2012.7.4
○自殺。
大津市中学2年生自殺事件において、自殺を練習させられていたなどというのはカルト宗教と全く同じである。
また、こうした事実を隠蔽していた教育委員会もまた、カルト宗教と何ら変わりはない。
イジメなどの統率的で異常な協調暴力行動とカルト宗教や通り魔を別物であると考えるのは大間違いである。
たまたま暴走の結果程度が毒ガステロなどによって、被害者の数の多さという結果だけで特別異常であると分類しがちであろうが、これは文系特有の大衆観念に過ぎず、論理的根拠など全くないのである。
統率的協調行動によって異常な暴力を誰も止めることが出来ない状態こそがカルトの構造であり、カルトとは誰にも目的意識/合理的論理検証抑制が働かない無意識暴走状態を指すのである。
教育委員会が率先して隠蔽/体制腐敗をしているというのは、いわばカルトを醸成しているようなものであり、極めて悪質である。言うなれば社会への反逆行為とも言える。
生徒/ヒトというものはイジメを行うものであり、イジメに陥る行動習性が存在することを前提にしなければ原因も対策も進むことはない。教育委員会は自分達の保身のために不祥事を隠蔽するというのは、そもそもイジメが発生することを過失であると短絡的に懲罰的処分を対策であると錯覚するのは大間違いである。頭をいくらすげかえても構造的原因がかわらなければ何も変わることはない。
失敗学/危険学のような工学的アプローチによってヒトという種の生物に普遍的に見られるカルト無意識状態に対する対策方法を確立するためには、責任=解任という短絡的な懲罰によって単に頭のすげかえばかりに終始するというのは、文系大衆観念的な気分的安心満足をしているだけのバカげた短絡的解決法である。
情報を可能な限り公にし、共有することによって、何が原因であるのかを追究しなければ何も問題は解決することはない。そもそもイジメという犯罪行為を個人情報として隠蔽する必要性など一切ないのである、犯罪者を隠蔽保護しておいて社会安全/防衛策など確立されるわけがない。未成年だからといって被害者だけが報道され、加害者が隠蔽されるというのは著しく公平性に欠けていることを認識すべきである。
加害者を隠蔽する理由とは、社会的制裁というヒステリックな懲罰を回避するためのものであろう。こうした大衆による観念こそが社会の諸問題の原因究明や再発防止策の確立を阻害する最も根源的「失敗。」なのである。加害者というものがなぜ加害者となったのかを冷静に論理的に分析することによって、これからのヒト達が同じ過ちに陥らないよう原因を究明し再発防止策を見つけることの重要性を、権威だけに丸投げせずに民衆自身が認識しなければ、文系大衆観念に迎合することばかりに執着する脳科学/生物学者達は自発的には何もしないからである。
結果的に自殺という重大な結果に至ったからといって、子供のイジメというものは普遍的に存在するものであって、何ら特異なものではなく、ヒトという種に普遍的に見られる習性であり。むしろ重大な結果に陥った事例こそが顕著な傾向性を示すものでもあり、徹底的に原因究明を行う必要性がある。ハインリッヒの法則にもあるように、一つの重大事象には多数の兆候や顕在化しない事象が隠れているものであり、特定事象だけの問題ではなく普遍的対策として原因究明をすることは本質的な社会的責任でもある。
地位だの利権の保持といった保身を優先に意識を奪われているから原因究明が途中放棄されてしまうのであり、文系大衆観念的な懲罰的解任解雇といった短絡的処理によって、むしろ原因究明や再発防止策が失われてしまうのである。
大衆観念的には不祥事が発生すると解任解雇で安心満足したがるヒトは多いであろう。しかしこうした感情的でヒステリックな短絡的最終解決策ばかり繰り返すことこそがバカげているのである。地位や権利を放棄すれば気分的には安心満足するであろうが、それと不祥事の原因は無関係である場合がほとんどである。
不祥事やアクシデントというもの、失敗というものはヒトである以上必ず起こすもの起こるものである。ましてや根源的原因究明が全く行われておらず、何ら対策法が確立されていないアクシデントであれば再発することは当たり前であり、文系観念的に懲罰的解決法を繰り返しても全く無意味なのである。
アクシデントにおいて最優先されるべきは責任の所在「悪者探し。」ではなく、論理的な原因究明でなくてはならない。どのような原因究明を具体的に行っているのかを透明化し、その具体的な対策こそを評価すべきであって、アクシデントの発生の有無自体を直接評価とするのは理論的にも間違いなのである。
「失敗。」は必ず発生する。失敗すること自体を悪とするのではなく、失敗に基づいた適切な原因究明と対策を行わずに懲罰刑罰によって安心満足してしまう頭の悪さこそが人類全体における最大の「失敗。」であることを認識すべきである。
