書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

一括投稿。2

2012年02月27日 15時17分45秒 | 意識論関連
//一括投稿。

○集団生活を覚える。

 集団生活を覚えると称して本能的な社会形成習性を行動学習しても人間性が養われるわけではない。

 自分がイジメられないようにイジメに関与しないように無意識的に行動「学習。」することは、本質的な人間としての社会性にはならないのである。

 学校に集められた生徒の集団というものは、あくまで無作為に集められただけ集団であり。これが必ず人間としての社会性を育むわけではなく、むしろ子供達だけで放置しておけば動物的な暴力性を発揮しイジメを行うようになる。

 イジメを自律的に抑制できない子供達で集団生活を「覚える。」というのは、言い換えればイジメを自律的に抑制できない集団に迎合するという姑息で利己的選択を行動「学習。」するということでもある。

 集団に迎合しないと生命に関わるような状況を体験してしまうことによって、強迫観念的に集団に迎合することを無意識的に行動「学習。」してしまうことによって、むしろ自律的な責任判断をできなくなってしまうことに陥るのである。

 自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性。」というのは、無意識的条件反射による集団迎合性によって不具にされるのである。こうした無意識性を無視して「集団生活を覚える。」などというのは根本的に間違いである。

 生徒子供に本当の意味における「人間としての社会性。」を身につけさせるためには、先ず子供達自身の自発性を尊重することによって、個人の個性を互いに尊重するようになり。それが目先の集団への迎合性に惑わされずに自律的責任判断を可能になる。

 更に、子供というのは産まれて来てからの時間的短さによる世界観の狭さが原理的につきまとう。故に人間性を持った大人によって、より広い世界観や論理的思考というものを促す必要性がある。

 これを行わなければ、子供達だけで集団生活をさせても。ヒトという種の生物が持つ本能的な社会形成習性によってイジメや排除といった動物的価値観だけが「学習。」されてしまうことになるのである。

 「自分達は子供時代に苦労した、辛い思いをした。」からといって、これを連鎖させている時点で無意識的条件反射の証明であり。既に存在している自己の事後正当化であり。固定観念という無意識に支配された無為無策に陥っているのである。

end;


○良い選択。

 「良い選択。」というと、文系観念上では社会的成功という利己的「結果。」につながる選択を指す。

 リンカーンが大統領になったという社会的成功を指して「良い選択。」であると規定するが。「大統領になった。」こと自体がリンカーンの社会的価値ではなく、リンカーンが人種差別を撤廃しようとしたことこそがリンカーンの社会的価値であり。単に大統領になったというだけでは社会的価値であるとは言えないのである。「権力を得ること。」自体に人間としての価値観があるのではなく、「何をしようとしたか。」が人間の価値なのである。

 ドイツの総統になれれば社会的成功だと言えるであろうか。カンボジアで虐殺を遂行できれば社会的成功であろうか。暴力によって権力を勝ち取ることは社会的成功であろう。「社会的成功。」とは言うことができるであろうが、それが短絡的に社会的価値であるとは言えない場合も多数存在するのである。

 ナチス政権に反対して社会的に失敗するからといって、ナチス政権に反対することは人間として間違いであると言えるであろうか。虐殺に反対することは社会的価値を持たないとでも言うのであろうか。ナチスの迎合して虐殺に加担しておけば生存に適するからといって人間の行動選択として「正しい。」と言えるであろうか。

 社会的成功というのは必ずしも社会的に普遍的価値になるわけではなく。あくまで時代に左右される環境依存的な「結果。」でしかない。社会的に排除されてでも「正しい選択。」をすることが、必ずしも自分の利権「社会的成功。」に寄与するわけではないのである。

 自分にとって世間的に成功する選択のことを、文系観念上では「良い選択。」であると規定しているが。これは必ずしも人間として「正しい選択。」を指してはいない。

 こうした人間としての「正しい選択。」と、世間的成功としての利己的な「良い選択。」を明確に区別していない時点で、文系の観念者達は本質的な「人間とは何か。」についての考えが全く存在していないのである。彼らは既に存在する自分を事後正当化することによって気分的満足を得ることにしか意識が働いておらず、気分的満足主体の無意識的条件反射行動としてヒステリックに固執するのである。

 「良い選択。」について言及している時に、人間として社会的責任判断を伴う「正しい選択。」に考えが及ばないのは、最初から「人間とは何か。」に対しての意識/感心がないからである。

 自分にとって利益になりそうな話だけを「良い選択。」であるという思い込みを鵜呑みにして主体的/自律的に「正しい選択。」に考えが及ばないというのは、どんなに学力が高くてもデクノボウに過ぎない。

