○10㏄。
精液っていうのは一度に出る量が決まっています。なぜだかわかりますか?。
一人の配偶者に持っている全ての精子を托すよりも、複数の女に小出しにした方が種の保存に適した「結果。」だと考えられるのです。
ヒトの本能習性や機能といったものは、結果的に生存に適していさえすれば遺されるものであって。そんなものに神の意志が介在する余地など一切ありません。
これはあらゆる生物全般に言えることです。
自然界というのは神が作ったものではなく、あくまで自然の「結果」以上の何の意味もないのです。
生物学者達は自然の結果の全てが常に絶対的に正しい結果を導く完全なものであると論証したがりますが、そんなことは原理的に不可能なのです。
「神様は最適なものしか作らない。」などという話は大衆迎合に過ぎず、科学者としてはポンコツと言わざるを得ません。
原発や高速バスを暴走させ、虐殺を繰り返す「ヒト」という種の生物は神が作り出した完全無欠なものなどではなく。あくまでその場限りに都合良く生き残った種の性質が受け継がれているに過ぎません。
生物史において度重なる大絶滅が発生することからも、これは偶発的な暴走ゆえの結果であって。「生存」という結果自体にも何の保証も存在せず。生物自体、生命自体に「目的」意識など介在する余地など全くないのです。
「生命は素晴らしい。」だの、「自然は素晴らしい。」などと述べておけば、文科系大衆の多くは気分的に安心満足し、「生物学ならわかる。」などと勝手に科学的論証であると錯覚するが、これは現在の生物学自体が非科学的観念に基づいた大衆迎合に過ぎないからであって、全くもって科学としての社会的役割を果たしていない。
生物学者達は自然の結果の全てが常に絶対的で、これからも永遠に正しい結果をもたらすものであると錯覚させて大衆の脳を酔わせることで現状の組織体制を維持するというペテンを繰り返しているのである。
自然の結果が常に正しく、ヒトが完全無欠であるならば、どうしてヒトがこれ程バカなのであろうか。どうして何度も同じ過ちを繰り返すのであろうか。
ヒトという種の生物が作り出される進化過程において、そこに神が介在する余地など一切なく。あくまでその場限りに都合良く生存していた種の遺伝要因が遺されたに過ぎない。
すなはち、どんなにバカでも残虐でも「生きて」いさえすれば構わない。それが自然の「結果」というものの正体であり、こんなものに「神の意志」が介在する余地などあるわけがない。
ヒトが権威や多数派に服従迎合して暴力的差別排除を行う性質があるのも、加害者に回った者の方が生存に適した「結果」であると言える。
つまり、加害者の遺伝要因しか遺されていないのであり、ヒトというのは罪人の子孫、罪人の遺伝要因を持っているものなのである。ヒトという種の生物自体はサルやイヌと同じ「動物」に過ぎず、結果的に生存してさえいれば「生物」として存続することが可能であり、こうした「結果」だけを採り上げて絶対視するというのは言い換えれば「犯罪の事後正当化。」にしかならないのである。
自然というものは常に不完全なもので、その場限りの「結果」以上の何物ももたらすことはなく。「神の意志」などという「完全無欠な目的方向性。」など介在する余地は全くない。
野生に「罪」などという概念が存在するはずもなく。単にその場限りに気分的に嫌か好きかといったバイアスしか大脳辺縁系はもたらすことはない。だからこそヒトは原発の危険性を放置したり、戦争だの虐殺を繰り返すことに陥るのである。
自らの頭の悪さを認識することを、「プライドが傷つく」などと称して拒絶する習性がヒトにはあり。「プライド」などという気分的満足ばかりを追求しているからこそ、ヒトはバカから脱することが出来ないのである。
振り込め詐欺師に騙された者の多くが、「自分だけは大丈夫だと思っていた。」などと証言することからも、自分の頭の悪さを認識することを観念的に拒絶しているからこそ騙されるのである。
「自分を完全無欠の絶対神か何かだ。」とか「ヒトは神様が作ったものだ。」などと勘違いしているからこそ、ヒトはいつまでもバカが治らない。ヒトという種の生物は他者を出し抜き蹴落とし差別と暴力の結果によって淘汰されたケダモノの子孫に過ぎないのである。
「ヒトは素晴らしい。」などと称して生物種としての事後正当化の満足に溺れているからこそ、ヒトはいつまでも自分達の危険性や愚かさを認識することが出来ず。「プライド」などという身勝手な気分的満足ばかりを追求し続けるのである。
