは振り込め詐欺師の口車と一緒である
科学的真理の追求 つまり「本当のところ どうなのよ」的な見地からすれば 重要なのは論理整合性に基づいた一貫した理論が重要なのであって 関係のない内容を長々と陳列して結局何の結論にも至らない話に科学的意味は何もないのである
ジャレド:ダイアモンドはヒトの遺伝的進化の見地から話が始まっているはずなのだが 途中から「スペイン人がインカ人を滅ぼした」などという遺伝的進化とは何の関係もない話を持ち出して来て 結局「遺伝的進化とは関係がありません」などと締めくくり それ以上何の話も出てこない
それなら「スペイン人がインカ人を滅ぼした」という一連の話は一体何だったんだというと 要するにジャレド:ダイアモンドが知識をひけらかしているだけであって 別に遺伝的進化の観点から何か一貫した理論が説明出来ているわけではないのである
知識を大量にひけらかされると ヒトの多くは相手を「頭が良い」と錯覚する
クイズの正解率を短絡的に知能だと錯覚している原因も同じである
従来の学力偏差値試験の構造も同様である 知識の「量」だけを基準にしても 人間性(自律的な社会的責任判断選択をするのかどうか)は一切測れておらず 学生時代に学力が高かった通り魔やテロリストというのが出てくることになる
原発事故においても同様である 原発運転の責任者なら さぞかし学力偏差値は高かったに違いないが 裁判では揃いも揃って責任のなすり合いに終始している
こうした事実から大学試験は改革が進められてはいるものの 文系学部においては答えの出しようのない訳のわからぬ支離滅裂な問題にしておけば解決だと勘違いしているフシがある
勘違いというより 何を改革すれば良いのかを論理的に理解していないために 無理矢理改革っぽいでっちあげをしてごまかしているとしか思えない
問題を作成している方がそもそも論理思考が出来ないバカなので 論理思考を測るための試験をどう作れば良いのかすらも全くわからないので どうにも理解不能な意味のわからない問題を出して撹乱しているだけであり 実質的には試験改革にはなっていない
訳のわからぬ問題を出題してくるバカ教師に対しては異議を唱えることも重要である
訳のわからぬ問題に対する受験対策をしても 結局バカがバカの言いなりになっているに過ぎないからである
従来の進化生物学では 遺伝的進化というものが万能で 常に意味があるかのように取り扱われて来たため「なぜ、このような進化を選んだのか」などという非科学的オカルト観念を強弁し続けなければならない
そうしておかないと 現状の生物学権威達のほとんど全員が自らの頭の悪さを認めなければならなくなるからだ
年功序列というのは 既得権を持った者にとっては安定をもたらすが 既得権を持たない者にとっては不安定を強要し 組織腐敗の温床ともなる
本来この国は民主主義の国であり 既得権というものは絶対的なものではないはずなのだが ヒトの多くは権威に服従しておいた方が気分的に安心なために どんなに上司がイカレていても異議を唱えることはない
名だたる大企業による不正の数々は 不正を要求している取締役だけで行えるものではなく 不正を容認する多数の部下達の存在なくして成立しない
西武グループの不正において 不正を要求された社員は「取締役の権力は絶対だと思っていた」と証言している
一企業の役員を あたかも宗教の教祖か何かと勘違いし 逆らったりしたら呪われるとでも思っているとしか思えない
まあ 実際内部告発なんぞしようものなら誰も守ってなどくれず 既得権の全てを失うことは珍しいことではない
なぜ正直者がバカを見ることになるのかと言えば 正直者が圧倒的少数であるからだ
本当に公平で効率的な社会というものを実現するためには 個々の個人が正直者でなければ不可能なのである
「本当のところ どうなのよ」という真理を追求する自律的判断力なくして 本当の正直者にはなれない
ヒトの多くは権威に対して忠誠忠実でありさえすれば「素直」だと 命令に従うことを「素直」だと形容するが これは嘘である
権威に服従することはヒトという種の生物において先天的本能習性であり 権威とみなした特定の対象の命令を盲目的に信頼して服従しておくことに対して耽美な快楽を感じてしまうように出来ている
