書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

猿の惑星

2021年05月09日 11時53分49秒 | 意識論関連

「人種差別は無視すれば良い」という意見には 正しい面と間違っている面がある

誹謗中傷された特定被害者にとっては 「うわー 頭のおかしいヒトいるわー」とでも思ってスルーしてけば良い話なんだが

誰も何も言わないというのは否定も肯定もしていない状態になるので 加害者側は勝手に「否定がないなら肯定だ」という受け取り方をしかねないため 被害者以外は率先して否定すべきだと言える

 

他人を誹謗中傷してないといられないヒトというのがいて まあ精神を病んでいるわけなんだけど 何せ病んでいるだけに放置しておくと津久井やまゆり園に包丁持って虐殺に行きかねない

他人を誹謗中傷している間は 自分の異常性には意識が働かなくなるため 一種の中毒症状として誰かを攻撃し続けていなければいられない「病気」である

自己肯定感というものを 他人からの評価承認だけに頼っているために 本質的な自己肯定にはならないため 劣等感やコンプレックスから逃避するために他人を誹謗中傷するのである

 

純粋行為 つまり他人からの評価や報酬格差に依らぬ個人的に楽しいと思えることに熱中することができていれば いちいち誰かを根拠もなく攻撃している暇はない

厄介なことに 他人を誹謗中傷しているが故に 自分の行動も他人から誹謗中傷されることを気に病んで 純粋に楽しめることに熱中することができず 結果 エタノールだのニコチンだので脳を麻痺させ ますます頭が悪くなり 自分がやっている行為に対しての客観性や論理整合性も検証することができなくなるのである

「誰も俺を認めてくれない」というストレスを発散するために誹謗中傷や物理的攻撃を加えて その場限りの脳内麻薬に溺れること以外何もできない状態なのである

 

生物や その遺伝的進化には目的がない

それはヒトも例外ではなく 誰にも先天的な目的だの使命が予め神だか何だかに用意されているわけではない

個人が「生き続ける理由」としての純粋行為 すなはち個人的な楽しみの持続可能性として 自分が生き続ける社会環境の安全性や持続可能性をも求めること(人間性や倫理)ができるのであって

他人からの評価ばかりを自己存在の意義にしていれば 「誰も俺をリスペクトしてくれねぇ(頭のおかしい病理診断医)」といった主張も出てくることになる

 

何を主張しても誰も耳を貸さなければ 誰でも不満を感じるものであろう しかし そんなものは個人的な感情にすぎず 普遍的な社会的価値が存在していないことは 客観的に論理検証(考え)れば明らかなことである

「正しいことは 正しい」「間違っていることは 間違っている」という正論に 他人が耳を貸そうが貸すまいが 正論というのは自分の主観的満足が目的ではなく あくまで自分が社会の中でこれからも暮らしていく上においての客観的な必要性として述べているだけであって 論理的理解は求めても 主観的満足は求めるものではない

他人の間違いや嘘を指摘できているとしても それは別に「偉い」わけではなく むしろ「当たり前の主張」に過ぎない

「当たり前の主張」で他人から評価を得る必要性なんぞ全くないのである

誰も理解できずに 理解できないバカの多数決によって社会的問題が解決しないとしても それは私の責任ではない

私は私個人の社会的責任の範囲内において 正論を主張する以上のことはしないし それ以上の物理的懲罰的報復をする必要性もない

自分の思い通りにならないことなど 生きていればたくさんある

思った通りの絵が描けないとか 思ったように造形ができないとか 思ったように身体が動かないとか 欲しいものが手に入らないとか

それでも純粋に好きなことであれば熱中して続けることができるし 思ったようにならないこともまた笑えるのである

加藤英明が砂漠の真ん中で一日中穴掘りをしてトカゲ一匹みつけられなかったとしても それはそれで「楽しい」ものなのである

「楽しい」とはいっても ヘラヘラは笑わないだろう

造形作家が作品を作りながらヘラヘラ笑っていることはない

むしろ「うまくいかない」と難しい顔で作品に取り組んでいるものである

しかし それで満足なのである

「満足」とは言っても 作品自体には満足はできない できないのだが 少しづつは思い通りの作品に近づいていることには満足感が得られるから 難解な作品作りも続けられるのである

本当に満足していれば 他人への配慮も働くようになる

他人からの評価承認が目的になってしまっていると 松沢哲郎のように5億円もの研究費不正利用をしてでも業績をでっち上げようとするようにもなる

本当に純粋に学術研究をしていれば 限られた予算の中で何とかやりくりして研究を続けるものである

養老孟司は著書でこう述べている「誰が退官してまで解剖なんて辛気臭いことを続けるんですか」と

こうも述べている「30年間も安月給で働いた そこには意味があったんだ そう思わなきゃやってられない」とも

これらは共に主観的な「思い」に過ぎず 客観的論証にはなっていない

挙げ句の果てに「私のような人間が 生きてここにいて 相済みません」などという自己否定感を「謙虚さ」とすり替えるのである

「他人からの評価」という不純な動機で研究していれば 養老孟司のように何の学術業績もなくとも 「著書が売れて金が儲かった」というだけでマスコミは評価をするようにもなる

養老孟司の主張というのは マルクス:ガブリエルやマイケル:サンデル同様に論理的には支離滅裂な「洗脳」に過ぎない

読者は主観的気分で著者を好きなれば 「客観的事実など存在しない」だとか「世界は存在しない」といった訳のわからぬオカルト話であっても主観的に「素晴らしい」などと形容して満足し 簡単に洗脳されて鵜呑みにするようになるのである

そして「自分達は知的生命体だ」などと勝手に妄想錯覚するのである

 

 


Ende;

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