うかれて調子に載ってヘラヘラ笑っていることを「楽しいこと」だと思うのは間違いで
加藤英明が砂漠の真ん中でトカゲ探して一日中穴掘りしていることこそが本当の「楽しいこと」である
とは言え 誰でも「砂漠の穴掘り」が楽しいわけではなく 何が本当に楽しいのかは個人的なもので 各々全く異なるものでもある
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ヘラヘラ笑っている状態というのは外見上「楽しそう」には見えるんだが 実際には脳内麻薬で意識が麻痺しているだけなのであって 本当に楽しいわけではない
エタノールだのヤバイ薬だので脳が中毒になっていれば そりゃヘラヘラ笑って「躁」状態にはなれるんだが こうした「躁」状態というのは意識が働いていないので満足感が全く得られず 逆に薬物が抜けると「躁」状態から「抑鬱」状態に陥ってヒドイ苦痛に陥ることになる
承認欲求中毒というのもヤバイ薬物と同じ効果があって 悪乗り投稿などで無責任な危険行為をやらかしてしまうのも 中毒特有の暴走状態の末路である
その場限りに気分が高揚し 「躁」状態に陥っていれば ヘラヘラ笑ってその場限りには「楽しいような気分」にはなれるんだが この脳内麻薬中毒状態というのは持続性が全く無く むしろ後で「薬が切れた」ようなヒドイ抑鬱状態に陥ることになる
それを「わかっていてもやめることが出来ない」状態というのは むしろ意識(自発的論理検証)的には苦しんでいる状態なのである
悪乗り中毒状態に陥っている間だけは そんな面倒なことには意識は働かないため やらかしてしまってから後悔するという中毒のスパイラルに陥ることになる
仏教で言うところの「六道輪廻」である
カルト宗教にハマって教祖に褒められること以外何もしなくなるのも 教祖からの承認評価中毒状態に他ならない
仏教に限らず あらゆる宗教にはこうした中毒性があり 大乗仏教ではその危険性にまで言及しているが故 感覚的に「受け入れ難い」難解さをも伴うのである
論理的に難しのではなく 感覚的に満足感が得られないだけなのだが 衆生の多くは「これさえやっときゃ全ては解決」的に短絡安易な方法論ばかりを求めてしまう先天的習性があるため 大乗仏教は「難解」だとされるのである
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ヒトというのは望むと望まざるに関わらず 一定の脳容積があり 個人差はあれども理性が全く働かないわけにはいかず どんなに薬物中毒に陥っていても「やめなければ破滅する」ことは誰しもが「知って」いるのである
世の中が薬物中毒患者や 無責任な悪乗り投稿ばかりであふれかえれば社会が破綻してしまうことは いちいち説明せずとも誰もが「知って」いることでもある
大乗仏教において「一切衆生に仏性がある」と説いているのは おそらくそういうことであろう
何が「悪いこと」なのかは 本当は誰しもが生まれもって「知って」いるのである
ところが目先の感情(主観的感覚)という煩悩に苛まされ 自発的理性が抑制されてしまうことによって 人々は「悪いこと」だと「知って」いながら仏性(人間性や倫理)を発揮出来なくなってしまうのである
ヒトという種の生物が 先天的に人間性を持っているのであれば 何も教えずとも自動的自然に常に人間性を発揮するはずだが 実際には子供達は学校の中で放置しておけば自動的自然にイジメ差別をやらかしはじめるものなのである
実際には教師までイジメを行うものである
ヒトは先天的には人間ではない だからこそ人間性や倫理について深く知り 考えなければ目先の欲望煩悩に苛まされて「悪いこと」を平気でやらかすようにもなるのである
ところがどっこい 現状の哲学界というのはニーチェだのプラトンだのドストエフスキーだのといった「お伽話」で主観的 気分的に満足しているばかりで 客観的論理検証というものを全くしない「バカの巣窟」に陥っているのである
マルクス:ガブリエルなどというバカに人気が集まっている状況に誰も異議を唱えないというのは 現状の哲学界がバカしかいないことの明らかな証明である
現状の道徳教育というものは 主観的感覚にばかり依存した規範意識という無意識な行動バイアスを植え付けることにばかり異常執着しており 子供の主体的意思というものを蔑ろにしているからこそ イジメが全然減らないのである
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学会内部での多数決評価だけを求めれば 現状の体制に異議を唱えることなく むしろマルクス:ガブリエル的に訳のわからぬオカルト観念に便乗しておいた方が金になることはわかっている
だが そうした「イカレポンチ」で哲学界が占めていれば 社会の破綻に歯止めがかからなくなることを私は「知って」いるので わざわざ誰からも人気の得られない話を延々と続けているのである
Ende;