 自分にとって利己的利益になるかどうかだけの価値観を提供されて、それ以外に考えが及ばないのは本能主体の文系観念による気分的満足によって論理思考を停止させている無意識性である。

 学問というのは本来利己的利益追及のための姑息な手段であってはならず、本質的な社会的公益性に寄与すべきものでなくてはならない。それを社会的成功だけに意識を奪われて思考停止に陥っているというのは単なるバカという以外に形容不能である。

 自発的論理思考が伴わないのであれば学問としての社会的価値は存在しない。

 自発性による思考探索ができないのであれば、そこから新しい原因の究明も対策も生み出されることはなく。糞の役にも立つことはない。

 教師講師の促す考え以外に何も考えないというのは、得点評価や成績という利己的欲望だけに意識を奪われているからであり。これこそが自発的思考を不具にする本能主体の無意識性というものである。

 無意識な者というのは自分の無能を事後正当化するための「取り繕い。」や「言い逃れ。」に執着する。無意識な者というのは「取り繕い。」や「言い逃れ。」といった外見に対しては異常に執着するものであるからだ。その代わりに自律的な思考というのは全く働くことはないのである。




 進化的な習性の説明からは本能的な行動の「結果。」以上の何にも原理的に言及不能である。既に存在している本能的な安全性以上には何も獲得することはできず、何が起きても「悪いのは本能。」というバカげた観念だけに帰結してしまう。

 「ヒトという種の生物が進化的に生存に適するかどうか。」と称して無為無策に陥るというのは。彼らの脳には最初から自発的「考え。」や、意識的目的行動選択というものが働いていないからである。進化生物学の神とは無意識的本能の「結果。」だけであり、そこに人間としての自律的「目的。」選択が伴わないのは本能習性だけで全てを説明可能であるという実証不能の観念に由来するものである。

 文系の論理思考のできない者にとって自律的目的選択などというものはあってはならない/あっては困るものであり。故に異常なまでの「取り繕い。」による体制維持ばかりに固執するのである。

 彼らは単に生物学的な文系観念の満足によって思考停止し、教えられたことを漫然と鵜呑みにして、自分が迎合した体制の維持に加担することだけにしか「意識。」が働かないのである。無論この「意識。」とは無意識のことである。

 思考探索性が働かないのは、それが無意識である以上必然というものである。

 本能的に体制維持によって保身を謀るというのは、生物学的な「生存価。」上においては「正しい。」選択であろう。しかし、こうした大局的には社会的公益性を伴わない無目的な体制維持こそが、生物本能的な社会形成習性として機能することになるのである。無論本能習性というのは無意識であり、本能習性の目的とは本能的な満足以上の何ももたらすことはないのである。

 本能習性のままに行動しておいても、本能習性は何ら「結果。」に対して保証することはない。なぜなら本能習性というのは結果的に生存していた「結果。」として自然選択的淘汰によるものであり、そこには何の「目的意識。」も介在してはいないからである。

 どんなに観念的に気分の良い話を枚挙しても、自分を含めたヒトという種の生物の無意識的本能の正当化にはならない。自分の本能というのは自分自身では制御不能である、しかし行動選択の全てが制御不可能であるわけではない。だからこそ本質的「意識。」が重要なのであり、これを無視して本能習性だけで何かを論証しようとすること自体が根本的に間違いなのである。そんなことは論理的に不可能なのである。



 一方では学力学歴に対して強迫観念的/無意識的に固執するが、その一方で「統計的に少ないこと、困難なこと。」を、あたかも論理的に不可能であるかのように無視するというのは、知能というものに対して論理的根拠を持たない多数による既存の固定観念という「思い込み。」という偏った価値観でしか測ることしかしていないからである。

 学力というものをビジネス(飯のタネ。)にしかしていない奴らにとって、知能=学力という短絡的大衆観念は都合が良い。本質的知能とは何か、社会における自己存在の価値観とは何か、そんな根源的で普遍的な価値観を意識せず。ただ目先の大学合格だの就職採用といった気分的安心だけに集中させておけばバカ学生は強迫観念的に従順に服従するであろう。しかし植え付けられた強迫観念に対して機械条件反射的に行動学習した学力である限り、それ以上の何ら新しい発見や発明に関わる本質的知能は発揮されることはない。それはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には全く同じものでしかないからである。

 生物学者達が実証不能の観念にいつまでも固執するのは、彼らが自発的には何も論理検証する「意思。」がないからである。

 オウム真理教の幹部達が高学歴でありながら異常行動を自律的には止めることができなかったが。こうしたカルト宗教だけでなく、そもそもが文系観念による非科学/非論理性が科学に混入していたからである。