「カッコイイ」というのは そもそも子供が親に対して抱きたい欲求であって これが血縁続柄を越えて特定集団組織における盲目的服従性の素となる
「カッコイイ」相手とは 要するに安心出来る相手であり 暴力的であろうが利己的であろうが 服従さえしておけば気分的に安心出来る相手に「カッコイイ」という感情を持つことで 暴力団やテロリスト達は集団組織的統率行動を採ることが可能となるのである
本来 宗教というのは ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた集団動物的狂暴性に流されないために理想の服従対象としての神を求めたのであり 「求めた」からといって実在するわけではない
ヒトという種の生物は 何がしかの服従対象に対して盲目的に服従「したい」という先天的欲求があるため 暴力的集団のボスであろうと実証不能の神であろうと 盲目的に服従さえしておけば気分的に安心出来るのである
暴力団であろうと 実証不能の神であろうと 政治的イデオロギーであろうと とにかく盲目的に信頼して「これさえ実現すれば あらゆる問題は解決する」と勝手に勘違い妄想することによって ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけ続けてきたのである
養老孟司は「ヒトは実証不能の神なくしては生きられない程弱いものであることを 私は知っているつもりである」と述べた
遠藤秀紀もまた学生時代にキリスト教系学校で教師から「科学は正しい でも 実証不能の神がいないと生きられない程弱い人もいることを 忘れないで欲しい」と言われたそうである
養老も実はキリスト教系学校に通っていたので おそらく教師から遠藤と同じことを言われたのであろう
「弱い」ことを論拠に客観的事実を蔑ろにして良い理由にはならない
むしろ こうした盲目的信頼への中毒症状こそが 連合赤軍やISIL 十字軍 ナチス 挙げたらキリがないのでやめておくが
ヒトが引き起こすあらゆる暴走の根源には盲目的信頼への中毒が原因となっているのである
「原発は絶対に安全だ」というのも 一種の宗教である
生物学における遺伝的進化万能論も同じである
宗教家が 自らを「弱いもの」と認める謙虚さを持っているならまだしも 本来自然科学であるはずの生物学が進化万能論に基づいて論を展開するのは ただの詐欺ペテンでしかない
「ヒトは宗教がなければ生きられない程弱いもの」なのではなく むしろ本来「宗教こそが動物的な暴力に立ち向かうための勇気を与えるべきもの」であった しかし 宗教というのは所詮盲目性を利用したものであることに変わりがなく そのためISILのように盲目性を逆手にとって暴力団を形成することも可能となってしまうのである
科学は 別に服従対象としての神はない 真理というのは自律的に追求するものであって 誰かに服従することで気分的に安心満足するためのものではないからだ
ところが 生物学や哲学界においては 権威に服従迎合することで既得権や体制維持ばかりが目的になっており 論理的真理の追求が放棄されてしまっているのである
科学的には 宗教は禁止する対象ではない 宗教というのは科学的根拠がないことを立証する以上のことはしないのである
科学的根拠がないという点においては あらゆる芸術にも科学的根拠はない どんなに美しい音楽を奏でても社会安全性や持続可能性にとっては意味がないからだ
芸術と分類されていれば あくまで主観的感覚の範疇であることが明らかにされているが 現状の宗教の大半はそれが主観的安心満足を短絡的に社会安全性であるかのように述べていることが間違っているのである
そもそも社会制度として刑罰が解決だと見なされていること自体が科学的には大嘘なのである
ISILやボコハラムのような集団が出てくると あかたも宗教こそが暴力の源であるかのように錯覚しがちだが 連合赤軍の暴力は社会主義というイデオロギーであり 原発の暴走は東電の組織体質にある
組織体質とは言っても 所詮は組織を構成している個人の無責任さが作りだしていることに違いはない
宗教が提供する神というのは 盲目的服従対象であり 親の代替品として「甘え」て責任を丸投げするためのものである
だからこそシオニストの多くには 自律がなく パレスチナ人との融和を頭ごなしに否定する
