書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

哲学というものは大衆人気取りのためにあるのではない

2019年12月21日 00時34分06秒 | 意識論関連

遺伝的進化において「生存戦略」や「目的」といった概念を持ち出すのは誤謬である

トウガラシの辛味成分であるカプサイシンは 哺乳類などの臼歯を持った生物に食べられると糞として排泄されても発芽できなくなってしまうのだが 鳥類には臼歯がないので糞としてそのまま排泄される確率が高く 発芽に適しており 鳥類はカプサイシンの辛味を認識しないため 鳥類以外は食べられ難い

この事象に対して「種の保存のために辛味成分を獲得した」などという「目的」や「戦略」として扱うのは科学を逸脱したオカルトに過ぎない

遺伝的進化というのはランダムな変異の中から淘汰圧力によって選別された「結果」に過ぎず そこに合理的目的選択など存在する余地は一切存在しないからである

トウガラシ類が辛味成分を持つようになったのは あくまで偶発的変異に起因するものであり より発芽に適さない遺伝要素を持った個体が淘汰された結果に過ぎず トウガラシ自身が「目的」だの「戦略」だのを意識的に選択出来る構造が存在するわけではない

遺伝的進化の結果だけを見て あたかも「目的」や「生存戦略」が存在しているかのように錯覚するのは論理科学的根拠を伴わぬ妄想錯覚に過ぎず 遺伝的進化に対して「目的」や「生存戦略」をこじつけることは科学者としてポンコツ過ぎて話にならないのだが

未だに生物学者の多くはポンコツだらけで科学としての社会的役割を一切果たしておらず 無責任極まりない状態が傍観放置されているのである

 ◇

科学を導くのが哲学の本来の役目であるのだが 現状の哲学界は主観と客観の区別もできないデクノボウばかりで これもまた社会的に極めて無責任である

「恐ろしい」だの「美しい」といった主観的感想というものは 客観的論証には一切使えないのだが 文学的芸術性(主観的好き嫌い)を哲学だと勘違いしている大衆を欺く形でフリードリヒ:ニーチェだのヒョードル:ドストエフスキーを哲学として取り扱い

終いには「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すれば無くなる」などと言い出したマルクス:ガブリエルまでをも哲学として取り扱う始末である

こうした状況に対して哲学界の誰一人として異義を唱えないというのは もはや哲学界全体が哲学として全く機能していないからである

「赤子のジレンマ」だの「トロッコ問題」などといった単に極限状態での選択でありさえすれば倫理の話だと錯覚しているというのは 現状の哲学者達が全員バカで 何も「考え(論理検証)」していないからである

極限状態を仮定した命題というのは 感覚的主観的に「悩ましい」ために その苦悩を短絡的に「深い考え」だと勘違いする大多数のヒトの先天的な頭の悪さに起因する錯覚に過ぎず 答えの出しようのない命題をいくら「考え」たつもりになっても倫理の話にもならなければ 何かの論理的証明にも一切なることはない

「赤子のジレンマ」などというのは 戦争状態などという倫理の崩壊した状況下でいかなる選択をしても倫理や人間性の論証にはならない 「トロッコ問題」もそうだが「誰かが死ななければならない状況」に陥る可能性が予測回避可能であった場合に予防対策を行わなかった場合になどで倫理が問われるのであり 「何人死ぬかを選択すること」などの極限状況でありさえすれば人間性や倫理が問われるわけではない

ヒトの多くは気分的に悩ましい極限状態での選択でありさえすれば倫理だと勝手に勘違いする習性があり 何の答えも出しようのない「トロッコ問題」などを短絡的に倫理の問題だと錯覚してしまうのである

何が本当の倫理なのかを理解認識することの出来ないようなバカが現状の哲学界では権威として東大大学院の教授として扱われており 到底哲学としての社会的役割を果たしておらず 極めて無責任な状態である

本来哲学というものは「科学の帝王」であり 科学を導く重大な社会的役割を負っているはずなのだが 現状では大衆の理解力の低さを利用して何の論理客観的意味もない議論で大衆やマスコミを撹乱することで人気取りに終始しているのである

一応言っておくが 東大大学院は独立行政法人であり 税金で運営されているのであり 社会的に糞の役にも立たない不毛な大衆迎合のためにあるのではない

信原幸弘のようなデクノボウが哲学権威として扱われている状態は異常である

 

Ende;

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