 マスコミは未だに養老孟司の非科学性や、脳トレ類の論拠とした脳血流増加の不毛さを認識していない。マスコミは既に報道してしまった内容を訂正することによって外見上の信頼性を損なうことを忌避して、生物学/脳科学の体制維持に加担共謀して大衆をペテンに陥れているのである。マスコミというのは社会安全性の確立よりも、目先の利己的利益が優先しているのである。

end;


○悪質

 松沢哲郎によるチンパンジーの利他行動を「話題になった。」などと祭り上げておきながら。これが理論的には何ら「行動習性から人間としての社会性の立証。」には原理的に結び付かない論証については生物学もマスコミも隠蔽黙殺しており。極めて一面的で偏った報道である。

 どんなに利他行動の抽出を枚挙しても、行動習性の全てが利他に結び付くことの証明にはならないからである。

 シエラレオネの少年ゲリラを鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込めておいて、一体彼らがどのような利他的行動を採れば既に行われた残虐行為を反証可能であるというのであろう。

 既に行われた残虐行為は、その後に仲間内における如何なる利他的行動によっても原理的に反証不能であり。松沢の言っていることには最初から論理的根拠がない実証不能の観念であり、嘘に過ぎない。

 これを「間違い。」とは言うことができない。間違っていることが論理的に立証可能であることを隠蔽黙殺しておいて生物学界内部だけの正義を振り回し続けているというのは、「間違い。」ではなく現状体制維持のための「嘘。」なのである。マスコミは権威の考えを鵜呑みにするばかりで、自律的な論理検証を全く行わない。こうした無責任性こそが社会的損失や崩壊を生み出すのである。

 生物学界というのは論理検証が不可能なペテン師の集まりであり。どのペテン師に検証を求めても論理的裏付けにはならないのは当然である。たとえ専門外であろうと物理/工学系研究者による論理検証をしなければ、科学としての社会的役割を担うことはできない。

 どんなに学歴があっても、論理検証ができないマスコミや生物学界というのは社会的に役に立たないばかりか、本質的な人間についての議論を撹乱するだけの社会的負担にしかなっていないからである。

 どんなに無意識本能的「仕組み。」を説明しても、ヒト=人間という短絡的方程式を正当化可能な論証には原理的にならない。これを無視して断片的に「人間らしい。」習性を枚挙しても、これは原理的に「概ね。」論にしかならないのである。

 「概ねヒトは安全である。」とか、「大体ヒトは人間らしい。」といった話は観念を満足させているだけであって、人間とは何かの論理的追及には結び付かないのである。

 進化的にどのような仕組みがあろうとも、進化的仕組み自体は個人の意識による意識的且つ論理的検証に基づく「目的。」のための選択とは無関係である。進化的仕組みの枚挙は論理的検証の放棄であり、文系の観念を気分的に満足させるだけの身勝手な思考放棄の言い逃れである。

 多くの大衆は、これを悪質であるとは「思わない。」であろう。こうした大衆の「思い込み。」を利用して体制維持をしていることこそが悪質なのである。

end;


○わけのわからぬ話。

 ニュートリノが光の速度よりも早い可能性が観測されたそうである。物理学においても「わけのわからないこと。」はたくさん報告されては来る。

 しかし物理学においては、「わけのわからないこと。」は様々な可能性の糸口として扱われるのだが。生物学においては、あたかも生物の意識とは無関係な超自然的目的意識の存在であると称して「生存戦略。」などという実証不能の観念を振り回して、勝手な「決め付け。」を行って思考を停止させてしまう。

 生物学における「わけのわからなさ。」というのは、物理学系における「わけのわからないこと。」の取り扱いとは全く異なり。あくまで解釈の仕方に論理的組み立てが成立していないことによる「わけのわからなさ。」なのである。

 のらりくらりと「生存のため。」だとか「種の保存のため。」といった、個体の本能とは無関係な超自然的目的意識が存在するかのような、その場限りの観念的「決め付け。」があまりに多すぎるのである。

 これは生物学者のほとんど全員が文系の観念に囚われ、理論的思考が成立していないことが原因である。文系の者の多くが「物理学は難しくてわからないが、生物学ならわかる。」というのも、あくまで生物学における観念に同調して「わかった。」ような錯覚に陥っているだけであって。何ら論理的理解を伴うものではない。

 文系の観念というのは大衆への迎合である。ヒトの多くは論理的思考よりも感覚的観念としての「安心。」を求める傾向習性があるからだ。ヒトとはそういうものなのである。

 そのため大衆迎合だけを目的としたマスコミは生物学の観念に同調し、大衆の大脳辺縁系を酔わせて気分的「安心。」を提供して科学的知見であるかのような生物学のプロパガンダに便乗するのである。


