○客観的事実は存在するのか
有限の脳と認識能力しか持たないヒトが、絶対的100%の客観的事実認知をすることは原理的に不可能であることは確かである
しかし、論理的根拠に基づいた科学的立証というものは、客観性をより100%に近付けることによって、より普遍性や確実性を高めることが出来るのであって。「全てが主観に過ぎない」というのは暴論である
たとえ100%でなくても、99.99999999%の信頼性があれば、余程の例外でもない限り確実性が高いのは確かである
科学というのは100%ではない、何でもかんでも短絡的に100%であると決め付け、それ以外の可能性を全く思考から排除してしまうことの方が危険なのである
宗教とかイデオロギーというのは、その内部で100%に陥りがちである
判りやすいポンコツ脳の典型として、矢追純一の思考パタンが挙げられる
矢追純一は、空中に何かが浮遊しているかのように見える映像の類を見せると、何でもかんでもとりあえず「宇宙人が地球に観測に来ている。」ことに決め付けてしまう
写真に多少なりとも詳しい人であれば、明らかに単なるレンズの内部反射に起因するゴーストや、安いズームレンズにありがちな変則的な瞳形状に起因する菱形のデフォーカス(ピント外れ)形状に過ぎない画像であっても、矢追は短絡的に全て「宇宙人だ。」とこじつける
これは、最初に「空中に浮いているように見える何かの全ては宇宙人の乗り物である。」という観念だけが先行した思い込みに基づいた判断であるため、その他の可能性についての検証が全てなかったことになってしまうのである
こうした思い込みというのは、進化生物学者のほとんど全員が「進化の全ては常に絶対に正しい結果にしか至らない。」という観念に基づいた論証しかしたがらないのと同じである
実際には遺伝子変異のほとんどは遺伝病の原因にこそなれ、何らかの進化に寄与することは極めて稀である
生物の遺伝的進化というものがどのような過程によって発生するのかについて考えるのには、耐性菌の発生を例に挙げると理解しやすいかも知れない
ある菌に殺菌効果のある抗生物質を人体に投与した場合、その菌にとって人体は極限環境であると言える
抗生物質というのは、湿疹などの異常な副作用でも起きない限りは処方された分は最後まで飲み切るよう指示されるわけだが、それによってほとんどの場合耐性菌が発生する前に絶滅させることが出来るからである
しかし、菌が減ったことによる症状緩和に安心して、処方された抗生物質を途中でやめてしまったりすると、菌の中には突然変異によって耐性を持った菌が発生し、その耐性菌だけを残して耐性を持つことの出来なかった全ての菌が死滅することになる
絶滅死滅しない程度の適度な極限環境でのみ、進化は成功するのであって、わずかでも淘汰圧力が大き過ぎれば絶滅してしまうという、極めてギャンブル性の高い結果が遺伝的進化なのである
しかし、耐性獲得のための突然変異というものは、そのほとんどは生存には適することは出来ず、死滅するのであって、大量の「失敗」の果てに偶発的に死なずに済む変異と耐性の両方を持った個体の発生過程というものは、極めて非効率で合理性のない「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たることもある。」的なカオスの果ての偶発的「結果」でしかない
菌類というのは世代交代サイクルが非常に速いため、ヒトなどの生物の進化速度とは大きく異なるものであり、短期間に耐性を獲得したとしても、その過程や構造自体に合理性が存在しないことに違いなどない
梅やピラカンサの未成熟果実には青酸毒があるのだが、進化生物学者の多くは、「未成熟果実が鳥に食べられても、繁殖に適することが出来ないために、植物自らが未成熟果実を食べられることのないよう進化した。」などという理屈を平気で言い出す
植物には、自分の果実が鳥に食べられることで繁殖できるかどうかを判断認識して選択する脳などの器官など存在せず、そもそも自身の遺伝子を都合良く書き換える能力など、ヒト以外の生物には存在しておらず、「自ら進化することを選択した。」などという話の全ては非科学的な妄想錯覚でしかない
偶発的変異によって、未成熟果実に青酸毒がある個体が発生した結果、その方がより生存に適していた結果として淘汰圧力が働いたとは言えるものの、この淘汰には植物個体の意識的目的行動選択が介在する余地は一切存在しない
