「共感の暴走」が問題であると落合陽一が述べていたが 「共感」という主観的感覚に過ぎない個人的好き嫌いを「自分の意識の本質」だと勘違い錯覚しているから「共感」が暴走するのである
落合はオルテガ:イ:ガセットの自由主義を尊重しているが オルテガは形式や手続きの尊重を主張しており 形式や手続きが持つ剛直性こそが寛大さや個人の尊厳を蔑ろにするものであり オルテガの主張はそもそも整合性がなく 意味がない
チャールズ:ダーウィンを挙げて「共感こそが必要」だと言っているが 生物進化の過程において結果的に組み込まれた「共感」は結果であって目的ではない
過失も含めて犯罪者には「罰で解決」だとみなす社会制度が現行の司法だが これに異を唱えても共感はない
主観的気分感情は「罰で解決」するものだという感覚(先天的行動バイアス)からはヒトという種の生物である以上逃れることは出来ないからである
感覚的に「共感」できようができまいが 論理客観的に合理性のあるものであれば「賛同」することはできるのであって ヒトという種の生物の先天的本能習性に過剰な期待を持つのは危険でもある
「みんな違って どうでもいい」と述べているが 個人の主観的に嫌いなものに対して「どうでもいい」という「無視」こそが他者に対する攻撃性放棄の構造にもなりうるのであり 嫌いな相手の存在を許容する寛大さにおいても結果的であれ発揮することになる
ことさら嫌いな相手を攻撃することに共感し歯止めがかからなくなるのは むしろ個人的に好きなことに熱中するものがないからであり 他者との共感だの評価承認を必要としない純粋行為があれば 個人的に嫌いなものであっても許容する寛容さも発揮できるのである
大衆論的な「しょうがない」「仕方ない」という言葉を厳密に言い換えれば「他に一切の選択肢も対策も存在しえない」という意味である
気分的「諦め」を正当化するために「しょうがない」という言葉を安易に用いることは 単なる努力放棄のためのはぐらかしに過ぎない
落合陽一は「一貫性は要らない」というが 客観的論理整合性は必要である そうでなければ安全性においては意味がないからだ
もちろん個人の主観的感覚には一貫性などないが それはあくまで「結果」であって「目的」ではない
女子が武装している映像に萌へたからといって 本当に女子が戦闘に巻き込まれている状態を望んでいるわけではない
ジェットコースターなどの絶叫マシンやお化け屋敷で恐怖を体験したいからといっても 本当に危険なものが許容されるわけではない そんなものはマトモな人間なら誰も望まない
あくまで安全性や持続可能性という社会的基礎の上に個人的好き嫌いが成立するのであって 決して「一貫性は要らない」などという無責任な話にはならない
◇追記:
「共感」というのは所詮は主観(感覚)に過ぎない
LGBTなどの少数派を尊重するのは 個人の感覚的には違和感があり 美形女子同士が仲良くしているのは素敵だなと思うが ハゲヲヤヂ同士が手を握り合っているのは嫌悪感しか持たないのだが 論理客観的には「同じこと」であり その意味においての「賛同」はできるのである
「みんな違って どうでもいい」という感覚は 嫌いなものは「どうでもいい」という寛容さが持てるのであり
主観的「共感」に頼れば合理性のある話であっても「賛同」もできなくなる
少数派の許容において「共感」という主観的感覚の多数決を求めても意味がない
個人的好き嫌いを抜きにして 論理客観的に合理性がある話に対しての「賛同」するのは 社会安全性や持続可能性への合理的配慮に基づく理性(人間としての本質的意識)である
Ende;