 愚かであることは罪である。振り込め詐欺師に騙され暴力団の資金提供をしてしまうことは社会的に正当な行為ではないからである。

 大衆観念的には騙されることは純粋で無垢な証明であるかのように取り扱われるが。これは論理的には何の根拠もない文系観念の「思い込み。」に過ぎない。

end;

 ◇追記:ニュートリノの速度が光速より早いという話は、どうも測定器の光ケーブルの接続不良による誤差らしい。



○生存戦略

 ゴマフアザラシの子供の体毛が白いのは、白い雪原での保護色に結果的になっているからである。しかし、こうしたアザラシの体毛の色というのは、アザラシ自身の意識的選択によって決定しているわけでもなければ、アザラシ以外の何者かの意識的選択によって決定している訳でもない。

 アザラシが子供のうちに体毛が白いというのは、子供のうちに体毛が白くない個体が自然選択によって淘汰された「結果。」に過ぎず。「誰。」の意図的選択も介在してはいない。

 従って「生存戦略。」などという概念は理論的に成立しえない。生物学者は「比喩である。」などと訳のわからぬ言い逃れをするが、喩え話を「支持する。」というのは支離滅裂な論理崩壊でしかない。

 理論的組み立てが出来ないのであれば科学者としてポンコツなのは明白である。

end;

○サルの正義

 遺伝的に組み込まれた行動習性というものは、自分自身では選択不可能なものである。自分自身の遺伝子は自分では選択することは原理的に不可能であり、結果的に生存だの種の保存に適したとしても、その結果に個体の選択が介在する余地はない。

 遺伝的に予め組み込まれた本能習性というのは、結果的に生存や種の保存に適した「結果。」しか導き出すことはなく。そこに個体の本能以上の「目的。」意識が存在することを立証することは原理的に不可能である。

 本能的目的というものが本質的には意識的選択による目的ではないことは既に述べてある。

 生殖行動を挙げれば、その行動の全てが種の保存に適することの証明にはならない。ボノボがのべつまくなしケツを振ることからも、その行動が結果的に個体の気分的満足を促すだけに過ぎず。ケダモノの狂暴性を正当化するための屁理屈をどんなに枚挙しても、ケダモノの正義以上の何も抽出することはできない。

 ヒトのオスがメスをレイプしておいて殺害するというのは、オスにとっては性行為自体が本能的な目的であって。そこに種の保存といった本能を超越した目的意識の存在を立証することは原理的に不可能である。

 ありていに言って、そんなものある訳なかろう。バカらしくて呆れるばかりだ。たとえ環境に依存して行動が限定される話を枚挙しても、環境に依存した結果であるという限定性からは逃れることはできず。何ら本能習性を超越した目的意識の存在を立証できるようなものではない。

 本能自体に目的など存在しない。本能というのは、その選択過程において誰の「意思。」も介在していないからである。

 何でこんな下らない原理すら誰も気付かないのであろう。それこそがヒトという種の生物における不思議であり怪異である。

 誰も問題意識を持たなければ、あらゆる社会の問題は原因も究明されず、当然対策も立てられない。犯罪者は再犯を繰り返し、重大事故は繰り返えされる。それを自分の身に直接関わらない限り気分的に行動学習できないというのであれば、当事者以外は誰も問題意識を持たないのは必然というものである。世代が代わるごとに戦争を体験しなければ戦争の悲惨さや無意味さを認識できないのであれば、これは単なるバカとしか形容不能である。一体何のための教育であるのか意味がわからない。

 過去の過失を教訓として世代間で受け継ぐことこそが、本当の教育の役割である。単なる学力だけでは学力ビジネスにおける損得勘定しか働かない。教育機関が学力を用いて生徒を選別するのは構わないが、教育者や研究者を学力だけで選別するというのは間違いである。自律的に間違いに気付かないバカを排除しないことには公益的に意味がなく税金の無駄遣いにしかならないからである。

end;


○他慰的

 夢だの憧れの全てが自発的であるわけではない。

 ヤクザに憧れることは純粋な自発性によるものではなく、強迫観念的依頼心が作り出す本能的価値観に過ぎない。

 夢と称して社会的成功を求めることも、これもまた既に社会的に成功している他者への憧れであり。共に「他人探し。」にしかなっていない。

 他人探しに執着し意識を奪われていれば自分が見えないのは当たり前である。こうした意識こそが無意識性なのである。

 ヒトは、その本能的な社会形成習性によって、他人からの見た目、外見上に固執する習性がある。大衆観念的には「多数他人からの評価がなければ金にならない。」という短絡的方程式に基づき、目先の評価ばかりに意識を奪われ、普遍的価値観について誰も考えなくなる傾向がある。当然公益性の優先順位も低くなる。