個体による意識的目的選択が介在しないのに、どうして生存に適した個体が遺るのか?(←愚問)
自然淘汰による進化というのは、必ずしも生存に適する保証などなく。絶滅しているケースも無数にあるはずなのだが、何せ既に絶滅してしまっているために証拠がほとんど残らない
「死人に口なし」である
結果的に生存に適した個体が遺るのは、結果的に残った個体は生存していたという結果であって。生存は個体にとっても、それ以外の何者にとっても目的ではない
結果的に生存しているものを生物と分類しているのであって、生物の目的が生存なのではない
この基本的定理を理解していない生物学者があまりに多過ぎることが、生物進化に対する理論構造を破綻させており。故に数理工学系研究者の多くが「生物学はわけがわからない。」と称して論理検証すらしないため、生物学だけが理化学系学部の中で非科学的オカルト状態が放置されているのである
分類というのは思考のための手段であって、手段自体が目的になってしまうのもヒトという種の生物の脳の欠陥(錯覚)の一つである
その結果がフランシス:ゴルトンの優生学への論理反証が黙殺隠蔽され、「結果的に生き残ったものが絶対的正義(その内部において100%)である。」という実証不能の観念に基づいた野蛮行為が後を絶たないのである
相模原の障害者虐殺事件の原因の一つは、京都大学生物学部の松沢哲郎らによる構造原理的に不可能な立証方法の予測に対して文化功労賞を与えるなどというキチガイじみた社会的(多数決)評価が傍観放置されているからである
科学は本来多数決ではなく、論理的に正しいかどうかが基準であって。多数大衆の人気取りを科学に持ち込むのは根本的に大間違いであり、社会安全性を行う損なう極めて大きな要因なのである
自然淘汰などという過酷で野蛮で確実性のない進化過程を人間社会に適応すること自体、極めて危険な非人道的行為であり。経済学における「見えざる神の手」同様、科学的な合理的根拠を伴わない「神話」であり、「実証不能の観念」であることを認識していないから、ヒトという種の生物は暴力的解決への依存(中毒)が治らないのである
Ende;
有限の脳と認識能力しか持たないヒトが、絶対的100%の客観的事実認知をすることは原理的に不可能であることは確かである
しかし、論理的根拠に基づいた科学的立証というものは、客観性をより100%に近付けることによって、より普遍性や確実性を高めることが出来るのであって。「全てが主観に過ぎない」というのは暴論である
たとえ100%でなくても、99.99999999%の信頼性があれば、余程の例外でもない限り確実性が高いのは確かである
科学というのは100%ではない、何でもかんでも短絡的に100%であると決め付け、それ以外の可能性を全く思考から排除してしまうことの方が危険なのである
宗教とかイデオロギーというのは、その内部で100%に陥りがちである
判りやすいポンコツ脳の典型として、矢追純一の思考パタンが挙げられる
矢追純一は、空中に何かが浮遊しているかのように見える映像の類を見せると、何でもかんでもとりあえず「宇宙人が地球に観測に来ている。」ことに決め付けてしまう
写真に多少なりとも詳しい人であれば、明らかに単なるレンズの内部反射に起因するゴーストや、安いズームレンズにありがちな変則的な瞳形状に起因する菱形のデフォーカス(ピント外れ)形状に過ぎない画像であっても、矢追は短絡的に全て「宇宙人だ。」とこじつける
これは、最初に「空中に浮いているように見える何かの全ては宇宙人の乗り物である。」という観念だけが先行した思い込みに基づいた判断であるため、その他の可能性についての検証が全てなかったことになってしまうのである
こうした思い込みというのは、進化生物学者のほとんど全員が「進化の全ては常に絶対に正しい結果にしか至らない。」という観念に基づいた論証しかしたがらないのと同じである
実際には遺伝子変異のほとんどは遺伝病の原因にこそなれ、何らかの進化に寄与することは極めて稀である
生物の遺伝的進化というものがどのような過程によって発生するのかについて考えるのには、耐性菌の発生を例に挙げると理解しやすいかも知れない
ある菌に殺菌効果のある抗生物質を人体に投与した場合、その菌にとって人体は極限環境であると言える