ヒトとはバカで暴力的な生物であるという前提に基づき、その危険性を認識しなければならないのである。そこに「プライド」などという観念論はクソの役にも立たないばかりか、害しかもたらさない。
いつの間にか「だ、である」調になっちゃったけど、くだらない観念に執着していることは無責任な社会的犯罪行為であると認識しなければならないのである。
「ヒトという種の生物は愚かで暴力的である。」とか、「お前さんがたの主張するプライドなんぞ、鼻クソだ。」などと言えば大衆人気が得られないのは充分承知の上である。本論は大衆迎合ではなく、あくまで社会持続可能性と安全性を追求することを目的としているのであって。その場しのぎのバカのご機嫌取りなど、どうでも良い些末な話に過ぎないからである。
「生命は素晴らしい。」だの「ヒトは平和的である。」などと言っておけば、バカな大衆の多くのご機嫌取りになり人気を得ることが可能であろう。だが、こうした非科学的大衆迎合で満足して論理検証を放棄しているからこそ、「これさえやっときゃ頭が良くなる。」的なエセ脳科学で満足し、あらゆる「人災」に対する根本的対策が全く進まないのである。
おいらの説明が下手くそなのはわかっている。それはおいらの頭の悪さに起因することもわかっているが、説明するスキルを向上させるつもりは特にない。バカで困るのは一義的にはおいら個人ではないからだ。
それでもバカが多いと社会全体の損失になり、結果的においらも放射性セシウムなどの被害を被ることにもなるので、面倒臭いし不本意だけど下手くそな説明を続けているのである。
それは非常に「微力」ではあるが、それを行使することを放棄するつもりは今のところない。
気分を害する話に対して、「心がない。」などと形容したり。「人間としていかがなものか。」などと実証不能の大衆観念を振り回すのは簡単であろう。それならバカには「心」があるのか、大衆迎合で人気取りをしておけば「人間」性の証明だとでも言うのであろうか。
何も「考え」ずに多数派大衆迎合に意識を奪われているからこそ「人間」としてポンコツなのである。
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ちなみに「10㏄」というのは3人合わせての量を意味するらしい。
Ende;
精液っていうのは一度に出る量が決まっています。なぜだかわかりますか?。
一人の配偶者に持っている全ての精子を托すよりも、複数の女に小出しにした方が種の保存に適した「結果。」だと考えられるのです。
ヒトの本能習性や機能といったものは、結果的に生存に適していさえすれば遺されるものであって。そんなものに神の意志が介在する余地など一切ありません。
これはあらゆる生物全般に言えることです。
自然界というのは神が作ったものではなく、あくまで自然の「結果」以上の何の意味もないのです。
生物学者達は自然の結果の全てが常に絶対的に正しい結果を導く完全なものであると論証したがりますが、そんなことは原理的に不可能なのです。
「神様は最適なものしか作らない。」などという話は大衆迎合に過ぎず、科学者としてはポンコツと言わざるを得ません。
原発や高速バスを暴走させ、虐殺を繰り返す「ヒト」という種の生物は神が作り出した完全無欠なものなどではなく。あくまでその場限りに都合良く生き残った種の性質が受け継がれているに過ぎません。
生物史において度重なる大絶滅が発生することからも、これは偶発的な暴走ゆえの結果であって。「生存」という結果自体にも何の保証も存在せず。生物自体、生命自体に「目的」意識など介在する余地など全くないのです。
「生命は素晴らしい。」だの、「自然は素晴らしい。」などと述べておけば、文科系大衆の多くは気分的に安心満足し、「生物学ならわかる。」などと勝手に科学的論証であると錯覚するが、これは現在の生物学自体が非科学的観念に基づいた大衆迎合に過ぎないからであって、全くもって科学としての社会的役割を果たしていない。
生物学者達は自然の結果の全てが常に絶対的で、これからも永遠に正しい結果をもたらすものであると錯覚させて大衆の脳を酔わせることで現状の組織体制を維持するというペテンを繰り返しているのである。
自然の結果が常に正しく、ヒトが完全無欠であるならば、どうしてヒトがこれ程バカなのであろうか。どうして何度も同じ過ちを繰り返すのであろうか。
ヒトという種の生物が作り出される進化過程において、そこに神が介在する余地など一切なく。あくまでその場限りに都合良く生存していた種の遺伝要因が遺されたに過ぎない。