 現実というものは複数存在する。主観的価値観としての純粋行為というのは、あくまで個人的な価値観を満たすものであるが。個人的な価値観を満たせることによって、結果的に客観性を持った公益的価値観にも意識が働くようになるのである。

 しかし、こうした純粋な主観的価値観を蔑ろにし。世間的な評価報酬を先に求めるような不純な価値観に基づいていると、主観的価値観と社会的価値観の区別ができず。目先の社会的評価報酬が優先してしまい、結果的に公益的視点を喪失することに陥るのである。

 主観的価値観に基づく純粋行為に基づくことによって、自分自身で自分の欲望を満たすことが出来るようになり。結果的に公益的視点も持つことが可能となるのである。

 自己満足を自己自身で満たせないから、世間からの評価報酬を必要以上に求めるようになり。結果的に嘘やごまかしをしなければならなくなってしまうのである。

 他人を騙す者というのは、他人を騙す前に自分自身を騙しているのである。

 自分を大切にできない者は他人も大切にできない。これもまた定理である。嘘をつく者というのは、先ず自分自身をごまかして、理想を放棄して「意識から外して。」おかなければ他人を騙すことはできないのである。

 その意味において嘘つきは憐れである。業績のねつぞうをしてしまう研究者というのは、自分が今まで行ってきた行為を事後正当化しなければならなくなるという心理的な強迫観念が根底にある。多数他人からの評価報酬に反射的に従ってきた自分の行為を、事後的に正当化するためには、世間的な評価報酬を求めなければ自己自身では自己の精神的満足を得られないからである。

 多数他者への迎合ばかりに意識を奪われていれば、自律ができなくなるのは必然というものである。

 純粋行為としての自己満足を、「自慰的。」であると形容するのであれば。自己満足を自己自身で充足出来ずに多数他人という世間に求めることは一体何であろう。業績のねつぞう等というのは「他慰的。」行動に他ならず、これこそが社会的な負担、反社会的行動の根源となるのである。

 純粋な自己満足を満たすことができれば、多数他者からの評価報酬を過剰に求めることはなくなる。

 純粋行為を自慰的であると形容している時点で、そいつの脳は他人からの評価報酬以外に自分の脳を満たす術を知らないことの証明であり。極めて「不純。」なのである。そんな者が何を強弁しても公益的には全く無意味である。

 生物学界内部での多数決に迎合することしかできない、自律のない研究者が何を論じても公益的には無意味である。

 「人間について。」と標榜しておきながら、一方で「生存戦略。」を正当化するのであれば。これは二枚舌、ペテンでしかない。

 実質的に詐欺師に過ぎないのである。

end;



○KY

 チンパンジーやオオカミの群れの中では「空気を読まない。」或は「空気を読めない。」個体は排除の対象である。

 松沢哲郎がチンパンジーとコミュニケーションをとれるのは、いわばチンパンジー社会の「空気。」に合わせて迎合しているからである。

 もしチンパンジーの群れの中で、チンパンジーの習性に則ったコミュニケーションをとれなければ極めて危険な状況に陥る。これはカルト宗教やヤクザ、シエラレオネの少年ゲリラの内部においても同様のことが言える。

 チンパンジーやヤクザとコミュニケーションをとっても、人間としての社会性の論証にはならない。ゲリラに屈服して平和を獲得しても「成功。」とは言えないのである。

 子供達が勝手に作り出した「社会。」というものにおいても同様の傾向が見られ、子供達の内部における「空気。」を読まない子供が排除対象としてイジメに遭うのも、ヒトという種の生物における行動習性である。

 それに対して現在の生物学は、イジメの「程度。」を抑制する本能的習性を枚挙することによって、何が何でも習性だけで「ヒト=人間。」という方程式を正当化しようと試みる。しかし、どんなに本能習性的に「程度。」を抑制する仕組みを枚挙しても、その仕組みが常に働くことの論証にはならず。また、実際には働いていないことの方が圧倒的に多いのが実情である。

 どのような環境や状況において暴力性が抑制されるのかを発見しても、そもそも環境や状況に依存した行動習性である限り、結局自律的自発的に環境や状況を本能的に作り出すことができない以上、こうした暴力性の抑制本能の枚挙に意味はない。気分的に「暴力を振るいたい。」かどうかだけで行動が決定している限り、本能習性的には暴力性が常に働かないことの論証になど一切ならないからである。

