書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

戦略。

2013年04月25日 16時03分30秒 | 意識論関連
○戦略。

 「生存戦略。」などというのは頭の悪い生物学者の妄想に過ぎない。

 生物が結果的に生存に適した種に淘汰されているとしても、淘汰されなかったというのは偶発的「結果」に過ぎず。そこに意図的「目的」意識による戦略などというものが介在する余地などない。

 多剤耐性菌の淘汰過程において、菌自体が意識的に耐性を獲得「しよう。」として変異するわけではなく。あくまで結果的に耐性を獲得「してしまっている。」だけであって、菌自体に選択の余地などどこにも存在しないのである。

 そもそも「生存」自体が生物の「目的」であるとは言えず、結果的に「生存」していたものを生物と分類しているに過ぎないことを、多くの生物学者達は忘れているのである。



 ヒトは分類が好きである。

 「あの人は、こういう人だ。」などというレッテルを貼ることで気分的に安心満足することからも、ヒトという種の生物学は断定的規定による分類自体を目的と錯覚する習性があるのだ。

 分類は本来思考を整理するための手段であって、手段自体を目的と錯覚するのは思考の過剰整理に他ならない。

 ドーパミンは思考や行動を整理するが、その快楽というのは機械行動学習的に簡単に過剰整理に陥る性質がある。

 ニューラルネットワークによる人口知能/機械学習というのは、特定の能力を高速にこなすことには長けているが、あくまで機械的条件反射であることに変わりはないのである。

 どんなに言語能力が高く口達者なコミュニケーション能力の高い者であったとしても、それが短絡的に「自律的な社会的責任判断能力。」の論証にならないことと同じである。

 「知能」というものを文科系大衆マスコミが短絡的に学力だのコミュニケーション能力といった断片的な基準だけで測ろうとするのも、「知能とは、こういうものである。」という短絡的機械学習の結果であると言える。

 短絡的機械学習による多数派観念に意識を奪われているからこそ、文科系特有の大衆迎合というペテンが簡単に成立してしまうのである。

 現在の生物学者が「生存戦略」などと称して、あたかも生物の全ては生存のために知能を働かせているかのように形容したがるのも、従来のレッテルを鵜呑みにしている大衆の頭の悪さを利用して現状の組織体制維持のために利用しているのであって。これはいわば詐欺集団と構造的には同じである。

 「自然界は素晴らしい。」だの「生物は賢い」ことにしておけば、バカな文科系大衆の多くは気分的に安心満足して何も論理検証することはない。

 「全てを知り尽くしたような錯覚。」に陥っているからこそ、「自然界は絶対的。」などという観念に囚われているのであって、現在の生物学者の論理検証性の欠落というのは「結果」に対する事後正当化のための断片的論証によって、あたかも「結果」の全てが何者かの「目的」意識によってもたらされているかのようなオカルト観念によって、自分の考えが絶対であると勘違いして満足したいだけなのである。

 科学というのは本来「わかること。」と「わからないこと。」を明確に分別するものでなければならない。それこそ養老孟司のように「わからないなら、わからないなりに、わかったとする。そういうわかり方もあるのかと思って頂ければ幸いである。」などと支離滅裂な話を鵜呑みにするのを文科系大衆観念というのである。

 現在の生物学というのは、「生物は絶対的に最適化されている。」などと言い張るが。絶対的に最適化された生物とは一体なんであろうか。

 常に絶対に環境調和して種の存続や個体の生存に有利な行動を採る生物など実存するであろうか。

 ある特定環境に適応して、その環境において個体の生存だの種の存続だの環境調和に適しているとしても、それは特定環境に依存した「結果」以上の何も論証していないのである。

 「生物の目的は生存。」などと勝手に規定していること自体が現在の生物学のオカルト性なのであり。そこに何ら疑問を持たない時点で科学者としては出来損ないであり、論理検証性の欠如を意味するのである。

 自然は神が意図意識的に作り出したものなどではなく、あくまで自然という偶発性の「結果」に過ぎない。

 どんなに高度な生存のためのメカニズムを獲得しているとしても、それは結果的に生存していたという偶発性の産物に過ぎないのであって。如何なる意図目的も、それに伴う「戦略」も介在しえないのである。

 これを理解出来ない時点で科学者としてはポンコツである。どんなに学力偏差値が高くても、至極当然の理論を理解出来ないというのは科学者としての素養が全く出来ていないとしか言いようがない。




 竹が花をつけて交配し種子を作ったとして、親となる竹林が日差しを遮っている限り種子は成長出来ずに意味を為さない。その結果、種子を作った後に竹林全体が枯れるメカニズムを偶発的に持った種の竹だけが結果的に遺されただけであって。竹自体が目的意識をもって「戦略」として枯れるようになったわけではない。

 数十億年の生物進化の「結果」である現在の高等な生物相だけを観察していれば、あたかもそこに何らかの意図目的が存在するかのような錯覚を抱きかねないのかも知れないが。あくまで生物というのは結果的に生存していた「結果」以上の何も介在する余地は原理的にない。

 「結果」に対して正当化の屁理屈を並べ立てることは科学的論証には一切ならない。それが圧倒多数の文科系大衆やマスコミのご機嫌取りにはなっても大衆迎合以外の何物でもないのである。そして、こうした大衆迎合こそが社会的な科学としての役割の無責任な放棄でもある。




Ende;

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