抗生物質というのは、湿疹などの異常な副作用でも起きない限りは処方された分は最後まで飲み切るよう指示されるわけだが、それによってほとんどの場合耐性菌が発生する前に絶滅させることが出来るからである
しかし、菌が減ったことによる症状緩和に安心して、処方された抗生物質を途中でやめてしまったりすると、菌の中には突然変異によって耐性を持った菌が発生し、その耐性菌だけを残して耐性を持つことの出来なかった全ての菌が死滅することになる
絶滅死滅しない程度の適度な極限環境でのみ、進化は成功するのであって、わずかでも淘汰圧力が大き過ぎれば絶滅してしまうという、極めてギャンブル性の高い結果が遺伝的進化なのである
しかし、耐性獲得のための突然変異というものは、そのほとんどは生存には適することは出来ず、死滅するのであって、大量の「失敗」の果てに偶発的に死なずに済む変異と耐性の両方を持った個体の発生過程というものは、極めて非効率で合理性のない「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たることもある。」的なカオスの果ての偶発的「結果」でしかない
菌類というのは世代交代サイクルが非常に速いため、ヒトなどの生物の進化速度とは大きく異なるものであり、短期間に耐性を獲得したとしても、その過程や構造自体に合理性が存在しないことに違いなどない
梅やピラカンサの未成熟果実には青酸毒があるのだが、進化生物学者の多くは、「未成熟果実が鳥に食べられても、繁殖に適することが出来ないために、植物自らが未成熟果実を食べられることのないよう進化した。」などという理屈を平気で言い出す
植物には、自分の果実が鳥に食べられることで繁殖できるかどうかを判断認識して選択する脳などの器官など存在せず、そもそも自身の遺伝子を都合良く書き換える能力など、ヒト以外の生物には存在しておらず、「自ら進化することを選択した。」などという話の全ては非科学的な妄想錯覚でしかない
偶発的変異によって、未成熟果実に青酸毒がある個体が発生した結果、その方がより生存に適していた結果として淘汰圧力が働いたとは言えるものの、この淘汰には植物個体の意識的目的行動選択が介在する余地は一切存在しない
個体による意識的目的選択が介在しないのに、どうして生存に適した個体が遺るのか?(←愚問)
自然淘汰による進化というのは、必ずしも生存に適する保証などなく。絶滅しているケースも無数にあるはずなのだが、何せ既に絶滅してしまっているために証拠がほとんど残らない
「死人に口なし」である
結果的に生存に適した個体が遺るのは、結果的に残った個体は生存していたという結果であって。生存は個体にとっても、それ以外の何者にとっても目的ではない
結果的に生存しているものを生物と分類しているのであって、生物の目的が生存なのではない
この基本的定理を理解していない生物学者があまりに多過ぎることが、生物進化に対する理論構造を破綻させており。故に数理工学系研究者の多くが「生物学はわけがわからない。」と称して論理検証すらしないため、生物学だけが理化学系学部の中で非科学的オカルト状態が放置されているのである
分類というのは思考のための手段であって、手段自体が目的になってしまうのもヒトという種の生物の脳の欠陥(錯覚)の一つである
その結果がフランシス:ゴルトンの優生学への論理反証が黙殺隠蔽され、「結果的に生き残ったものが絶対的正義(その内部において100%)である。」という実証不能の観念に基づいた野蛮行為が後を絶たないのである
相模原の障害者虐殺事件の原因の一つは、京都大学生物学部の松沢哲郎らによる構造原理的に不可能な立証方法の予測に対して文化功労賞を与えるなどというキチガイじみた社会的(多数決)評価が傍観放置されているからである
科学は本来多数決ではなく、論理的に正しいかどうかが基準であって。多数大衆の人気取りを科学に持ち込むのは根本的に大間違いであり、社会安全性を
自然淘汰などという過酷で野蛮で確実性のない進化過程を人間社会に適応すること自体、極めて危険な非人道的行為であり。経済学における「見えざる神の手」同様、科学的な合理的根拠を伴わない「神話」であり、「実証不能の観念」であることを認識していないから、ヒトという種の生物は暴力的解決への依存(中毒)が治らないのである
Ende;