 シエラレオネのゲリラに見られる残虐性というのは、ヒトという種の生物における「コミュニケーション能力。」「空気。」という、本能的な社会形成習性による強迫観念が作りだした暴走であり。本能的社会形成習性の純粋な発露でもある。



 「ゆとり教育。」の弊害というのは、子供達だけで集団社会を形成する時間的「ゆとり。」だけが増えたことによって、大人にとって扱い難い子供が増えたということであろう。詰め込み教育をしておけば大人にとって扱い易い従順な子供を増やすことは可能であろうが。現実には人間としての中身、自律的な社会的責任判断能力自体にさしたる違いはない。

 「ゆとり世代。」は大人にとっては扱い難いが、特に犯罪が多いわけでもないからである。

 大人にとって従順で扱い易いからといって、人間としての価値が高いわけではない。言い換えればバカな大人にとって扱い易いバカな子供に過ぎないからである。

 大人が作り出した社会に迎合するだけなら、大人が作り出した社会の問題を、問題とすら認識しないであろう。それなら問題は放置されるのは必然というものである。

 だが、ゆとり世代の多くは、単なる都合の良い放任主義によって放置された「ぷちゲリラ。」を量産しただけであり。子供の集団だけで「人間としての社会性。」を身につけることはできなかったのである。言い換えればバカな大人にとって扱い難いバカな子供にしかならなかったということである。大人にせよ子供にせよ、環境依存的に迎合するだけであるからバカのままなのである。自発的に環境を変えることができないのは、そもそも環境に迎合することばかりに意識を奪われ、何が問題なのかすら認識できないからである。

 学習内容の「量。」の問題や、ましてや服従性を無意識的強迫観念として植え付け刷り込み「学習。」させるための時間的な拘束によって「人間としての社会性。」が養われるわけではない。どんなに表面的に従順であろうと「人間としての社会性。」である自律的な社会的責任判断能力の論証にはならない。

 原発を暴走させた世代はゆとり世代ではない。年金を破綻させたのも同様である。バカな大人にとって従順で扱い易い子供をどんなに大量生産しても社会の問題が解決するわけではない。

 ゆとり世代が扱い難いからといって、あたかも学習内容の「量。」の問題にすりかえるのは短絡的であり。且つ論理的根拠が全く存在しない。

 強迫観念的に大人との「コミュニケーション能力。」を、権威や力を用いて強制することは簡単である。

 簡単なことしかやりたがらないから「バカ。」なのである。

 子供達に「人間としての社会性。」を養わせるためには、そこには教育を行う親大人の方に「人間としての社会性。」が不可欠である。子供は放置しておけば子供達内部での多数に迎合し、長時間拘束しておけば権威に服従するように刷り込み「学習。」させることも可能である。子供というのはヒトの本能習性が最も純粋に表面化するものなのである。

 とは言え、「大人。」の場合は表面的な取り繕いという「嘘。」が上手いだけであって、ゆとり世代は表面的に従順さを「アピール。」しないだけ「わかりやすい。」とも言える。



 「空気。」とは、社会環境や時代背景に依存した、大脳辺縁系によって促される本能的脅迫観念であり。野蛮な本能的社会形成習性によって促される「コミュニケーション能力。」の表出である。

 アイヒマン実験において被験者がどんなに権威に対して不平不満を強弁しても、それは自分の行動責任を権威に押し付けるための言い逃れ「布石。」や「防衛線。」のつもりで述べているだけであり。こうした気分的な行動だけに終始しているからこそ大多数の被験者(普通のヒト。)は権威に無意識的に服従してしまうのである。

 責任を負わなければならなくなるような恐怖心から「空気。」を読んだだけでは自律的な社会的責任判断にはならないのである。


 ヒトというのは進化的に他者との気分的関係性を維持することに固執するように「進化。」しており。本能的に多数他者に迎合することに強迫観念的に固執するような本能的仕組みが組み込まれている。それが「生存。」に直結していたからである。

 ヒトの進化過程においてシエラレオネの少年ゲリラのような社会状況があった場合。多数他者に迎合し、また暴力性を競って発揮するように淘汰「進化。」している可能性もある。無意味なお祭り騒ぎによって暴力性ホルモンを消費可能であることを論じても、お祭り騒ぎ自体が無意味であることに変わりはない。そもそもがホルモンによって行動が支配されていること自体が無意識的であり、経験則によって暴力性を抑制可能であるとしても、個体が本能自体を自律的に抑制できているわけではない。お祭り騒ぎをすればアイヒマン実験に引っ掛からなくなるようなものではない。お祭り騒ぎで原発の安全性が確保できるわけでもないのである。どのような「進化(変化)。」がヒトの習性として組み込まれているかはどうでもよろしい、最も重要なのは環境に左右されない論理検証性に基づく本質的な自律判断である。