すなはち、どんなにバカでも残虐でも「生きて」いさえすれば構わない。それが自然の「結果」というものの正体であり、こんなものに「神の意志」が介在する余地などあるわけがない。
ヒトが権威や多数派に服従迎合して暴力的差別排除を行う性質があるのも、加害者に回った者の方が生存に適した「結果」であると言える。
つまり、加害者の遺伝要因しか遺されていないのであり、ヒトというのは罪人の子孫、罪人の遺伝要因を持っているものなのである。ヒトという種の生物自体はサルやイヌと同じ「動物」に過ぎず、結果的に生存してさえいれば「生物」として存続することが可能であり、こうした「結果」だけを採り上げて絶対視するというのは言い換えれば「犯罪の事後正当化。」にしかならないのである。
自然というものは常に不完全なもので、その場限りの「結果」以上の何物ももたらすことはなく。「神の意志」などという「完全無欠な目的方向性。」など介在する余地は全くない。
野生に「罪」などという概念が存在するはずもなく。単にその場限りに気分的に嫌か好きかといったバイアスしか大脳辺縁系はもたらすことはない。だからこそヒトは原発の危険性を放置したり、戦争だの虐殺を繰り返すことに陥るのである。
自らの頭の悪さを認識することを、「プライドが傷つく」などと称して拒絶する習性がヒトにはあり。「プライド」などという気分的満足ばかりを追求しているからこそ、ヒトはバカから脱することが出来ないのである。
振り込め詐欺師に騙された者の多くが、「自分だけは大丈夫だと思っていた。」などと証言することからも、自分の頭の悪さを認識することを観念的に拒絶しているからこそ騙されるのである。
「自分を完全無欠の絶対神か何かだ。」とか「ヒトは神様が作ったものだ。」などと勘違いしているからこそ、ヒトはいつまでもバカが治らない。ヒトという種の生物は他者を出し抜き蹴落とし差別と暴力の結果によって淘汰されたケダモノの子孫に過ぎないのである。
「ヒトは素晴らしい。」などと称して生物種としての事後正当化の満足に溺れているからこそ、ヒトはいつまでも自分達の危険性や愚かさを認識することが出来ず。「プライド」などという身勝手な気分的満足ばかりを追求し続けるのである。
ヒトとはバカで暴力的な生物であるという前提に基づき、その危険性を認識しなければならないのである。そこに「プライド」などという観念論はクソの役にも立たないばかりか、害しかもたらさない。
いつの間にか「だ、である」調になっちゃったけど、くだらない観念に執着していることは無責任な社会的犯罪行為であると認識しなければならないのである。
「ヒトという種の生物は愚かで暴力的である。」とか、「お前さんがたの主張するプライドなんぞ、鼻クソだ。」などと言えば大衆人気が得られないのは充分承知の上である。本論は大衆迎合ではなく、あくまで社会持続可能性と安全性を追求することを目的としているのであって。その場しのぎのバカのご機嫌取りなど、どうでも良い些末な話に過ぎないからである。
「生命は素晴らしい。」だの「ヒトは平和的である。」などと言っておけば、バカな大衆の多くのご機嫌取りになり人気を得ることが可能であろう。だが、こうした非科学的大衆迎合で満足して論理検証を放棄しているからこそ、「これさえやっときゃ頭が良くなる。」的なエセ脳科学で満足し、あらゆる「人災」に対する根本的対策が全く進まないのである。
おいらの説明が下手くそなのはわかっている。それはおいらの頭の悪さに起因することもわかっているが、説明するスキルを向上させるつもりは特にない。バカで困るのは一義的にはおいら個人ではないからだ。
それでもバカが多いと社会全体の損失になり、結果的においらも放射性セシウムなどの被害を被ることにもなるので、面倒臭いし不本意だけど下手くそな説明を続けているのである。
それは非常に「微力」ではあるが、それを行使することを放棄するつもりは今のところない。
気分を害する話に対して、「心がない。」などと形容したり。「人間としていかがなものか。」などと実証不能の大衆観念を振り回すのは簡単であろう。それならバカには「心」があるのか、大衆迎合で人気取りをしておけば「人間」性の証明だとでも言うのであろうか。
何も「考え」ずに多数派大衆迎合に意識を奪われているからこそ「人間」としてポンコツなのである。
//-----
ちなみに「10㏄」というのは3人合わせての量を意味するらしい。
Ende;