旧約聖書とは言っても 別に神が直接書いたわけではなく たとえ百歩譲って神が言ったことだとしても書いたのはヒトであって一文一句間違えていない保証は何もない
そもそも旧約聖書に「約束の地に先住民がいたら武力で追い出せ」って書いてあるわけでもなかろう
進化生物学の神なら 遺伝的に「弱い」ものは淘汰対象であり 「弱い」ものから淘汰されることによって より「強い」ものだけへと遺伝的進化を遂げることが可能となる
それがゾロアスター教の「超人」幻想であろう
そもそも実証不能の宗教やイデオロギーにすがりついているからこそ「弱い」のであって 麻薬中毒患者が麻薬にすがらなければ生きられない程弱いからといって麻薬を正当化することは出来ないのである
結局 宗教家が自らを生きられない程「弱い」というのは既に信じ込んでいる実証不能の神を棄てるのが「怖い」だけであって これは麻薬中毒患者の禁断症状と同じである
そもそも「生きられない」などというのは利己的生存価の範疇の話であって 社会持続可能性や安全性といった社会全体の利益を後回しにした身勝手な言い逃れに過ぎない
「自分が生きられない」ことを論拠に客観的真理を蔑ろにしているのであれば それは社会の安全性を目的としたものではない
それが宗教家の実相である
言うなれば「俺様が生きるためには客観的事実に基づく安全性など知ったことではない」と言っているのと同義である
パレスチナの救急隊員は自らの命を懸けてまで活動しているのに 「自分が生きるため」の宗教なんぞに人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない
Ende;
あれこれ知識のひけらかしを展開しているだけで その知識の中から一貫した理論とか発見のようなものは一切出てこない
ところが 論理検証の苦手な文科系大衆の多くは こうした知識の量だけで何か科学的意味があるんじゃないかと勝手に勘違いしてピュリッツア賞を受賞したりする
養老孟司の著作も徒に胡乱な大量の知識のひけらかしで読者の脳を混乱させているだけであって 具体的に何かの役に立つような理論や発見があるわけではない
事実 ジャレド:ダイアモンドや養老孟司の著作は具体的に何かの役に立つわけではない
そもそも である 自己の遺伝子を自分では制御出来ないという基本原理的構造がありながら 「なぜ、こうような進化を選んだのか?」などという問いかけをしてくる時点で 話に論理整合性がないのである
論理整合性がないということは 既に科学的理論にはなっていない
ヒトの多くはバカなので 話の内容に論理整合性があるのかどうかなどよりも 知識情報の「量」だけで圧倒されて意味のある話だと勝手に勘違いする習性がある
これは振り込め詐欺師の口車と一緒である
科学的真理の追求 つまり「本当のところ どうなのよ」的な見地からすれば 重要なのは論理整合性に基づいた一貫した理論が重要なのであって 関係のない内容を長々と陳列して結局何の結論にも至らない話に科学的意味は何もないのである
ジャレド:ダイアモンドはヒトの遺伝的進化の見地から話が始まっているはずなのだが 途中から「スペイン人がインカ人を滅ぼした」などという遺伝的進化とは何の関係もない話を持ち出して来て 結局「遺伝的進化とは関係がありません」などと締めくくり それ以上何の話も出てこない
それなら「スペイン人がインカ人を滅ぼした」という一連の話は一体何だったんだというと 要するにジャレド:ダイアモンドが知識をひけらかしているだけであって 別に遺伝的進化の観点から何か一貫した理論が説明出来ているわけではないのである
知識を大量にひけらかされると ヒトの多くは相手を「頭が良い」と錯覚する
クイズの正解率を短絡的に知能だと錯覚している原因も同じである
従来の学力偏差値試験の構造も同様である 知識の「量」だけを基準にしても 人間性(自律的な社会的責任判断選択をするのかどうか)は一切測れておらず 学生時代に学力が高かった通り魔やテロリストというのが出てくることになる
原発事故においても同様である 原発運転の責任者なら さぞかし学力偏差値は高かったに違いないが 裁判では揃いも揃って責任のなすり合いに終始している
こうした事実から大学試験は改革が進められてはいるものの 文系学部においては答えの出しようのない訳のわからぬ支離滅裂な問題にしておけば解決だと勘違いしているフシがある