 自然選択による「進化。」というのは、結果的に生存してさえいれば構わないのであって。そこに「人間。」にとって都合の良いような変化が必ず伴うことの論証にはならない。

 「概ね平和。」「概ね安全。」であることを枚挙しても、ホロコーストという残虐行為の反証にはならないのである。

 「概ね安全。」であることを断片的に立証しておけば、文系の理論的に考えられない大衆マスコミに気分的「安心。」を与え、思考を停止させておくことは簡単である。

 イジメによる子供の自殺というのは全体からすれば稀なことであり、「概ねイジメによる自殺は起きない。」のである。こうした大衆観念こそが社会安全性に対する「意識。」を奪う無意識性であることを、多くのヒトは認識したがらない。

 バカな大衆は「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと平気で言い出し。また、多数の無思考な大衆も論理的検証を放棄して、大衆観念に迎合し気分的に「安心。」して満足してしまう。原発の暴走は権威に服従しなかったから起きたとでもいうのであろうか。懲役刑の再犯率の高さは権威への服従迎合の放置に他ならない。

 論理検証性が伴わないから社会の問題がいつまでも放置されるのである。論理的に検証を行うのは意識であり、決して気分(本能)によって論理的検証が行われるわけではない。

 文系生物学者達による撹乱に対し、大衆マスコミは全く論理検証も批判精神も発揮することはない。彼らは自分達の観念に気分に満足し、安心して「考え。」ることを放棄したいのである。


 本能習性的には、本質的意識である論理検証性というのは「概ね働かない。」。断片的にエサなどの本能的な報酬を与える環境を作り出せば、断片的に高度な特定能力として与えられた問題に対する論理検証は行えるようにはなっても。それはそもそも「エサ。」に対する条件反射による機能の先鋭化でしかなく。「エサ。」が直接与えられない問題に対して論理的検証は全く行われない。だから生物学の観念は放置されるのである。

 生物学の内部においては「ヒトは人間。」でなくてはならず。また環境依存的な本能習性だけで行動の全てを説明することが「常識。」である。これに対して学力が高いだけのバカ研究者や学生達は全く反論できないし、また、するつもりもない。権威に反論しても成績という抽象化された「エサ。」が得られる確証がないからである。

 松沢哲郎のようなオカルト研究者を権威として扱うのは、生物学という極めて特殊な集団の内部における観念だけによって維持されているからである。これが科学ではないことは何度も述べた。

 生物学者達は直接的には暴力的ではないが、ヒトの暴力性を習性から否定するというのは社会的には充分暴力に加担しているのと等価である。

 生物学者達が振り回す「ヒト=人間。」という観念が、犯罪被害者に対する冒涜であるとは、恐らく犯罪被害者の多くも認識できていないであろう。

 習性論を枚挙すると話は混乱しか招かない。そもそも習性というのは論理的には「断片的な結果の枚挙。」であって、論理的普遍性の論証ではないからだ。

 動物の場合、それこそ自然選択による淘汰によって行動習性の均一化の結果、特定種の行動はほとんど99.99%普遍「的。」に観測することが可能であるため。行動習性=普遍性証明であると勝手に解釈することが可能である。動物というのは予め本能的に組み込まれた運命論的行動以外を自律的には選択できない。しかし、この話をヒトにまで応用してしまえば、ヒトの行動の全ては自然選択的な淘汰以外に自律的には選択不可能であることになってしまう。

 生物学者にとって自律的行動選択などあってはならないものなのである。従って従来の生物学の観念を振り回す限りにおいて、「ヒトとはどのような習性を持っているか。」を枚挙することはできても、「人間とは何か。」には構造原理的に言及不可能なのである。

 ヒトが人間足りうるためには、本能習性に対する運命論的呪縛から脱する論理的検証による自律的判断が不可欠である。習性の枚挙からは論理的検証は原理的に不可能であり、自律も原理的に抽出不能である。そもそも環境依存的に「抽出された自律。」では意味がない。たとえ自律のように見えるとしても、環境依存である限り本質的には自律であるとは言えないからだ。アイヒマン実験においても権威に服従しなくなりやすい環境というのは観測されている。これを「自律。」であるとは言えない。

 習性という結果論を議論しても、そこから自律的な判断というものは抽出されることはない。現在の生物学は無意味な議論を漫然と繰り返すだけのオカルトにしかなっていないのである。