文系大衆観念上においては、ヒトは懲罰的な恐怖によって社会的責任を負うものであるとされているであろう。しかし「誰も見ていない。」状況環境においても自発的自律的に社会的責任を負うためには懲罰云々ではなく、あくまで個人が自発的自律的に統合的な本質的合理性を追究しなければならない。文系大衆観念によって自律的な社会的責任判断というものを無視してきたからこそ、人類は教訓を教訓として活かすことが出来ないのである。
責任逃れという目先の欲望が優先してしまうから本質的合理性追究が途中放棄されてしまうのであり。これこそが社会的責任を放棄し、人間としての価値を失うことに陥るのである。どのような社会制度や環境、多数派の観念があろうとも、自発的/自律的に社会的責任判断を行う「人間。」でなければ権威や責任あるポストに就かせるべきではない。自律を絶対優先できないようなバカ文系学者はあらゆる学会から排除するべきなのである。
馴れ合いで多数他人の顔色でしか判断できないようなバカが権威に就いているから世の中おかしくなるのだ。
アイヒマン実験において、無意識的本能的に他人に危害を加えてしまうことはイノセントであろう。当人に罪の意識が存在しないのであれば、これは子供じみた単なる失敗に過ぎない。刑法などの懲罰によって安心満足するという子供じみた最終解決策を漫然と盲目的に信頼し続けることこそが、失敗から教訓を学ばなくなるヒトという種全体に見られる「失敗。」の原因なのである。
無責任に権威や多数に丸投げしておけば、大衆凡民は安心満足であろう。しかしこうした安心満足という気分感情/精神の救済ばかりを優先追究しているからこそ、あらゆるヒトが引き起こす諸問題の解決策が喪失してしまうのである。
ドストエフスキーなんぞ読んで満足しているポンコツ哲学者というのは、むしろ社会的負荷に過ぎず、税金の無駄遣いも甚だしい。具体的で合理性を伴う工学的な対策を伴わない文系特有の気分的満足こそが、失敗から教訓的に学ぶことを阻害する原因なのである。
論理的に考えることが嫌な奴が哲学者として扱われているのが現在の大学の現状である。これこそが社会的負荷なのである。
学生のイジメも、教育委員会の隠蔽も、カルト宗教も通り魔も北朝鮮体制も、これらは組織集団によって行われる統率的協調行動の結果である。本能的な社会形成習性によって結果的/無意識的に行われる統率/協調行動自体には意味はない。統率/協調行動という力を何に使うのか、その方向性を選択するのは論理的合理性を追究する本質的意識である。方向性を持たない統率/協調行動だからこそ、それがイジメや体制腐敗といった反社会的「結果。」を招いてしまうのである。
懲罰という、精神論的な短絡解決策で安心満足してしまうから思考停止に陥り、原因究明も対策も行われなくなってしまうのである。失敗学などの工学的アプローチにおいても、刑法などの世間的懲罰こそが原因究明の大きな壁となっているのであり、故においらは刑法廃止論を提唱するのである。少なくとも原因や対策が明確になっていない事象に関しては一時的にでも懲罰による「解決。」を停止し、徹底的に原因究明を行う必要性がある。
政治の問題というのは民主主義制度国家においては、民衆の責任であることを忘れるべきではない。議員先生様に丸投げお任せパターナリズムを発揮して満足していることは、単なる無責任であり未失の反社会的行動選択でもある。
以前自殺対策としての精神的救済の必要性についてコメントを頂いたことがあるが、こうした精神的/気分的救済というものは対処療法的な一時的でその場限りの臨床的対策以上の価値はない。イジメなどのカルト的統率/協調行動という根源的なヒトの習性に対する対策を行わなければ、根本的に自殺対策にはならないのである。
臨床とは、言うなれば現場の正義でしかないのである。臨床医学だけに自殺対策を丸投げしておくことは、むしろ社会全体の無責任性とも言えるのである。
自殺という「結果。」だけを基準にして、自殺する人だけに問題が存在するかのように論ずるのは間違いである。個人の尊厳に基づいた自殺であれば、むしろ人間として正しいと言うことが出来るであろう。
メキシコの麻薬組織の異常性の高さというものは、メキシコにおける民衆の無責任性の結果とも言えるであろう。故に自殺率が低いのであれば、これは何の自慢にもならない。
オウム教団の異常性の原因を知りたいのであれば、中学生のイジメやシエラレオネの少年ゲリラの異常性についても共通する「ヒト。」の性質習性について分析する必要性がある。自分の親類が被害に遭った事象だけを見ていても、ヒトという種全体に見られる普遍的習性が原因には辿り着くことが出来ない。それは言わば意識狭窄でもあり、感情的な無責任行動でもある。
直接加害者だけを感情的に拒絶排除差別していても、自分自身の内部にも存在するヒト共通の原因の認識にはならない。被害者や被害者遺族であるからといって、それが全人的な聖人君子であることの論証にはならず、ヒステリックな正義によって短絡的解決を許されて良い論証など存在しないのである。偶発的に被害に遭ったからといって、懲罰だけで満足することは社会的正当性にはならない。「考える。」ことをしないのであれば、これはすなはち人間とすら言うことは出来ないのである。
Ende;