勘違いというより 何を改革すれば良いのかを論理的に理解していないために 無理矢理改革っぽいでっちあげをしてごまかしているとしか思えない
問題を作成している方がそもそも論理思考が出来ないバカなので 論理思考を測るための試験をどう作れば良いのかすらも全くわからないので どうにも理解不能な意味のわからない問題を出して撹乱しているだけであり 実質的には試験改革にはなっていない
訳のわからぬ問題を出題してくるバカ教師に対しては異議を唱えることも重要である
訳のわからぬ問題に対する受験対策をしても 結局バカがバカの言いなりになっているに過ぎないからである
従来の進化生物学では 遺伝的進化というものが万能で 常に意味があるかのように取り扱われて来たため「なぜ、このような進化を選んだのか」などという非科学的オカルト観念を強弁し続けなければならない
そうしておかないと 現状の生物学権威達のほとんど全員が自らの頭の悪さを認めなければならなくなるからだ
年功序列というのは 既得権を持った者にとっては安定をもたらすが 既得権を持たない者にとっては不安定を強要し 組織腐敗の温床ともなる
本来この国は民主主義の国であり 既得権というものは絶対的なものではないはずなのだが ヒトの多くは権威に服従しておいた方が気分的に安心なために どんなに上司がイカレていても異議を唱えることはない
名だたる大企業による不正の数々は 不正を要求している取締役だけで行えるものではなく 不正を容認する多数の部下達の存在なくして成立しない
西武グループの不正において 不正を要求された社員は「取締役の権力は絶対だと思っていた」と証言している
一企業の役員を あたかも宗教の教祖か何かと勘違いし 逆らったりしたら呪われるとでも思っているとしか思えない
まあ 実際内部告発なんぞしようものなら誰も守ってなどくれず 既得権の全てを失うことは珍しいことではない
なぜ正直者がバカを見ることになるのかと言えば 正直者が圧倒的少数であるからだ
本当に公平で効率的な社会というものを実現するためには 個々の個人が正直者でなければ不可能なのである
「本当のところ どうなのよ」という真理を追求する自律的判断力なくして 本当の正直者にはなれない
ヒトの多くは権威に対して忠誠忠実でありさえすれば「素直」だと 命令に従うことを「素直」だと形容するが これは嘘である
権威に服従することはヒトという種の生物において先天的本能習性であり 権威とみなした特定の対象の命令を盲目的に信頼して服従しておくことに対して耽美な快楽を感じてしまうように出来ている
「カッコイイ」というのは そもそも子供が親に対して抱きたい欲求であって これが血縁続柄を越えて特定集団組織における盲目的服従性の素となる
「カッコイイ」相手とは 要するに安心出来る相手であり 暴力的であろうが利己的であろうが 服従さえしておけば気分的に安心出来る相手に「カッコイイ」という感情を持つことで 暴力団やテロリスト達は集団組織的統率行動を採ることが可能となるのである
本来 宗教というのは ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた集団動物的狂暴性に流されないために理想の服従対象としての神を求めたのであり 「求めた」からといって実在するわけではない
ヒトという種の生物は 何がしかの服従対象に対して盲目的に服従「したい」という先天的欲求があるため 暴力的集団のボスであろうと実証不能の神であろうと 盲目的に服従さえしておけば気分的に安心出来るのである
暴力団であろうと 実証不能の神であろうと 政治的イデオロギーであろうと とにかく盲目的に信頼して「これさえ実現すれば あらゆる問題は解決する」と勝手に勘違い妄想することによって ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけ続けてきたのである
養老孟司は「ヒトは実証不能の神なくしては生きられない程弱いものであることを 私は知っているつもりである」と述べた
遠藤秀紀もまた学生時代にキリスト教系学校で教師から「科学は正しい でも 実証不能の神がいないと生きられない程弱い人もいることを 忘れないで欲しい」と言われたそうである