 傾向性として、頭髪を整髪料で逆立てているような、外見に固執する研究者程、「生存戦略。」の観念に固執する傾向が見られる。「型。」や「形式。」という固定観念に基づいた「格好良さ。」に固執していれば、従来の生物学の観念に対する論理的検証性が働かないのも必然というものであろう。「教えられたことを鵜呑みにする。」というのは固定観念以外の何物でもないからである。

 外見を取り繕うような者であれば、科学者としてはポンコツであると考えるべきである。澤口俊之がどんなに「科学的。」であると強弁しても、澤口は養老に迎合したオカルト脳科学者であることは変えられないのである。

 断片的な他人の研究結果を、どんなにたくさん「知って。」いようとも。論理検証が伴わない上に統一的考えに基づく一貫性のある理論が全く存在しないのであれば。それは単なる知識のひけらかしによる外見上の権威性の取り繕いに過ぎない。

 未だに脳血流増加を論拠にした脳トレ類を、世間的にウケが良いからといって垂れ流すマスコミは悪質である。利き手と逆の手で文字を書く練習をしても、振り込め詐欺への耐性は身につかないし。アイヒマン実験に引っ掛からない論拠にもならないのである。

 本質的意識というものは、こうした短絡的トレーニングによって身につくようなものではない。

end;



○「人間らしさ。」

 「らしい。」というのは観念であって、雰囲気ものであって、「~っぽい。」とか「~風味。」に過ぎない。そもそも生物種として「ヒト。」でありさえすれば社会的責任選択を自律的に行う「人間。」であることの論証にはならず、「人間らしさ。」をどんなにたくさん枚挙しても「人間。」とは具体的論理的な論証には結び付かない。

 無関係な話に固執して本質をはぐらかす愚かさは罪である。本気で「人間とは何か。」を論じるつもりがないにも関わらず表面的に大衆のウケ狙いで「人間について。」などと標榜するのは単なるペテンであるからだ。


 オキシトシンによる気分的な信頼というのが常に持続可能性を担保してくれる保障などない。信頼関係というのは気分的なものであり、これはナチス政権下の内部でも、オウム真理教内部においても働いていたものである。振り込め詐欺師の集団内部においても同様であろう。彼らはオキシトシンが作り出した信頼関係によって反社会的行動を行うようになったのである。

 むしろ過剰なまでの信頼関係の構築こそが社会の破壊の原因とも成りうるのである。信頼関係というのは観念であって論理的根拠ではないのである。

 つまり、本能的シーケンスによる抑制というのは、環境条件次第ではどのような結果をもたらすかは一定ではなく。持続可能性の保障には全くならないのである。




 荒川河川敷の歩道を自転車で走っていると、時折暴走自転車を見かけることがある。自転車を高速で走行させているとテストステロンなどの興奮系ホルモンによってノルアドレナリン系神経回路を刺激し、気分的に荒くなる傾向があり。これが自転車乗りをケダモノへと変えるメカニズムであると考えられる。

 自転車というのは健康にも良く、省エネルギーでクリーンな乗り物であり。これからますます重要性を持つべきでもある。しかし、その運用においてヒトの本能的暴力性を抑制できなければ本当の意味において安全に普及させることができなくなりかねない。


 それはさておき。進化的に自転車で高速走行をすると暴力的になるシステムが組み込まれているからといって、システム「仕組み。」のままに暴力性を発揮していて「人間。」や「知能。」などとは言うことができない。

 進化的に暴力性を発揮するメカニズムに依らず、自律的に行動抑制をして初めて「人間。」と言うことが可能なのである。従って本能メカニズムしか抽出したがらない現在の生物学の手法では、「人間とは何か。」について構造原理的に言及できないのである。

 このことを認識できないマスコミの頭の悪さも許されるものではない。



 「人間とは何か。」について言及したがる者の多くは、何故か大衆迎合的なウケ狙いばかり追及しており。「ヒト=人間。」という大衆ウケの良い話をベースに話をしたがるペテン師が多すぎる。

 ヒトは、単に遺伝的な生物種を指すものであり。ヒトの全てが常に人間であることの論証などない。普通のヒトが概ね安全であることをどんなにたくさん抽出枚挙しても、社会安全性を高めるための知識には結び付くことはない。あくまで気分的な安心感や満足感を提供することにより、むしろ社会安全性についての意識を損なうことすらある。

 先天的、本能的にヒトの安全性を枚挙することによって大衆のご機嫌をうかがうような手口はペテンとしか言いようがない。

 ヒトの本能習性という「結果。」をどんなに枚挙しても、「人間とは何か。」については原理的に言及不能である。そこには人間としての「目的。」意識が欠落しているからである。

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