養老も実はキリスト教系学校に通っていたので おそらく教師から遠藤と同じことを言われたのであろう
「弱い」ことを論拠に客観的事実を蔑ろにして良い理由にはならない
むしろ こうした盲目的信頼への中毒症状こそが 連合赤軍やISIL 十字軍 ナチス 挙げたらキリがないのでやめておくが
ヒトが引き起こすあらゆる暴走の根源には盲目的信頼への中毒が原因となっているのである
「原発は絶対に安全だ」というのも 一種の宗教である
生物学における遺伝的進化万能論も同じである
宗教家が 自らを「弱いもの」と認める謙虚さを持っているならまだしも 本来自然科学であるはずの生物学が進化万能論に基づいて論を展開するのは ただの詐欺ペテンでしかない
「ヒトは宗教がなければ生きられない程弱いもの」なのではなく むしろ本来「宗教こそが動物的な暴力に立ち向かうための勇気を与えるべきもの」であった しかし 宗教というのは所詮盲目性を利用したものであることに変わりがなく そのためISILのように盲目性を逆手にとって暴力団を形成することも可能となってしまうのである
科学は 別に服従対象としての神はない 真理というのは自律的に追求するものであって 誰かに服従することで気分的に安心満足するためのものではないからだ
ところが 生物学や哲学界においては 権威に服従迎合することで既得権や体制維持ばかりが目的になっており 論理的真理の追求が放棄されてしまっているのである
科学的には 宗教は禁止する対象ではない 宗教というのは科学的根拠がないことを立証する以上のことはしないのである
科学的根拠がないという点においては あらゆる芸術にも科学的根拠はない どんなに美しい音楽を奏でても社会安全性や持続可能性にとっては意味がないからだ
芸術と分類されていれば あくまで主観的感覚の範疇であることが明らかにされているが 現状の宗教の大半はそれが主観的安心満足を短絡的に社会安全性であるかのように述べていることが間違っているのである
そもそも社会制度として刑罰が解決だと見なされていること自体が科学的には大嘘なのである
ISILやボコハラムのような集団が出てくると あかたも宗教こそが暴力の源であるかのように錯覚しがちだが 連合赤軍の暴力は社会主義というイデオロギーであり 原発の暴走は東電の組織体質にある
組織体質とは言っても 所詮は組織を構成している個人の無責任さが作りだしていることに違いはない
宗教が提供する神というのは 盲目的服従対象であり 親の代替品として「甘え」て責任を丸投げするためのものである
だからこそシオニストの多くには 自律がなく パレスチナ人との融和を頭ごなしに否定する
旧約聖書とは言っても 別に神が直接書いたわけではなく たとえ百歩譲って神が言ったことだとしても書いたのはヒトであって一文一句間違えていない保証は何もない
そもそも旧約聖書に「約束の地に先住民がいたら武力で追い出せ」って書いてあるわけでもなかろう
進化生物学の神なら 遺伝的に「弱い」ものは淘汰対象であり 「弱い」ものから淘汰されることによって より「強い」ものだけへと遺伝的進化を遂げることが可能となる
それがゾロアスター教の「超人」幻想であろう
そもそも実証不能の宗教やイデオロギーにすがりついているからこそ「弱い」のであって 麻薬中毒患者が麻薬にすがらなければ生きられない程弱いからといって麻薬を正当化することは出来ないのである
結局 宗教家が自らを生きられない程「弱い」というのは既に信じ込んでいる実証不能の神を棄てるのが「怖い」だけであって これは麻薬中毒患者の禁断症状と同じである
そもそも「生きられない」などというのは利己的生存価の範疇の話であって 社会持続可能性や安全性といった社会全体の利益を後回しにした身勝手な言い逃れに過ぎない
「自分が生きられない」ことを論拠に客観的真理を蔑ろにしているのであれば それは社会の安全性を目的としたものではない
それが宗教家の実相である
言うなれば「俺様が生きるためには客観的事実に基づく安全性など知ったことではない」と言っているのと同義である
パレスチナの救急隊員は自らの命を懸けてまで活動しているのに 「自分が生きるため」の宗教なんぞに人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない
Ende;